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ユースワークは「する」ものなのか。

僕の頭の中のただのモヤモヤなのだが、「ユースワークする」という言葉って成立して良いのだろうか。あくまでも僕は、ユースワークというのが若者がいる環境で発生している現象のような気がしていて、「ユースワークする」という言葉がどうも気になる。(いままで自分がその言葉を使っていたかどうかも鮮明ではないが、、)
ユースセンターは施設、ユースワーカーは人というのはわかる。「ユースワークをする人」=ユースワーカーという理解なのか。僕にとっては、ユースワーカーはユースワークに携わる人間であって、「する」というふうになると、なんかユースワーカーの主体性が強い印象を受けてしまうというかなんというか。ユースワークの主体は若者であるべきかと感じるので。ただ、ユースワーカーは熱心な方が多いので、主体性という意味合いでは間違っていないのかも知れないが。。
どうもこうもこういった小さいことが気になる。日本語をしっかり操れている自信もないので、もしかしたら僕のちっぽけな気になるポイントは、普通に補えてるのかも知れないし。。そこらへんが少しはっきりしないこの頃。
ただ、「する」がついただけで、ユースワークを若者に対する一歩通行的に感じてしまう人がいるのではないかとも思ってしまうわけで、、うーーーん。。。
そもそも僕はそんなにユースワークとか、若者支援とかいう言葉を得意とはしないんだろうけども、僕の描くユースワークは、僕がワーカーとしてするものではない、という認識のせいでこうなっているのかな。ユースワーカーを確立したいがあまり、どこかユースワークという言葉が相互学習の感覚というか、人間の平等さにかけてしまう気がしてならないのは僕だけだろうか。
まぁ、メディアとしての言葉にそれほどの期待をして良いのかわからないが、「ユースワークする」「ユースワークしている」という言葉を聞くと、しっくりこない自分がいる。
そもそも、「ユースワークする」のユースワークの部分が、抽象的すぎるのも問題なのかもしれない。伝わる感じがしないというか、主観的すぎるというか。ただ、横文字が並んでよく分からない言葉でかっこよい感じがしなくもない。僕には、第三者のユースワークに想いのある他者が、その現場をユースワークのニュアンスにあると語ったとき、そこがユースワークの発生した現場となる感じがするのかなって思ったり。「ユースワーク」が誰かの価値観による意味付けとして、用いられるべきというか。
考えれば考えるほどもやもやが溜まって行く一方なので、いつか誰かと深めたいなーと思う今日でした。

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