文芸批評断章30-33
30.
カズオ・イシグロの「遠い山なみの光」について。訳者の小野寺健は、この小説では人間が不条理な状況にいながらも希望が描かれているとするが、その希望は「強く明るい希望の光でも、逆に真っ暗な絶望の光でもなく、両者の中間の「薄明」」だという。確かに薄明である。それは希望であるのだから夜明けのそれである。しかも薄明性は希望のみに非ず。それぞれの登場人物を取り巻く重苦しい状況は、主に各人の何度もの語りを通して徐々に立ち現れてくるところなんぞも、まさに薄明である。人々が対立するにしても、殴るの刺すのがないというのも、言い争いをするにしても、たいていは明確に言語化される前に争いが中途で終わるという点でも、状況が強い光に照らされないので、薄明である。
私はこの薄明性でふとヴィクトル・エリセを思い出す。スペイン語圏にはヴィクトル・エリセという映画監督がおり、彼の「みつばちのささやき」という作品のシーンには薄明があり明暗の対照があり、レンブラントの絵画に似たところが散見されるが、私はこの小説を読み進めつつ、ヴィクトル・エリセの映画を連想したのである。イシグロの短編集「夜想曲」には、この薄明性は必ずしも見いだされないのであるが。
31.
欠落しているものを読者が想像で補うことがあり、それは読者の精神をして活発にならしめることであるので、読者はより人間的になる(想像力は人間の本性でもあるから)。これは欠落の心理的効用だ。また欠落を欠落として味わうこともある。読者の想像力は活性化せずにある種のしみじみとした無常を味わう。こうして欠如を堪能するという鑑賞行為により読者はより人間的になる。余白の美学だ。そして暗示もまた欠落だ、というのも明確にしないので理解に余白が生じるからだ。
32.
ヴァージニア・ウルフの「キュウ植物園」と横光利一の「蝿」には類似点がある。どちらも虫の視点から事物を描写する場面がある(ウルフはカタツムリであり、横光利一は蝿である)。どちらも登場人物の言動の記述を専らにして内面描写には及び腰だ。だから人物の各々がどのような精神状態にあるのかは、暗示されているだけなので、読み手の能動的解釈が要請される(とはいえ、横光利一のほうは人物の言動から容易に推測できるのだが)。どちらも従来の表現形態に飽き足らぬところがある(ウルフはモダニズムであり、横光利一は新感覚派だ)。ウルフのは最後は人物たちは「金と緑の空気のなかに水滴のようにとけて」いき、また植物の記述に始まり植物の記述に終わるのに対し、横光利一のは蝿に始まり蝿に終わり、かつ登場する生物はすべて(おそらくは)死んで無に帰する。
33.
詩は美を追い求め小説は人生を深める。両者は求めるものが違うので、詩人と作家が想像力を働かせれば異なるタイプの描写が得られる。
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