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運動否定論8 無限反復の背理 ―マハーヴィーラと竜樹からゼノンとアリストテレスへ―

ある観点からすると、マハーヴィーラと竜樹の同義反復の背理から、ゼノンの運動否定論とアリストテレスの第三者論へと至る。

マハーヴィーラは、同義反復は背理であるという。有るものの本質は存在でも非存在でもない。もし「有るものの本質は存在である」と言ったとすれば、「有る」と「存在する」とは同義であり、また「存在する」と「存在である」も本質的には同一である。だから、件の命題は「存在であるものの本質は存在である」となり、「頭痛が痛い」(=痛い頭が痛い)という表現と同一の論理的構成をもつことになり、背理である。同義反復は背理なのである。

一方、竜樹は「去りつつある者が去る」というのはあり得ないとして運動を否定した。この命題は「去る者は去る」と論理的には同内容であり、すると「痛い頭が痛い」と同一の論理的構成を持っている。竜樹によれば、一つの主語が同時に二つの述語を従えるのは不合理であるとして、「去りつつある者が去る」ことはできないと言い、かくして運動が否定される。(そしてこの論法でいえば、「有るものは有り、有らぬものは有らぬ」というパルメニデスの命題も背理に他ならない。竜樹は遠くパルメニデスを密かに難ずるのである。)

さて、ゼノンとアリストテレスである。

ゼノンは運動を否定した。ある地点に走っていくためには、まずその半分の地点にまで到達しなければならず、そのためにはまたその半分の地点にまで到達しなければならない。走者はある地点にまで至るためには、その半分の距離を走り、そのまた半分の距離を走るのであり、ここに同義反復が生じる。なぜなら「走者は目的地までの半分を走るためにその半分を走る」からである。そしてゼノンの場合は、これだけでは済まない。ゼノンの走者はさらにその半分を走り、そしてさらにそのまた半分を走り、これが永遠に続き、いつまでたっても走者は目的地には到達できないのである。これは無限反復である。一名、無限後退である。

アリストテレスの第三者論によれば、個物はイデアを模倣することによって存在するという考えは否定される。なぜなら、個物がイデアを模倣するためには両者を仲介する第三者が必要である。次に、個物と第三者を媒介する第二の第三者が必要となり、さらに個物と第二の第三者を媒介する第三の第三者が必要となり、かくして無限数の第三者が必要となり、無限であるので個物は永遠にイデアには至らないことになる。個物がイデアを模倣するには無限に類似する必要があり、無限に類似するということは無限反復であり無限後退である。無限であるのだから個物は永遠にイデアには至らない。個物はイデアを模倣なんぞできないのである。

マハーヴィーラと竜樹は、同義反復は背理であるとする。それに対して、ゼノンとアリストテレスは、無限反復は背理であるとみなす。運動否定論についていえば、竜樹説では走者は同義反復し、同義反復は背理だから運動は否定される。それに対して、ゼノン説では走者は無限反復し、無限反復は背理だから運動は否定される。同義反復の発展形が無限反復であるかもしれないのである。


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