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鄧析の無窮の辞


こんにちは。トンてつクラブの部長、さとうひろしです。前回に引き続き、鄧析の思想について語っていきたいと思います。

鄧析は古代中国の論理学派、名家の先駆者でしたね。鄧析は「両可の説」と「無窮の辞」で有名です。ここでは、鄧析の無窮の辞について、進めていこうかと思っています。では、天野鎮雄の「公孫竜子」という本に沿って、私なりに鄧析の無窮の辞を説明していきたいと思います。

・第一の命題
無窮の辞については、まあ、言ってみれば、三つの命題から成り立っています。一つ一つ解説していきましょう。まず、第一の命題の前半は、私なりに現代の日本語に訳せば、こんな感じです。

物の体積をどんどん大きくしていくとして、最大にまで到って、もはや外部が存在しなくなった時、これを「一なる物を無限大にする」という。

どういったことでしょうか。1キロ先に目的地があるとします。1キロ歩けば、目的地に着きますね。100先に目的地があったとしても、100キロ頑張っていけば、目的地に着きますね。では、無限の彼方に目的地があったとすれば、どうでしょうか。その場合には、無限の距離を歩き終えれば、目的地に到達することになります。しかし、無限の彼方にあるということは、無限の距離があるということであり、無限の距離があるということは、どこまで歩いて行こうにも、いつまたっても、目的地には到達できない、ということです。無限の彼方に目的地がある、ってことは、無限に進めば目的地に到達できる、ってことであり、同時に、無限に進み続けなければならないので、絶対に目的地にはたどり着けない、ということなんですね。

ここでは、無限の距離を進み終えて到達した一点を、「到達点としての無限」と呼びましょう。そして、永久に進み続けなければならない無限を、「過程としての無限」と名づけてみましょう。すると、無限概念には二つのものがある、ということになりそうです。そうすると、第一の命題の前半では、無限大に至っているのですから、鄧析は到達点としての無限に言及していることになります。そして、第一の命題の後半は、こういった調子になります。

物の体積をどんどん小さくするとして、最小にまで到って、もはや内部が存在しなくなった時、これを一なる物を無限小にする、という。

これも、同じように考えればいいですね。そして、無限小にまで到っているのですから、こちらも到達点としての無限について述べている、と考えていいでしょう。以上、第一の無限論でした。


・第二の命題
名家の諸命題は荘子や荀子などの書物に名家の説として断片的に結論だけが引用されているだけなんですね。だから、正直なところ、名家の誰が、どんな意見を抱いていたのか、よくわかっていないんです。ここでは、鄧析は無窮の辞について述べた、という記録から、無限に言及している命題を鄧析のものだとして、紹介しています。では、鄧析の無限論について、第二の命題に進みます。こんなふうに訳せるでしょうか。

一尺の長さのムチがあるとして、それを毎日半分ずつ取っていくとしても、ムチは永遠に尽きることはない。

つまり、ムチをずっと半分に分割し続けるとしたら、永久に分割し続けなければならない、というんですね。ムチを無限小の大きさにまでもってくる、ということはできない、と言うんですね。無限小という一点には到ることはできない、と言っているので、これは「過程としての無限」について述べている、ということができそうです。第一の命題は、到達点としての無限であって、この第二の命題は過程としての無限に触れているんですね。

・第三の命題
最期の命題です。まあ、こんな感じです。

厚さのない物は、積みあげることはできないが、それでも積み上げていくと、その大きさはついに無限大になる。

無限小の大きさ、ってのは、要は、体積の無い物体ですから、無や虚無にも等しいものです。幾何学上の点には大きさが無いと言いますが、それと似たものでしょう。体積のない物体ですから、積みあげるわけにもいきません。いきませんが、それをどんどん積み上げるとしたら、その大きさはやがて無限大にも到るでしょう。そんなふうに鄧析は言うのです。どうして体積のない物体を積み上げることができるのでしょうか。それは無限と有限との間は移行できるから、なのです。そういえば、第二の命題はムチをどんなに半分割し続けようとも、永久にムチはなくならない、と言っていましたね。ムチという有限的物質を半分に分割し続けていくと、無限にその半分割が続くのですから、有限から無限へと移行しているのです。このように、有限から無限へ、あるいは、無限から有限へ、移行ができるのです。この体積のない物体を積み上げていく、という行為もまた無限小から有限大への移行を表しているのです(なお、このことを天野鎮雄は「移行の論理」と呼んでいます)。そして、今度は有限大から無限大への移行が述べられます。なぜって、積みあげられた物体は、いつしか無限の大きさへと到るからです。ここでいう「千里」とは、無限大を具象的に表現したものだと考えられます。つまり、無限小なるものを積み重ねていくと、有限大なるものとなり、それがいつしか無限大なるものになる、と言うのです。無限から有限へ、そしてまた有限から無限へと、移行しているのです。

以上が鄧析の無窮の辞とされる三命題でした。私たちの暮らすこの世界は有限的です。宇宙がいかに大きいとしても、やはり有限であるようにも思われます(たぶん…)。この有限的世界に暮らす私たち有限的存在は、なぜか無限について考える知力をもっているのですね。不思議な事だと思います。しかし、有限的存在である私たちが無限についてあれこれ考えると、至る所で、混乱をきたすようにも思われます。この動画も、いろんな意味で混乱をもたらしたかもしれません。しかし、それはもはや私の解説が下手、というよりは、無限論自体にそういった性質があるのではないでしょうか。なんとなく、カントのアンチノミーなる概念を連想しますね(詳しくは知りませんが)。…なんぞと言い訳めいたことをしたところで、今回の動画はお開きとしたいと思います。次回は鄧析の無限論とゼノンの運動否定論や、アリストテレスの無限論との比較なんぞを、やってみたいと考えてみたいと思います。乞うご期待!トンてつクラブの部長、さとうひろしでした。

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