正義論覚書
等価交換が正義だと考える。太郎が次郎に百円貸したら次郎は太郎に百円返すのであり、これが等価交換で正義だ。太郎が困っている次郎を助けるとしたら、困っている次郎は太郎にお返しはできないので非等価交換であり不正義といえばそうなのだが、後に困窮から脱した次郎が誰か困っている人を助けるとしたら、援助は太郎には返ってこないが、ある意味では同等のものが別の人に返されているので、非対称的ながら等価交換だ。
太郎の次郎への行為はそれだけ取り出せば太郎の次郎への一方的慈善だが、次郎の後の行為まで見れば非対称的ながら等価交換の正義となる。つまり、恩恵は正義に収斂される等価交換は自然界の根本原理であり、人は自然界の内にのみ存在するので自然界の原理に逆らっては存在し得ない。作用反作用の法則であれ質量保存則であれ、自然界の法則一般が等価性から自由になれないのならば、そして等価性が正義を成すとすれば、さらに人間社会も等価交換から成り立つとすれば、正義は自然界に由来して人間社会を成立させるための本質であり、正義が等価交換ならば恩恵もまた正義に還元できる、となる。
正義についてはここ20年程つらつら考えてきた私の一主題であり、私の仮結論としては「正義=等価交換」となるのだ。
契約の正義も手続き的正義も、それまで暗黙の約束に従って行っていた等価交換の明示化となる。また明示化される前の非明示的等価交換は黙約と言える。私見では、契約の正義も手続き的正義も黙約もまた等価交換的正義に還元できる。
等価交換とは等しい価値の交換だが、厄介なのは価値なる概念で、価値は個人差があり(株価の変動を見てもわかるように)時々刻々と変わっていく。価値は主観的でもあれば可変的でもある。しかし、だからといって価値なるものが存在しないとは言えない。何が正義であるかを決定する審級は重層的だ。
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