シェリング『人間的自由の本質』覚書5-9

『人間的自由の本質』は岩波文庫、 西谷啓治訳を用いた。

5.悪

(p.76-77)悪を為し得るのは人間のみなので、悪の根拠は欠乏に非ず。キリスト教的には悪魔は最も制限された被造物に非ず、最も制限されざる被造物だ。形而上学的不完全性は悪に非ず。悪の根拠は自然の含む最高の積極性にある。悪の根拠は根底にあり。

ライプニッツは言う、意志は善に向けて努力し、神の如く完全たろうとするが、悦楽の虜となって努力を忘れ、この欠如(=努力できずして完全たらんとしないこと)こそ悪の成立をもたらすのだ、と。

ライプニッツは欠如を慣性に見出す。慣性に物質の根源的(=あらゆる行動に先行する)制限性(=欠如)が見られる。質量の異なる二物体が、同じ衝動力により異なる速度で動かされる時、一方の運動が緩慢である理由は衝動力にあるのでなく、物質の特性たる惰性への傾向にあり、すなわち物質の制限性(=欠如)にあるのだ。

シェリングは反論する。しかし慣性は欠如でなく、物体がよって以て自己の自立性を固持せんとする力の表現であり、根底に由来するところの物の内的我性であり、欠如のような消極的なものでなく、むしろ積極的なものなのだ。

6.慣性私見

以下、慣性に関する私見。
1)弱い力を加えられた物は遅い速度で移動して、より高速にはならない。本来ならば神の要求する高速で移動すべきだが、物は慣性に従って楽な運動をしており、努力を忘れて楽になっているという点で悦楽の虜となっている。本来の速度に達しないので消極的かつ欠如であり、これがライプニッツ的悪だ。
2)しかしシェリング的には、物の個性は慣性において表現されるので、慣性は物をして物たらしめる本質であり、故に慣性は消極的欠如でなくして積極的なるものだ。
3)私はこう考える。物における慣性は人における習慣だ。習慣は人において最も楽なものであり(習慣に逆らうのは容易でない)、かつ、ある人をしてその人たらしめるところの個性だ(習慣は千差万別であって生活上の指紋の如きだ)。人における習慣は物における慣性だから、物の慣性は悦楽であると同時に個性でもあるので、善悪云々はさて置くとしても、ライプニッツ的慣性悦楽説もシェリング的慣性個性説も成立する。

7.善と悪の全体性

「積極的なるものは常に全体または統一である。これに対立するものは全体の分裂、諸力の不調和または失調(Ataxie)である。分裂された全体のうちには、一致した全体のうちにあったと同じ要素がある。両者のうちの実質的なるものは同じである」(p.81)

「悪のうちには善のうちにと同様にある本質がなければならず、しかも前者のうちにある本質は善に対立するもので、善のうちに含まれている平調(Temperatur)を変調(Distemperratur)に逆倒せしめるものでなければならぬ」(p.81-82)

疾病は死によって終結し、一つ一つの音はそれだけでは不調和を形成しない。偽りの統一を説明するためには積極的なるものが必要であり、積極的なるものは悪のうちに必然的に想定されるが、自然の独立なる根底のうちに自由の或る根が認められて始めて説明され得る(p.82)。

私見。真の病気であれば、体の一部の変調が全身に及んで死をもたらす。真の病気は積極的かつ全体的だ。病気が体の一部を冒しただけで治ったとすれば、病気は消極的かつ部分的だったというよりは全身に及ぶ前に防がれたと解釈すべきであって、病気自体は消極的でも部分的でもないのだ。

8.悪

「悪の唯一の根拠は感性に、或いは動物性に、或いは地上的原理に存する」(p.83)という見解があるが、それでは悪が原理により必然的に生じることになり、「悪への方向には明らかに何らの自由も存しない」(p.83)ことになり、悪は自由によるという立場からすれば、「悪は全く廃棄される」(p83)ことになる。悪が必然的原理に従って生じるならば、人間は受動的となり、主体性を失い、しかも悪が自然的本性から生じているので客観的には悪とは言えず、無意味なものとなる。

善は単なる善のみであるのでなく、「我性と結合された、すなわち精神にまで高揚された」(p.84)善の原理であり、悪は単なる有限性としての悪でなく、「中心との親和に齎された闇(くら)い或いは我性的な原理から結果する」(p.85)ものだ。つまり、人間の精神においては善悪結合して働くのであって、善のみが働くことも悪のみが有限性として働くこともない。悪は「善と戦いつつある原理としての悪」(p.86)なのであり、善悪は闘争上の原理なのだ。

9.存在から実存へ

存在論的証明では神の属性として存在があり、または神と存在は一体だった。「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」というヘーゲルの命題は、現実的なものが存在であり理性的なものが神であれば、存在論的証明に連なる。シェリングは神と存在を切り離し、存在を実存とした。

神はそれより大なるものが存在しない者だ。私には神の観念があるが、神が観念にのみあって現実にないとすれば、それより大なるものが存在しないという神の性質に反する。故に、神は存在する。これが神の存在論的証明だが、これは神の属性として存在を考えている。これがアンセルムスによる神の存在論的証明だ。

神が存在すると言う時、ここには「神」と「存在する」という二つのものがあるが、すると「神」と「存在する」とは別々になる。「神」だけでは「神は存在する」とは言えぬ。同様に、「存在する」だけでも「神は存在する」と言えぬ。すると「神は存在する」と言うためには、「神」と神ならざる「存在」にも言及しなければならぬ。神は神のみでは神の存在は確実にはならぬのであり、この存在が根拠に由来することになる。根拠は神の内にありながら神とは異なるものだ。これがシェリングの弁だ。

アンセルムスは神の一属性として存在を考えるが、シェリングは神と存在=根拠は一体ながら別々とみなすのだ。ここに存在から実存への移行が見られるのだ。

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