原理または統御者としてのアルケー

タレスは「万物は神々に充ちている」といい、これは「宇宙全体のうちに魂が混合されている」という命題と等価であるとされる[1]。またタレスは「磁石は鉄を動かすので魂をもつ」と主張しており、こちらは「魂は動者である」という命題と等価であるとされる[1]。すると、神々は魂であり動者である、となる。魂は万物に内在するのだから、そして万物の元素が水なのであるから、従って魂とは水である、とも言えそうである。ここに統御的原理としての水が確認される。これが物活論の本旨なのである。

アナクシマンドロスはと言えば、「無限なるもの…は他のものどもの始源であって、凡てのものを “包括し”、凡てのものを“操る”ように思われる。…またそれは神的なるものである。」(『自然学』アリストテレス)[1]という。アナクシメネスは「われわれの魂が空気であって、われわれを統括しているように、気息、すなわち空気が世界全体を包擁している」(アエティオス)[1]という。アナクシマンドロスもアナクシメネスもタレスとともに万物の元素たるものが同時に万物の統御者でもあるのである。

物は変化し運動するが、変化については生成と成長があり、衰退と消滅がある。統御的原理とは万物の運動と変化を司る抽象的働きである。さて、ヘラクレイトスは「…万物はこのロゴスに従って生成している」(『諸学者論駁』セクストス・エムペリコイ)[1]と言い、また「自分自身を成長させるロゴスは魂に固有のものだ」(『詩華集』ストバイオス)[1]と言う。どうもロゴスは生成と成長を支配しているようである。そして「…万物は運命によって生じ、存在するものは相反する道によって調和を保っている」(『哲学者列伝』ディオゲネス・ラエルティオス)[1]とも言うので、ロゴスとは運命であり、かつロゴスは事物の対立性そのものでもあるのだろう。また、ヘラクレイトスは「すべてのものに、火が近づき来って、裁き、宣告するだろう」(『全異教徒論駁』ヒュッポリトス)[1]と言い、そして「万物の舵を操るは雷電」(『全異教徒論駁』ヒュッポリトス)[1]とも言うが、この雷電とは火の別名ではなかろうか。すると、ここでは元素と統御的原理とが分離しつつある状態にあることがわかる。生成と成長とを司るのはロゴスであり、かつ消滅を宣告するのは火であり、のみならず雷電たる火は万物を操りもするのであるから、万物の運動と変化を引き起こすのは統御的原理たるロゴスであると同時に元素の火でもあるからである。すなわち、タレスやアナクシメネスでは元素が同時に統御的原理であったのが、ヘラクレイトスにおいては元素の他に何らかの統御する主体が生じつつあったのであり、これをヘラクレイトスはロゴスや運命と呼んだのであり、これが後に原理と呼ばれることになるのである。

ヘラクレイトス以降の諸子は、原理と元素の関係をどう見るのであろうか。エンペドクレスから見てみよう。エンペドクレスは言う、「…或る時は愛によって凡てのものは一つに集いつつ、また或る時には逆に争の憎によってそれぞれ別れつきつつ」(『アリストテレス自然学の注釈』シンプリキウス)[1]と。ここでは、四元素は愛の時代には結合するのだが、憎の時代には分離するとなっており、四元素に結合と分離を命ずるのは四元素自体ではなくて元素とは別物の愛憎となっており、元素と原理的統御者とが完全に分離しているのがわかる。原理はタレスからアナクシメネスまでは元素と一体的であったのだが、ヘラクレイトスにおいては分化を始めており、エンペドクレスにおいて完全に原理と元素とは分離したのである。

アナクサゴラスはどうであろうか。彼は言う、「ヌースは無限で、独裁的で、何物とも混合されず、ただひとり自分だけでいる。…ヌースは魂を持つ限りのものを、それが大きなものにせよ小さなものにせよ、みな支配する。またヌースは凡てのものが初めに旋回運動を起すように、旋回運動全体を支配した。…そしてヌースは混合されたもの、分離されたもの、区別されたものの一切を認めた。また有ろうとしつつ有ったものも、かつて有ったが、今はないものも、現に有るものも、将来有るものも、凡てヌースが秩序づけた。」(『アリストテレス自然学の注釈』シンプリキウス)[1]。ここでも統御的原理たるヌースと万物とが分離しているのがわかる。

さらにデモクリトスも原理と元素の別は決定的となっている、何故なら彼は「凡ての事物は、彼の必然と呼ぶところの渦巻が凡ての事物の生成の原因であるから、必然によって生じる、と考える」(『哲学者列伝』ディオゲネス・ラエルティオス)[1]と言い、そして「何ものも出たらめに生じてきはしない、むしろ凡てのものは根拠から必然によって生じてくる」(アエティオス)[1]とも言うのであるからであり、もはやここではアトムが万物を支配しているとは微塵も考えられておらず、むしろアトムを支配するものとして必然が想定されているのである。

どうやらヘラクレイトスから始まる統御的原理と元素との分離は不可逆的であるようだ。

アリストテレスは次のように言っており、長らく、私はここでいう「原理」の意味が特定できないでいたが、上述のことから、いまでは原理とは万物を統御するものであり、現代風に言えば一種の自然法則ではあるまいか、と見当をつけているところである。(以下、太字は引用者)

最初に哲学に携わった人々の大多数は、ただ質料の型に属する原理のみが万物の原理であると思った、というのは彼等は凡ての存在者がそれから出来ているもの、すなわちそれを最初のものとしてそれから生じてき、またそれを最後のものとしてそれへ滅んでいくところのそのもの(というのは実体は根底に止りつつ、ただ様態によってのみ変化するのだから)、それを存在者の元素であり、原理であると主張し、またその故に何ものも生成することも消滅することもない、何故ならそのような本性が常に維持されているゆえ、と思っているからである。(『形而上学』アリストテレス)[1]

[1]『初期ギリシア哲学者断片集』山本光雄訳編 岩波書店
[2]『ソクラテス以前の哲学者』廣川洋一 講談社学術文庫

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