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7. エレアのゼノン

エレアのゼノンの生涯について私たちが知っていると思っていることはすべてプラトンの対話篇である『パルメニデス』に由来する。プラトンによれば、ゼノンはパルメニデスよりだいたい25歳くらい若く、パルメニデスの哲学的友人であると同時に愛人でもあったと報告されている。プラトンの主張を受け入れるならば、ゼノンは紀元前490年頃の生まれであり、パルメニデスとともに450年頃アテネを訪問したが、その当時ソクラテスは若者であった(プラトンの報告する会話が行われた可能性は低いが、プラトンの年代記は事実に基づいているかもしれない)。他のゼノンの伝記に関する記録はディオゲネス・ラエルティオスのものしかないが、彼の『哲学者列伝』はあまり信憑性がない。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、ゼノンは拷問を受けながらも勇敢にも暴君に抵抗し、仲間を裏切らなかったそうである。ゼノンはパルメニデスの存在説の結果として生じるものを探究している。その巧みな議論では、複数性も運動もパルメニデスの実在性の要件と両立しないということが証明されている、とゼノンは主張するのである。ゼノンは私たちの感覚という一見すると論争の余地のない証拠に異議を唱え、彼の主張は古代から現代に到るまで哲学者たちを悩ませるのみならず魅了もしてきたのである。

1.かつてパルメニデスとゼノンがアテネに来たことがあった。大パナテナイア祭のためのである。パルメニデスはかなりの老齢で、髪の毛も真っ白であったが、外見は洗練されており高貴でもあった。ちょうど60歳くらいであった。ゼノンは当時は40歳少し前であり、背が高く見め麗しい人物であった。噂ではゼノンはパルメニデスの若き愛人であったそうだ…。ソクラテスは他の多くの人たちとゼノンの話をどうしても聞きたがっていた、というのもその時に初めてゼノンの議論がアテネへともたらされたからである。ソクラテスは当時はまだ初々しかった。ゼノン自身が自説を彼らの前で読み上げた…。ソクラテスはそれを聞き終えた時、最初の議論の最初の仮説をもう一度読んでくれるように頼んだ。聞き終えると彼は言った。「いったいどういう意味なのでしょうか、ゼノンさん? もし多である物があるとすれば、それらはそれ故に似ていると当時に似ていないことにならなければならないが、しかしそれは不可能である。というのも、似ていない物は似ていることはあり得ないし、似ている物が似ていないこともあり得ないからである。これがあなたのおっしゃることなのでしょうか?」
ゼノン「いかにも」
ソクラテス「では、似ていない物が似ている物であることも、似ている物が似ていない物であることも、どちらも不可能であるならば、同様に物が多であることも不可能なのでしょうか? というのも、もし物が多であるならば、物はあり得ない属性をもつことになるでしょう。これがあなたの主張の肝なのでしょうか、つまり、すべて言われたことに対して物は多ではない、と主張することが? そしてあなたの主張の一つ一つがこのことを証明するとお考えなのでしょうか?」
ゼノン「あなたはこの議論全体の趣旨をよく理解していますよ」
ソクラテス「パルメニデスさん、私の理解によれば、ここにいるゼノンさんは友情によっても自説によってもあなたと結びつきたいとお考えですね。というのも、幾分あなたと同じ文体で書いておられるからなのですが、しかし文体を少し変えることによって、何か他のことも言っていると我々に思わせようとしておられます。あなたが詩で公言されていることといえば、すべては一つである、ということですね。巧みに証明なさっていますね。一方で、ゼノンさんは多は存在しないとおっしゃっていて、多くの見事な証拠を挙げておられます。さて、あなたがたのうち一人が存在するのは一者でありもう一人が存在するのは多ではないとして、そしてお二方が同じことを発言なさったようには思われない、しかし実際には同じことをおっしゃっている、そんな時には、おっしゃることは我々みんなの理解を超えているようです」
ゼノン「全くそうだね、ソクラテスくん。しかし君は論文で私が本当に言いたかったことをよく理解していないんだよ…。それは本当のところはパルメニデス説の擁護なのだよ。つまり、もし有るものが一つであるならば、その主張にはそれと矛盾する多くの馬鹿げた結果があるであろう、と言ってパルメニデス説をからかう者たちがいるのだが、そういった者たちに反論しているのだよ。私の論文は多を主張する人たちに反論し、同じ程度に、そしてそれ以上に、彼らを嘲っているのだよ。そして彼らの「もし多者があるならば」という仮説は、「一者がある」とする仮説と比べるならば、よりいっそう馬鹿げた結果を招くということを証明するのが目的なのだよ。誰であれ、この仮説を最後まで十分に考え抜くとすれば、わかるだろう。私は若い頃にこのような闘争心でもって論文を書いたのだ。すると誰かが剽窃したものだから、私は自説を公にしてよいものかと考える機会もなかったのだがね」

2.ゼノンの言うところでは、もし一なるものが何であるのかを明らかにしてくれるのであれば、彼は存在する複数の物について話すことができるだろう、ということである。

3.というのも、もしそれ[X]が何か他に存在する物[Y]に加えられるとしても、それ[X]はその存在する物[Y]をより大きくすることはないであろう。というのも、もしそれ[X]に大きさがなくて加えられたとすれば、加えられたものは無なのであるのだから、大きさも増えようもないであろう。だからすぐに、加えられたものは無である、ということになる。しかし、もし他に存在する物[Y]が、それ[Y]から何か引き抜かれるとしても少しも小さくならず、そしてそれ[Y]に何か加えられた時に増えもしないのならば、明らかに、加えられたり取り去られたりした物[X]は無なのである。
(訳中;大きさのない物は存在し得ぬことを論証したもの)

4.もし物があるとすれば、それは何らかの大きさと厚さとをもっていなければならないし、その物の一部分は他の残り全部の部分から隔たっていなければならない。そしてその一部分の前の一部分にも同じ推論が妥当する。というのも、その前の一部分にも大きさがあり、さらにその前の一部分があるからである。さて、こういったことを言うのはそれを永遠に言い続けるのと同じである。というのも、このような前の一部分には終わりがないからであり、前の一部分と無関係でもあり得ないからである。だから、もし多くの物があるとすれば、それらの物は小さくもあれば大きくもあるであろう。あまりにも小さくて大きさがなく、かつあまりにも大きくて無限なのである。

5.もし多があるならば、それはちょうどその数だけ多であるに違いなく、それよりも多いことも少ないこともないであろう。しかしもし多がその多の数だけであるならば、多には限界があることになるに違いない。もし多くの物があるならば、存在するその多くの物は無限である、なぜなら存在する物の間には常に他にも物があり、そしてそれら他の物の間にもさらに他の物があるからである。それ故に、存在する物は無限に存在するのである。
(訳注;多が存在するならば、それは有限であると同時に無限でもあるとなって、多なる存在が矛盾するが、矛盾するものはあり得ないので多はあり得ない、とするもの。パルメニデスが存在一者説を唱えたが、それを証明しようとした議論である。)

6.運動に関するゼノンの主張は四つあり、それらの問題を解決しようとする者たちに困難を引き起こす。第一のものは、運動するものは目的地の前に中間点に到達しなければならないから運動はあり得ない、というものである。距離の半分を移動するのは常に必要であるが、しかしそういったことは無限にあり、無限のことをやり尽くすのは不可能なのである。

7.第二の主張は、アキレウスの論証と呼ばれるものである。それは最も足の遅い走者でさえも最速の走者によって追いつかれることは決してない、というものである。というのも、追う者は追われる者が出発した地点にまずは到達しなければならないが、追われる足の遅い者は必ずや追う者よりも常に前方にいなければならないからである。これは第一の主張と同じであるが、与えられた大きさを半分割しないという点では異なる。

8.この理由のためにゼノンは以下のことを誤って仮定しているのである。すなわち、限られた時間の中では無限に存在する物の一つ一つを移動することも、またそれらの無限に存在する物の一つ一つに到達し続けることも、どちらも不可能である、という仮定である。というのも、長さや時間それに一般的に連続する物すべては二つの意味で無限と呼ばれるからである。それは分割における無限と進行方向における無限である。数において無限の物の一つ一つに限られた時間内に到達し続けることは不可能であるが、しかし分割において無限なる物どもについては可能である。というのも時間それ自体もまたこの点では無限だからである。だから結局のところ、それが無限を移動するのは有限なる時間内ではなくて無限なる時間においてであり、無限の数の物に到達し続けるのも有限なる時間内ではなくて無限なる時間においてなのである。

9.この解決策はその疑問を提起する者に対しては十分である(というのも、提起者が問うのは限られた時間内で無限の物を移動したり数えたりすることは可能なのか、というものだからである)。しかし事態と真理に対する説明としては不十分である。

10.ゼノンは推論において過ちを犯している。というのも、彼は言うのであるが、もしあらゆる物がそれ自身と等しい空間を占める時には常に静止しているとするならば、そして動いている物が常に「現在に」おいて存在しているとするならば、飛んでいる矢は静止している、と。

11.第四の主張は、競技場で複数の等しい大きさの物体が、同じく複数の等しい大きさの物体と並行にかつ正反対の方向に動いている状況で、一方の物体群が競技場の端から中央へと動き、もう一方の物体群は競技場の中央から端へと動き、そして両群が等しい速度で動く状況である。ゼノンの主張によれば、その半分の時間はその二倍の時間に等しいことになるそうである。この考え方の誤りは次の通りである。すなわち、等しい速度で動く等しい大きさの物は、静止中の物の側を通過するように動いている物の側を通過するというのであるが、しかしこれが誤りなのである。仮にAAAが静止した複数の物体Aの列を表すとしよう。次にBBBが競技場の中央から端へと動く複数の物体Bの列を表し、そしてBはその数と大きさにおいてAと等しいとしよう。最後にCCCが競技場の端から中央へと動く複数の物体Cの列を表し、そしてCはその数と大きさのみならず速度においてもBと等しいとしよう。結局のところ、B列とC列とが互いに並行して(逆向きに)動くと、C列の先頭が終点の中央に着くと同時にB列の先頭も終点の端へと着くのであり、そしてC列の先頭はB列全体に並行して移動するという過程を完全に終えたのであるが、しかしB列の先頭はA列に沿って進むという過程は半分しか終えていないのである。だからそれ[B列がA列に沿って進むこと]に要した時間は[B列がC列に沿って進むことに比べると]半分なのである。というのも、それぞれの物体は通過した物体の数だけ移動時間が経過したからである。同時にここからわかるのは、B列の先頭はC列のすべての物体の側を通過しているということであり、というのも、C列の先頭とB列の先頭は正反対の終点に同時に位置しているのであり、なぜならばどちらもA列に並行して同じ時間をかけて通過したからである。

12.もし場所が存在するならば、それはどこに存在するのだろうか。というのも存在するものすべてはある場所の中に存在する。それ故に、もし場所が存在するならば、場所もまたある場所の中に存在する。これが無限に続く。それ故に、場所は存在しない。

13.
ゼノン「プロタゴラスよ、教えてくれたまえ。粟粒は落ちると音を立てるだろうか、あるいはふつうの粟粒の1万分の1の大きさの粟粒の場合は音を立てるだろうか」
プロタゴラス「音は立てないだろう」
ゼノン「では、1メジムノス(約12ガロン)の粟粒は落ちると音を立てるだろうか、それとも立てないだろうか」
プロタゴラス「音を立てるだろう」
ゼノン「しかし1メジムノスの粟粒とふつうの粟粒、あるいはふつうの粟粒の1万分の1の大きさの粟粒の間には何か比例関係でもあるのだろうか」
プロタゴラス「あるね」
ゼノン「それらの粟粒の立てる音の間にもそれぞれ比例関係があるのではないのか。というのも、音を立てる物に応じて音が出るのだから。こういうわけだから、もし1メジムノスの粟粒が音を出すのならば、ふつうの粟粒やふつうの1万分の1の大きさの粟粒もまた音を出すだろうね」

13a. (アリストテレスからの反応)だからといって、もし一定の動力が一定量の運動を引き起こすとすれば、その半分の力は、どれくらいの量であれどれくらいの時間の長さであれ、運動を引き起こすことにはならないのである。もし運動を引き起こすとすれば、例えば船曳人夫たちの力がその人数分に、そして彼ら人夫たちの全員が動かす距離に、分割されるとしても、一人の男が船を動かすかもしれないのである。

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