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30歳女、尿管結石からの腎盂腎炎で緊急入院する。

2022年12月20日(火)、仲良しの後輩と映画を観たあとに食べたカルパッチョの油に胃がもたれるような感覚があって、遅い時間の帰宅だったが、いそいで米と味噌汁を食べて寝た。翌朝もまだすこし気持ちが悪かったので、胃薬を飲んで、最低限の朝の支度を一通り済ませてから、夫に断って布団で少し横になった。夫と娘が出発してからのっそりと起き上がって、ゆっくりと化粧を済ませていつも通りに仕事開始。昼頃には胃もたれは気にならなくなっていたので、なにかUberして食べたいなと思い、思い出のハンバーガーショップを見つけたので注文。胃の調子は悪かったけど復活したと思っていたし、食べたい気持ちが強かった。我ながら食欲の鬼であることよ。

異変を感じたのは15時半ごろで、お腹がじんじんと痛いなと感じた。もともと不安が腸に出るタイプなので、その後の予定が気が重いものであるとか理由はいくつか思いついたが、なぜかトイレで解決しなかったのがいつもと違うと首を傾げた。心配事を抱えながらも仕事をなんとか切り抜けて、夫に「腹痛がひどいので、保育園の迎えを代わってほしい」と伝えて横になった。

そこから、地獄のような6日間が始まる。まず昼に食べていたものをすべて吐いたのだが、まったくスッキリしない。経験上、吐いたら調子が良くなると信じて、苦手な嘔吐を頑張っているのに、吐いても吐いてもお腹の痛みが少しも良くならない。夫と娘が帰宅し、状況を伝え、夫に#7119(救急安心センター)に電話してもらったところ、自力で行けるようであれば病院で診てもらった方が良いと言われるが、状況や症状からおそらく胃腸炎で、吐いたら楽になるだろうとも言われた。このときにひとつ後悔していることがあって、「のたうち回る痛みですか」との質問に対し、のたうち回ってはいなかった私はNOと答えたわけだけど、本当は頭の中で「のたうち回ることが許されるならのたうち回っている」と思ったのである。私は30歳のいい大人の女性で、母であり妻であるという立場を重んじた結果「のたうち回るほどの痛みではあるが、家族の目もあるのでじっと耐える」という選択をしてしまった。この後悔は一生消えないし、おそらく同じ間違いは二度としないだろう。

私が#7119に求めていたことは「救急車を呼ぶこと」へのGOサインであったのだけど、結果は「タクシーを使って病院へ」だったので、ひとりで移動することができない私は、その日のうちに病院に行くことを諦めてしまった。夫が付き添ってもらえれば行けただろうが、4歳の一人娘がいる我々夫婦には近所に頼れる親戚や友人はいない。とりあえず翌日になれば何とでもなる、とそのときは思っていた。

痛みが始まってから6時間ほど経ち、眠気も感じるようになった23時頃に、疲れからか少し眠ることができた。あまりに痛いときは眠ることもできないので、眠気がくると少しだけ解放されると喜びすら感じるようになった。眠るとさすがに身体が回復するのか、10のうち7ぐらいの痛みが5ぐらいにはなるので、割と普通に話せるようになるのだった。ちなみに陣痛を10のうち8と設定している(この数値は重要なので覚えておいてほしい)。

翌日、痛みは感じるものの動ける状態であったので、歩いて20分の消化器内科を訪れた。どうしてそんな遠いところの病院だったかというと、予約システムがあり待ち時間があまりないということと、夫が以前突然の痛みで診てもらったときに良いお医者さんだと言っていたことからの前向きな選択だった。そこで概ね予想通りに胃腸炎と診断され、胃薬や整腸剤をもらった。「ここ1〜2日がピークでしょう」と言われ、昨晩の地獄のような痛みがまだ1日続くのかもしれないのか、と途方に暮れたような気持ちになったのだが、あと3日も謎に自力で我慢できるよとそのときの私に教えてあげたい。

これでひと安心、と自宅で薬を飲んだ直後に再び嘔吐が始まり、明確に「左下腹部が痛い」と感じるようになった。すべてが分かったいま振り返ると、最初からずっと明らかに腎盂腎炎の症状のオンパレードなのだが、思い込みというのは恐ろしい。このときもおかしいとは感じ、診てもらった病院に電話しようとするも昼休憩のため繋がらず、また藁にもすがる思いで#7119に電話するのだが、昨晩とほぼ同じ扱いを受けた(そりゃそうだ)。とはいえ、そのときは紹介された救急病院にうつろになりながら電話をしてみるのだが、「お腹がとても痛い」「胃腸炎だと言われてはいる」「少しだけ熱っぽい」と伝えると、発熱外来は当日受けられないと断られてしまった。後にこの病院で緊急入院となる。

思えばこの22日(2日目)で、病院に行く選択肢を自分の中でなくしてしまっていた。タクシーで行けと言われても、家の中でトイレと布団を往復するだけでも痛くてたまらないのに、タクシーを呼んで、椅子に座って、運転手とコミュニケーションをとって、病院で症状を説明するなんてできない、と本気で思ってしまった。そこまで追い込まれていたのなら、普通は絶対に病院に行かなくてはいけない。

そんなかたちで23日〜25日も、同じように痛み(10のうち7.5)に耐えて過ごした。とにかく静かに痛みに耐えることしかできないので、娘と楽しみにしていたクリスマスの予定にひとつも参加できなかった。いま思い出してもとてもつらい。また、この頃に高熱が出るようになった。いちばん高くて39.4度。この夏かかったコロナでも37度台の微熱で食欲も普通にあったので、39度なんていつぶりの高熱か記憶にないし、明らかな異常事態である。それでも「熱が出たということは下がれば全て終わる」と考えていた。胃腸炎にかかったことがなかったため「胃腸炎ってものすごく痛いんだな」と思いながら、ただただ腎盂腎炎を進行させていた。ちなみに食欲も全くなく、食べなくても平気であるものの食べた方が元気になるかもと思い、おかゆや夫が柔らかく煮てくれた野菜を少しだけ食べて過ごしていた。入院前時点で1.5kgぐらい体重が減っていて、思いの外減らないものだなと思った。あの食欲の鬼だった私が、一日中ポカリスエットを飲んで生命を維持していた。

26日の朝、目が覚めると3日近く続いていた熱が下がってとてもすっきりした感覚があった。「やっと終わりが見えた」と嬉しくなった私は、すぐさま働いた。仕事はすでに2日休んでおりギリギリの状態で、関係各所に連絡をしながら優先順位の調整をしなくてはいけなかった。昼頃、再びじわじわと左下腹部が痛くなってきた(10のうち3〜4)と思ったのも束の間、また動けないほどの痛み(10のうち7)。この時点で6日目。さすがの私もあまりにおかしいだろうと感じ、ついに最初に胃腸炎だと診断された病院に向かうことにした。ひとりで呼んだタクシーに向かって自宅を出て歩いて向かうときが、誰にも頼れない分、いちばん大変だった。

そんな死に物狂いで病院に着いて「横になりたい」と告げると、あまりの様子にかすぐに処置室に通してくれた。座っていられないほどつらいときは横になりたいと正直に言えば良いのだな、と思った。我ながらあまりに周りに気を遣いすぎではないだろうか。テキパキとレントゲン•血液検査•点滴が行われて、前回とは違う先生が応対してくれた。病院では、痛み止めを打たれているはずなのにどんどん痛みが増してきて(10のうち8)あまりの先の見えなさに絶望していると、総合病院の受診を提案された。いちど電話をして断られた病院である。不安であることを先生に告げると、当然こちらの先生から状況を引き継ぐので受け入れてもらえるはずと言ってもらえて安堵した。結果的に診断が間違っていたわけだけど、そこの先生には親身になっていただいて、スムーズに総合病院に移動することができたので感謝している。血液検査の結果を見ながら「こんな痛みに耐えたなんて、もしかしてものすごく我慢強いですか?」と聞かれて、それまで張り詰めていた気持ちが途切れたかのように私は涙が止まらなくなった。総合病院までは歩いて10分程度の距離だが、とても歩ける状態ではないで、ここでもタクシーで移動しなくてはならない。夫には常に連絡していたので、すぐに仕事を早退して付き添ってもらえることになった。平日の昼間であれば娘を気にする必要がないので、なんとか2人で移動することができる。先週の木曜金曜でも同じだったと、いまなら痛いほど分かる。

そういうわけで16時ごろに総合病院に到着した。こちらでも真っ先に横にならせてもらったものの、まずはCTスキャンのために車椅子へと言われてしまい、どうしても横になった状態をキープしたい私は「横になったまま移動できないでしょうか」と懇願して出産以来のストレッチャーに乗せてもらった。病院という場所は常識の範囲内であれば自分本位が許される素晴らしい施設である。普段たいていの場所では善良な市民であると思うので、今回ばかりは少しわがままを通させてもらった。

CTスキャンをしている最中に、突然の寒気を感じた。そのときは部屋が寒かったからかと思ったが、あとから考えると普通に腎盂腎炎の症状である。明らかな身体の異常を感じながら、もとの処置室に戻り、再び血液検査と点滴が始まった。ちなみに私は右腕の肘裏以外のところから採血するのがとても難しいようで、しかもこの待機中に全身が異常に震え始めたので、まだ血を取りきれていない看護師さんを非常に困らせてしまった。針をこねくり回されて痛かった(10のうち2)。

異常な寒気で身体がガタガタと震えるのが止められないものの、痛み自体は少しマシになり、点滴が効いているかもしれないと思い始めたぐらいで、夫と2人で先生に呼ばれた。先生はCTの画像をまっすぐ見つめて「尿管結石があって、周りが炎症を起こしていて敗血症になりかけてる。このまま帰れませんよ、緊急入院です。」と言った。私は「尿管結石で緊急入院?!私が?!」となり、その他の炎症のことなどはあまり頭に入っていなかった。理解するのに数日かかったのだが、正確には『尿管結石による急性腎盂腎炎で緊急入院』というわけである。尿管結石のインパクトが強すぎる。

入院計画書には病名がちゃんと書いてある

さらに続けて、こちらの総合病院には泌尿器科がなく結石の除去手術ができないため、専門病院に転院することが前提の入院とのことだった。この時点で尿管結石が唯一の諸悪の根源だと思っている私は、結石が砕ければ全ての痛みとお別れなのだと思っていた。なので、残り1〜2日の我慢なのだと浮き足立っていたのだが、現実はそう甘くいかない。いずれにせよ私が自宅で我慢した数日はほぼ無意味だったわけで、後悔してもしきれない。結果的に入院期間が変わらなかったとしても、そのぶん早く帰れたかもしれないと思うと悔しい気持ちになるが、いまさら悔やんでもしかたない。

そういうわけで、12月26日(6日目)の夜にようやく治療を開始する。朝から晩まで点滴をして、抗生剤による治療と、尿の量を増やしてとにかくトイレに行き続ける生活が始まった。慢性的な痛みは26日の深夜まで続き、痛み止めの投与で押さえ込んでもらうことができた。冷たい痛み止めが全身を駆け巡ると、少しの寒気とともにスーッと痛みが引いていった感覚は一生覚えておける気がする。27日の朝になると、あの痛みが襲ってこないことに戸惑った。もはや痛みがあることが日常で、痛み止めは間隔を空けないといけないから次は○時にお願いしなきゃ…と思っていたのに、その時間になっても痛くならない。

やっと、やっと終わったのだと思った。まだこの時点では、少し動くと鈍い痛みがあった(10のうち4)が、それでも動いても動かなくても何をしても何をしなくてもずっとずっとずっと痛かった陣痛に匹敵する痛みが、ようやくなくなったと思うと心から嬉しかった。医療の力、すごい。点滴したらちゃんと治るんだ、と当たり前のことを思った。

まだこの時点でも痛みがなくなれば結石を砕いておしまいと思っているのだが、炎症というのは慢性的なあの痛みだけではない。腎盂腎炎は夕方から夜にかけて発熱することが多い病気で、私も例に漏れず夕方からの不調に悩まされた。しかも私が熱にも強いらしく、38度台でもニコニコしているので、計測した看護師さんが体温計を見て「?」と戸惑った顔になるのがおかしかった。しかしニコニコはできるものの、倦怠感はそれなりにあるので、27日〜28日あたりはその消耗が半端なかった。時間だけはあって考えることは止まらないし、考えてみると落ち込む要素しかないので、一時期はかなりネガティブにもなったのだが、体調が悪かったのだなぁといまなら思う。

29日(9日目)に無事専門病院に転院した。実はこの時点でもまだ30日の帰省の予定をキャンセルできていなかった。もしかしたら、もしかしたら、という希望を捨てきれなかったのである。当然のように入院手続きが開始され、まだ帰れないのかと絶望に近い感覚だったが、この日にようやく自分の置かれた状況を正しく理解して、腹落ちすることとなる。

納得(?)の病名である

結石性腎盂腎炎。総合病院で6mmと診断された結石は、実際はもう少しかたちが歪で9mm近くあると言われた。「9mmですか?!」と大きな声が出た。自然排出は望めないので手術となるが、そもそも腎盂腎炎が起きている場合はそちらの治療を先に行い、結石は後日改めて手術となるとのことだった。よく聞く『結石の痛み』がどういうメカニズムなのか分からないが、少なくとも私の場合は、慢性的に痛かったのは腎臓であり、そちらが治まっている状態では結石自体は「あるな」という違和感程度で、痛みというほどでもない。例えるならちょっと気になる生理痛という感じで、寝るときには痛みをとっておきたいが、それ以外だったら薬もなしで過ごせそう、ぐらいの感覚である。全く痛みを感じないことも多い。

そんな感じなので、とりあえず腎盂腎炎による症状を抑えて12月31日の退院を目指しましょう、となった。ここでやっと退院の目処が立つ。12月26日に原因がわかってから毎日いつ帰れるのかばかり気にして、少しイライラしていたが、ここで目処が立ち、さらにそれが小さな子どもがいるので配慮してもらってのことであること(退院後は経口治療に切り替わるだけで治ったわけではない)に加えて、改めて自分の身体がいかに危険な状態だったかが分かり、これだけ治療しても石を出す手術をするまでには至れないことを理解して、私はついに観念した。年越しを自宅で家族と過ごさせてもらえるだけで本当にありがたい、と心から素直に思うことができた。

専門病院での入院生活は、総合病院とはうってかわって快適だった。もちろん総合病院での初期治療のおかげで順調に回復できたわけで、医療行為には心から感謝しているのだが、施設自体の綺麗さと通信環境はクオリティオブライフに直結する。専門病院でWi-Fiが繋がった瞬間、私はここ3日間のWi-Fiなし生活がどれだけ生活の彩りを失わせていたのかを実感した。看護師さんが「好きなだけ使いな!」と言ってくれたので、私はすぐに数日間溜めていたYouTubeを消化してヲタ活動に勤しんだ。ありがとうWi-Fi。命の源Wi-Fi。一日数百円のオプションである。命綱としては安すぎる。

運命の31日(11日目)の朝。前日からだいぶ調子が落ち着いていて、このまま退院ムードが漂っていたので、間違いなく退院できると思ってはいたものの、少しだけ緊張していた。朝から抗生剤の点滴を打ち、当直の先生を待つ。先生からは熱もなく大丈夫でしょうとの軽めの話があり、とにかく薬をしっかり飲み、水分をたくさん摂るようにと言われた。私は自宅で運動をしても良いかを質問したが、何故わざわざこんなときにという顔をされてしまった。詰まるぐらい大きな結石なので、自然排出は見込めないし、下手に動いて痛くなってはこれまでの苦労が水の泡だ。退院できるだけで、絶対安静なのである。9時30分には退院許可がおりて、何ならすぐにでも帰れますよという雰囲気だったが、11時にオープンする銭湯にどうしても行きたかったので、正直に申告して1時間ほど点滴の時間を延ばしてもらった。看護師さんは本当に優しい。3日ぶりに汗を流せた銭湯の気持ちよさは、一生忘れることはないだろう。

5泊6日の入院生活を終えて

以上が、30歳女の年の瀬に起こった出来事である。年が明けると31歳になるのだが、どうやら前厄らしい。以前から女の30代ほぼ厄年じゃん、と思っているのだが、一般的に不調の起きやすいタイミングなのであろうと理解していた。しかし、こんなにできすぎた前厄歓迎事件起こる?? 夫には「結石が落ちれば厄落としになるな」とうまいことを言われた。いままで大きな病気はしたことがなかったのだが、これは問診票で必ず質問される『大きな病気欄』で書いていいものだろうか。書くにしては『腎盂腎炎』ってちょっと難しすぎないか? よりにもよって感がある。

いったん私のことを中心に書いてしまったので、すっぽり抜けてしまっているのだけど、今回本当に迷惑をかけてしまった家族についてもあらためて書いておきたい。お気づきの通り、私は12月21日から一切の家事育児をしておらず、それらのすべてを夫が担ってくれた。仕事•家事•育児•看病→病院通いの全てを、頼れる親族もいない中で一言の文句も言わずに文字通りひとりでこなした夫は、正真正銘のスーパーマンである。どうか皆様、彼を褒め称えてほしい。本当に尊敬できる人である。私が人並み外れた我慢強さを持っていたせいで、私の異変を見抜いて病院に連れて行かなかったことを後悔してくれているのだけど、私が桁違いに我慢強いだけなので本当に気にしないでほしい。娘を毎日不安にさせずに過ごさせてくれただけで、十分なのである。

娘も同じように頑張ってくれた。緊急入院となった12月26日の午前に保育園に見送ってから、12月29日の転院まで丸3日間まったく母の顔を見ずに過ごすこととなってしまった。29日にまた入院だと分かったとき「お母さんの顔、忘れちゃうよ〜」とぽつりと言われ、胸の奥がしめつけられる思いがしたことを忘れられない。専門病院では電話がしやすかったので、毎日2回ビデオ通話して、少しだけ遊び相手をすることができた。月並みな言葉だが、なんでもないような遊び時間が尊いものであると気付くこととなった。夫と娘がいるから絶対にはやく帰る、という強い気持ちを持てたのも、治療が順調にすすんだ要因であると思う。

しかしながら今回ばかりはさすがに自分の我慢強さを認識したというか、これまでそんなふうに自分のことを思ったこともなかったのだけど、これからは自己紹介で「私は我慢強いです!」と言っても許されるのではと思うぐらいの強いアイデンティティになった気がする。思えば陣痛中も、夫に気遣う言葉をかけて、助産師さんを「そんなこと言う妊婦さん初めて見た!!」と笑わせたことがあった。どうやら私は極端に強い痛みを感じると、異常に周りに優しくなる傾向があるっぽい。これを読んだ知人の方々には、私が奇妙な優しさを見せたときは、身体の中がボロボロになってる可能性があるので、心配してもらった方が良いかもしれないと伝えておく。

私自身も、これからは自分の感じる痛みを軽視せずにきちんと向き合おうと思う。回復してきたから笑えるが、まだ石は取れていないし、再発率の高いこれらを抱えたこの体質とは、一生付き合っていくことになる。痛みを感じている最中は「いっそ気を失えば救急車を呼べるのに」と本気で思っていた。いまならなんて馬鹿なことをと思えるし、もしそんなことにでもなっていたら、大晦日どころか、一生家に戻れなくなっていた可能性も0ではない。自分が大きな病気なんてするわけがないとどこかで思い込んでいたが、簡単に、自分の手で、死に近づいてしまったんだなという実感がある。私はもう絶対に無理をしない。大切な家族がいて、支えてくれる友人がいて、まだまだ知りたいことがたくさんあるこの世界を、自ら手放すなんて愚かなことをしないように、自戒を込めてこのnoteを公開する。もし、どこかに「自分の痛みは大したことではない」と願いながら、検索してこの記事に辿り着いた人がいたとしたら、いますぐ周りに助けを求めて病院に行ってほしい。貴方が声をあげさえすれば、誰かが貴方を絶対に助けてくれるから。

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