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生になるということ

最近知った魔法の言葉がある。「美しいものを美しいと感じていいんだ」。塩谷舞さんのエッセイ本で見かけた言葉だ。この言葉はいわゆる魔法の言葉のように、力強い雷鳴のようなインスピレーションを伴わない。代わりに固く閉じた心の蕾をあっためてくれる。閉じた花弁をほぐし、蕊たちに風を通す。湯煎されたチョコレートみたいに、白く固まっていた脂が溶けて、周りのカカオと愛し合って、甘い柔らかな空間を作る。この言葉は度々セレンディピティのように心に浮かんでは、部屋の風景を温めてくれる。

パソコンから流れる作業用音楽の周波数はポトフの鍋が炊き出す湯気のように穏やかになるし、部屋の隅のギターケースの素材も少し柔らかくなった気さえする。この言葉を見るたびに、世界の色彩が穏やかになって、風となって語りかけてくる。

「美しいものを美しいと感じる」なんて当たり前のことに許容が必要なのは何故だろうか。私たちの感性が凝り固まっている証拠に他ならない。感じるとき、人は自然で、無防備だ。そして、現代社会は無防備になる時間があまりにも少ない。私たちの意識は常に自分以外の何かに紐づけられている。朝起きてはスマホをみて友人の煌びやかに切り取られた生活をみる。私も煌びやかでいなければ、という自意識が感性を堅くしている。まっすぐな、目的のある世界に戻りそうになる。私たちはいつも、「自分ではない誰か」になることに必死で、そこらに煩雑と散らばっている美しさを感じる隙間さえ与えていない。全身の毛穴を開放して、風を感じる。机の上の紅茶の湯気を吸い込む。感じる。前頭葉で、空間を、感じる。

人と話をしようとすると自分の感性を生のままで放っておくのがどうにも怖くなるようだ。それはつまり、美しいものを美しいと感じられなくなるということ。人間には防衛本能がある。自分を覆う殻を外し、生になるということは、サバイバルの観点では死をほのめかす。親族愛というのは血縁の繋がり、つまり遺伝子的な類似性と相関して愛が強くなることを指すのだろうが、これが多国家交流でも起こりがちだ。肌の色が違う人には声を掛けにくいし、会話のスタイルが違う人も声を掛けにくい。単純にかれらが自分と少し違う見た目をしているから声をかけるのが怖くなったり、何かにかけて自分を傷つけるのではないかなどと勘繰ってしまうのだからどうしようもない。生存主義の進化の仕組みで創られた人間の脳みそは、もしかして社会の変化スピードに追いついていないのかもしれない。

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