見出し画像

第1回:「書く」ことは扉を開くこと

「書く」ことは、だれにでもできる。
資格なんて必要ないし、なんなら幼稚園児や保育園児も書けるし、小学生になれば宿題で練習帳だの作文だのやってこいと言われる。私は、国語の授業なんか大嫌いだった。「書く」ことは好きだけれど、それに評価を下されることが嫌だった。

けれども、「書く」ことで生きている今になって振り返ってみれば、それは自分がひとつ前進する行為だとも思う。
「読み書きそろばん」ということばが流行った時代もあるくらいなのだから、「読み書き」は重要ななにかを持っている、少なくとも私はそう思っている。

ここで突然だけれども、ものすごく昔の話をしよう。文字がなかった時代の話。
口承、つまり「伝言ゲーム」の時代があった。
ちゃんとみんなが一音一句間違えずに伝えるのはすごく難しい。それどころか、なかには、「このひとはすごかったからちょっと大袈裟に持ち上げておこう」とか、「このひと好きじゃないから悪い話もつけておこう」とか、そんなひとがいたって不思議ではない。
そこに登場したのが「文字」というもの。とんでもない便利ツールだ。
「文字」と「文字が意味するもの」が固定されてしまえば、ちょっといいこと悪いことしようかな、というのが極端にやりづらくなる。歴史の資料集に掲載されている石や木片に書かれた文字なんかは、伝言ゲーム感覚では悪さができないもので、だからこそ史料として大切にされているわけだ。

とはいっても、でも日常の生活で歴史に名を残すことなんて、そうそうあるわけがない。
では、「書く」とはなんなのか。

あなたは、自分の名前を書いたことがあるだろうか。
たとえば持ち物、宿題、テスト、名札なんかに。
書かなかった場合はどうなるだろうか。
提出した宿題も、百点満点のテストも、出席簿さえも、ないことになってしまう。
「書く」とは、おそろしい。
自分の名前すら書いた瞬間、自分が定められてしまう。逃げ場がなくなってしまう。

けれども、「書く」ことで得られることもたくさんある。
私は、たとえて言うなら、「書く」ことは「扉を開くこと」だと思っている。
たとえば、
・名前だけ書いたけれどほかは白紙で出したテスト
・名前も書いたし頑張って回答したけれど全部間違ってゼロ点だったテスト
前者はある種の反抗心か、後者は不得意分野だったか、といろいろ考えることはできるが、次の扉を開いていることは共通しているのだ。
次の扉を開いて、あのとき書いた、あるいは、書かなかったことに対して反省をするかしないか。次の扉を開いて、書いた内容を見直すか、やっぱり諦めるか。
どうするかは、そのひと次第でしかない。でも、ひとの時間は有限で、扉の前でじっとしているわけにもいかない。開いた扉の向こうが真っ暗闇だから逃げよう、すこしの光が見えたから進んでみよう、もう少し悩んでみよう、そういったことに陥るのは、「書いた」から。「書く」という行為を経験しなければ、それはそもそも生まれない。

少し脱線するが、私は、冒頭に書いたように、書いたものを評価されるのが大嫌いだった。
今のように食い扶持にしていれば、対価を得ているだけなのだからダメ出しや修正指示がくるのは当然だが、とにかく国語という教科は嫌いだった。
夏休みの宿題の日記や作文なんか、原稿用紙を破り捨てたいほど、というより、まともに提出していないレベルだった気がする。
他方、読書好きでもあり、その影響で「基準なんてどうでもいいや」とも思ってもいた。伝記を読めば、たくさんのひとを殺したひとたちが英雄になっている。ひとを殺すのはだめなんじゃなかったっけ、それは今の法律がそう決めているだけなのか、そう思う面倒な子どもだった。
だから、「私が書いたものを評価するひと」がいて、そのひとの尺度でしか評価されないのなら仕方がないと割りきるようにもなっていった。作文の宿題レベルであっても「書く」ことによって、先生たちの評価にはなにかの基準があるのだし、だったら媚びなくてもいい気がしてきた。
ただ、「書く」ことをしなければ、先生がどうしてこんな採点をするのか、などと考えていないはずで、これもまたひとつの扉を開いていたのだと思う。

私はそのあとざっくり言うと、扉を開き、開き、惑い、それでも開き、今に至る。めちゃくちゃざっくり。気づけばAIが台頭する時代になっていた。
あたりまえだが、相変わらず「書く」ことに資格は必要ない。直接伝えられない恋心や罵詈雑言をチラシの裏に「書く」ことも、仕事を振り返るために改善点を「書く」ことも、同じだと思っている。
さまざまな形での「書く」ことが、結果どうなるかは関係なく、その行為をしたことに意味がある。もちろんデジタルでもアナログでも一緒だ。手書きの履歴書のほうが心がこもっているだとかいう話を以前に聞いたが、要は履歴書を「書く」ことで扉をまた開いているというだけの話だ。その履歴書を出そうが破棄しようが、書いたという事実は消えないし、もしかしたら次に書くときの糧にもなるかもしれない。

「文字文化」はたった二千年くらいの歴史しか持っていないし、私たちは希少種として存在している。「伝言ゲーム」を終えた世代として、なかなか稀有な体験をしている。「書く」ことによって、扉を開くという、なんだかよくわからないけれど、良し悪しもわからないけれど、自分を紡いでゆく経験を積み重ねている。

ほんとうは意気込みだけで終わってしまうかもしれなかったこのnoteも、扉を開いてしまった。
遅筆で急かされるのも苦手だし義務感は捨ててなんぼだと思っているので、ぼちぼちやっていこうか……。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?