見出し画像

唐川侑己さんが出ても(幕張から)帰れま10 #5:晴れの日だけ愛するわけにはいかないのだから(B-M)

 晴れているかと思ったら雨が降ってきたり、しばらく止んだと思ったらまた降ってきたり、まさにこの日の空のような試合だったと言ったらポエミーすぎるだろうか。


 ずっと観たかった「キル・ビル」を最近ようやく観て、面白かったけどなんか疲れたな……もうこういうのはしばらくいいからゆっくり落ち着く平和なものを見たいな……と思っていたところに展開されたのがこんな試合だった。落ち着かせろ。日本刀も毒蛇もモーニングスターも銃も出てこないという意味では「平和」だが、映画は映画で主人公側が勝つことがなんとなくわかっているので何が出てきてもどこか安心して見ていられる。ビルの銃弾もエル・ドライバーの毒蛇もGOGO夕張のGOGOボールもブライドを殺さないのだ。でもリアルではそうはいかない。そもそも主人公側も主人公じゃない側も現実にはない。ロッテの選手たちもファンも勝ちたいと思っていて、オリックスの選手たちもファンも同じように勝ちたいと思っている。こちらにとっての辛い試合が向こうにとっては最高の試合になったりする。こちらが向こうに対して最高の試合をしたことだってある。いいことと悪いことは絶えず入れ替わる。


 野球に「勝つべき側」「負けるべき側」なんてないのだから、こっちにとって都合のいいことばかり起きるわけではない。時は戻らないし、ボールは確かにフェンスを越えているし、そう何回も点を入れ返せるわけではないし、Tさんはちゃんと一塁ベースを踏んでいた(「踏んでなかったらあだ名をマレーロにする」はちょっと笑ってしまった)。同じように、「あそこで打たれていなければ」「あれが抜けていれば」と未練がましく言っても仕方がない。「あそこで打たれた」「あれが抜けなかった」が動かしようのない事実なのだ。


 この日は私の感情を揺さぶることが発生しすぎたのだが、中でも最後の最後に大いに揺さぶってきたのが佐藤都志也くんだった。9回裏二塁でタッチアウトになった彼の気持ちがわかるといったら傲慢だが、グラウンドに整列して一礼した後の彼の表情にはちょっと忘れることができないような何かがあった。どうにかしたかったのにどうにもできなかったという現実を前にした時、その思いが強かった人はあんな表情をするのだろうなと思った。


 
 今シーズンは特に回数が少ないわりにはいい試合を見させてもらっているなと思っていたのだが、まあこういう試合に出くわすことがある。でもいい試合だった時もそうじゃなかった時も、いつもこの人たちがめちゃくちゃ好きだという感情がある。晴れの日だけ好きでいることはできない。雨だけど、土砂降りだけど、なんかしばらく止みそうにないけど、そんな中でも好きなものは好きなんである。そして、今日悔しい思いをした人がその気持ちを晴らせる時ができるだけ早く来ますように、と願わずにはいられない。


 虫明さんの東京ヤクルトスワローズ観戦エッセイ、有料だけれどももうとにかく毎日すばらしいので読んでいただきたく、この日はロッテとヤクルトの試合がちょっと似た経過をたどっており(特にクローザーが9回2アウトから打たれたところが……)、いつも以上に勝手にシンパシーを感じまくりながら読んでしまった。

 いつもヤクルトファンじゃなくても共感できる文章なのだが、それはどのチームを好きであろうと晴れの日でも雨の日でも愛さないわけにはいかないのだということなのだと思う。「お天気屋」という言葉ができるほど天気は移り変わりやすく気まぐれだが、ならなおさらそんなものに愛を左右されたくはない。



 3か月ぶりだというのにここまで唐川侑己の「か」の字もないが、今回は藤原くんとの2ショット(かなり強引にそういうことにしたが)が見られてうれしかった。やはり試合に出ていなくても球場のどこかに確実にいるという状況は安心感がある。こんなところにいるはずもないのにいつでも探してしまうということがない。

 あと初体験の雪見だいふくサブマリンシート、フェアとファールの区別がつかないのがあれだがつかなくても別にいいくらい素晴らしい場所だった。また座りたい。その時はぜひ外野陣の勝利の儀式もあのアングルで……!


(タイトルを思いついた時連想したのがこの曲でした)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?