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【日常】7月の盂蘭盆会で中動態を考える

本日7月13日から16日までの4日間は、仏教でいう「盂蘭盆会」、いわゆるお盆の期間です。

1.お盆は7月と8月と両方ある

お盆というと8月では?と思われる方が多いかもしれません。
実はこの7月というのは旧暦なのです。
新暦は太陽の動き、旧暦は月の動きをもとにしたこよみ。
つまり、昔からの風習である七夕は、旧暦の7月7日ですが、七夕をいまのカレンダー通り7月7日にするということであれば、お盆も7月13日からと考えられるわけです。
余談ですが、織姫と彦星が一年に一回会える七夕が梅雨にぶつかってしまうのは新暦だから。
旧暦だとおおよそ8月になるので雨で会えなくなるリスクは減ります。
2023年は8月22日のようです。

お盆を7月に行なうところは東京が多いようです。

理由は、8月は8月で故郷に帰って故郷のお盆がある人が多いからなのではないかと個人的には周りを見て思っています。

私は東京下町育ちなので、小さい頃からお盆といえば7月。
7月13日に迎え火、16日に送り火を行なっていました。

そして本日2023年7月13日は、実家のお墓があるお寺さんで盂蘭盆会の供養があり、家の代表として参加してきました。

かつては、父や母が参加してくれていた法要です。

2.ご先祖様に感謝するとは

法要では、お寺のご住職からこんな法話がありました。

「慌ただしい世の中、このお盆の期間だけでも少しご先祖様に思いを馳せてありがとうと感謝を捧げましょう」

お言葉通りに思いを馳せてから、「はて」と思いました。

「ありがとう」と感謝を述べるとき、私はいつも「何に対して」ということを意識しています。

そうでなければ、心のこもらない「ありがとう」になってしまう気がするからです。

ご先祖に「ありがとう」と感謝を述べるのは、何に対してだろう、とふと思ったのです。

最初は、「いまの私を存在させてくれて」ありがとう、かなと思いました。

ですが、体がみょうに居心地悪いのです。

存在させてくれてありがとう、ということは、「存在しない」ことに比べたら、「存在する」ほうがいいこと、もしくは良かったから、「ありがとう」と考えられます。

そうはいっても、「存在しない」ことは選べません。
とはいえ仮に、自分で「存在する」「存在しない」を選ぶことができたなら、自分は「存在する」を選ぶだろうか。

家族や友人や関わりのある人や大好きな人たちを思うと、「出会えたことに感謝」とは心から思うものの、そのために「存在する」を選ぶだろうかというと・・・
生きていると大変なこともたくさんあります。
「最初からなにもなし」への誘惑は断ち切り難いものが、今の私にはあります。

そこで思ったのは、意思をもって「存在する」または「存在させる」ということができるのだろうか、ということです。

頭に浮かんだのは「中動態」でした。

中動態といえば國分功一郎先生。

國分先生はこう説明されています。

「する」か「される」か、つまり能動か受動かという区別は、僕らの頭の中で非常に強く作用しています。(中略)ところが言語の歴史においては、それは実に新しい区別だということが知られています。(中略)能動態はたしかにあったのですが、これが中動態と呼ばれる態と対立していたんです。ではそれはどういう対立かというと、「する」か「される」かではなく、「内」か「外」かという対立です。

ここで、國分先生は「惚れる」という現象で能動態、受動態、中動態を説明されています。
「惚れている」わけだから能動的?
惚れようと思って惚れられるわけではなく「引っ張られて」いるから受動的?
どちらもしっくりきません。
「私は惚れるという過程の内側にいる」あるいは「私の中で惚れるという過程が進んでいる」というかたちで、中動態だとしっくりくる、というわけです。

この「惚れる」を自分で決めたんだから、ということでその人の「意志」とするのが能動態です。

ですが、ここで、國分先生はスピノザという哲学者の思考から、そこに疑問を呈します。

「僕はこれを自分の意志で決定したんだ」というのは、何ものからも自由で独立した自分が決めたという意味を持ちますが、本当はそんなことはあり得ない。自分で決めたと言っても、いろんなことから影響を受けているに決まっている。けれども意志という言葉を使うと、そういうものを断ち切る、切断することができる。

そこで、こう言われます。

過去や現実の制約から完全に解き放たれた絶対的自由など存在しない。逃れようのない状況に自分らしく対処していくこと、それが中動態的に生きることであり、スピノザの言う“自由”に近付くこと。

なんとなくこの一連の流れが、私に答えを与えてくれました。

意思をもって「存在する」または「存在させる」ということができるのだろうか?

否。「意思」はそこまで絶対的なものではないのです。

そう考えると、父も母も祖母も祖父もずっと先の会ったことがないご先祖様まで、「意思」をもって存在しはじめた人はいないのです。

これは中動態的に、「私も、ご先祖様も、皆、「存在する」という過程の内側にいる」と考えたら、自分的にはしっくりきました。

とすると、ご先祖様に感謝する、というのは何に対してか。

それは、私と「存在を祝福する」というご縁でつながってくれたことです。

父も母も祖母も祖父も、とても私を慈しんでくれました。
それはきっと、その先のご先祖様もそうだったから。

「生まれるんだ!」と生まれてきたわけではないこの世界。

根源がそんなふわふわしているのに、それでも「在る」ことを祝福してくれた家族、そしてその家族をはぐくんだ家族。

それを思うと、心から「ありがとう」がわいてきます。

「恩送り」といいますが、そんな祝福を、私も次世代に贈りつづけたいと思います。

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