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介護・介助・歳をとる事

とある記事で、高齢になりまもなく仕事を辞める歳ともなり、そのお子様の考え方に思考を巡らせてこれを書いています。

ある程度の時期になると、どれほど仕事をしたいと思っていても定年退職などもあり、その後を否が応でも考えなくてはならないことがある訳です。

我が母も81となり、現在ではのんびりと毎日の生活の中でのするべきこと、せねばならないことをして過ごしている訳です。
しかし、障碍を持った息子の面倒を見て、心身ともに疲れを感じる歳と言ってもいいところ。

さて、あなたはそんな歳をとった親に対して、言葉をかけるとしたらどうなのか・・・という点で。

読ませていただいた記事では、その方自体も介護などのお仕事をしている様子ですが、親御様には厳しめと感じてしまうようなご意見が書かれておりました。
できる限り仕事をして、できる限り自分のことをして、そして「自分がやるよ」と助けの口をきかないとのこと。

見え方感じ方は人それぞれです。
この言葉に厳しさを感じたり、悲しさを感じたり、同調したりなどなど多くのコメントがあったのも拝見させていただいていました。

そこに自分の意見を書くのは違うな・・と思って、NOTEに書いている次第。
なぜなら、対象の介護・介助をされる高齢者が違いますし、その言葉を言っている方は私ではありませんし。

どうしたらいいんだろう・・と、悩むことはあるものだと思います。
どれほど仲の良い親子であったとしても、認知症になってしまったのでは考えるべきことは少なくないですし、認知症でなかったにしても脳は老化を得て「思いがけない子供のような」印象をかますこともあります。

我が母も、電話で声を聞いていると「納得いかない子供の鼻を鳴らすかのような声」をすることがあります。
言葉上では理解しているけれど納得できないというあれ。

そんな時は、「何を見たの?」「何を感じたの?」「なぜそう思ったの?」と会話するようにし不安、滞りなどを解消していけるように仕立てます。
もちろん、忙しい中でその話になった際にはイラッとすることもありますが、少し呼吸を置いて仕切り直します。

高齢になった段階で、相手に対して物を言う場合、まず相手がどうであったのかを忘れることが少なくないと感じています。
こう言ったらどう感じるタイプか・・こう行動したらどう出るタイプか・・・

迷った時に、誰かの言葉で道を探すことはありますが、その前に「その人の基本的性格」を思い出し直すのも1つの手ではないかと考えるところ。

誰かが「うちはこうしているよ」と言うのは、その相手とその対象者のことであって自分ではないのです。

「じゃあ、そうしよう」ではなく、立ち位置を組み直してみる。
「それは違う」と思ったのであっても、噛み砕いて読み直して考えるのは大事な点ではないかと思うところです。

ちなみに私は母に「私がいるよ、私に相談してね、いつでも飛んでくるよ」と伝えることが多いのです。
父が亡くなってから17年、母は息子のことで必死に立って歩きましたが、弟を騙した馬鹿どものせいで心を痛めすぎてしまったので、「私がいるよ」がキーワードです。

それでも気の強いというか、立って歩くを良しとしている母は「ごめんね、がんばるね」を言うような人です。

親の介護をするかしないか、親との関係をどうするか・・は、個人個人本当に違います。
だからこそ、落ち着いて1人1人を見直し考えるのが良いのではないかと思ってしまいます。

親の老後をみる・・のは、当然では「ありません」
それもまた個人個人。
どれが正しいとか間違っているとは言い切れないのです。

ただ、「心残りを」作らないように。
それは「やってやれなかった・・」とかではなく、面倒ごとに巻き込まれないような意思の決定です。
財産や兄弟関係のことで「自分はどうするのか」を決めておき、「どうなっているのかをわかる限り知っておく」のは、大切なことだと思っています。

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