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乃木坂も高山一実さんも知らないオタクが映画『トラペジウム』を見た。――怪物が少女に、偽物が本物になる物語。

色んな事情があり見に行った映画『トラペジウム』がめちゃくちゃ面白かったので感想の記事を書こうと思いました。


トラペジウムを知るきっかけ

そもそもこの作品を知るきっかけとなった出来事は機動戦士ガンダムSEED FREEDOMである。小学生の頃、習い事に行く前にSEED Destinyを見ていた自分はFREEDOM上映が正式に決まりわざわざ100話ある作品をわざわざ見直してしまうくらいには気持ちが高ぶっていた。

初日に見に行き、うおおおおお! とバカみたいにテンションを上げた映画だった。入場特典である二種の描きおろし小説に「やってんなぁ!」と内心キレたかったが速攻で特典がはけてしまい、某月光のワルキューレさんの裏側を見ることはできなくなってしまった。

しかし、公式から発表された再配布によってふたたび劇場に足を運ぶこととなった。そこで目にしたのが映画『トラペジウム』である。

え、繋がってないって? いや、自分はちゃんと見たのだ、映画『トラペジウム』の広告を! とはいってもFREEDOMを見に行ってたまたま目についた印象的な映画、というだけで人は見に行かない。たまたま目についただけで人は動かないし、動けないというのも自明の理だと思う

ひょっとしたら『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』かもしれないが、まあ、些細な問題だろう。

トラペジウムを見に行ったきっかけ

昨今、SNSの発達で誰とでも繋がることができる、とは言われているが、正確な表現をするとすれば『繋がりたいものと繋がることができるツール』というべきだと思う。

端的に言えば、同じような趣味を持っている人と繋がるのがTwitterなのだから、自分が選別したものしか流れてこない。自分は原作者である高山一実さん(乃木坂46)のファンではないし、アニメ映画自体もそこまで追いかけているわけではないから、その情報は当然流れてくることもなく、忘却の彼方に消え去ってしまっていた。

直接的な見るきっかけとなったのはDiscord鯖で『トラペジウム』を見た感想を見かけたことだ。個人的には面白そうだと思ったが、なんとも微妙、みたいな感じだったので、逆に見に行きたいと思った。

実際問題、ほんのちょっとだけ興味がある作品をめちゃくちゃ熱いファンの熱い語りを受けてしまうとかえって見る気が失せる、みたいな現象、覚えがあると思う。だから『トラペジウム』は神作、全人類見ろ!みたいな感想だったら見に行かなかったと思う。実際自分は周囲からさんざん『劇場版少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を見ろと言われ続けているがいまだに見ていない。本当にすまない。

トラペジウムとは

個人の感想としてこれはタイトルにも掲げている『怪物が少女に、偽物が本物になる』話だと思った。

まず最初に簡単にトラペジウムのことを見ていこう。そもそもの原作小説が乃木坂46の一期生である高山一実さん。ダ・ヴィンチで連載していた「アイドルを目指す少女の青春物語」が根幹である。

事前情報はほとんど仕入れていないため、改めて公式サイトを見ながら書いているのでここで「少女”たち”」と書いていないの、改めてすごいと思いました。

本作では主人公である東ゆうの他に大河くるみ、華鳥蘭子、亀井美嘉が登場してアイドルグループ『東西南北』として活躍しているのにかかわらずである。すべてを見たうえで改めてみると色々なものが散りばめられていて素晴らしいと思う。

東ゆうという怪物

映画『トラペジウム』はどうやら賛否両論らしい。これはこの作品が一発で好きになった自分でもその理屈は分かる。

この作品の根幹は良くも悪くも東ゆうという少女に集約されている。彼女という怪物を受け入れられるか否かでどういう作品になるかが決まると言っても過言ではない。

東ゆうという怪物はアイドルという夢に取り憑つかれている。彼女の怪物たる所以はほとんどすべての行動がアイドルになるために繋がっているところだろう。

作中では描かれていないが、東ゆうという苗字と東高校に進学した時点でそこも計画の一つであるだろうし、西地域、南地域、北地域の可愛い女の子とも友達になっている。

作中で実際に結成された四人のグループ『東西南北』はまさしく彼女の考えたコンセプトなのである。それだけであれば単純に行動力がすさまじいだけといえるが、彼女が怪物であるのはそれに対してきわめて自覚的であることだ。

彼女が他の三人と順番に友達になるたびに一つずつ指を折って数えていくシーンが映し出される。まるで必要なタスクを消化していくかのように。友達である一方で彼女が考えたコンセプトにかなう構成要素の一つでしかないのだ。

彼女たち四人は地元の観光名所のガイドボランティアをきっかけにテレビ出演を果たし、そこから徐々に出番を増やし、結果的にアイドルデビューをつかみ取っている。

その過程の中で自分の意に添わないことが起こるたびに露骨に機嫌を悪くしている。私の、アイドルになるための計画が狂ってしまう、と言わんばかりの独善さはまあ、確かに賛否別れると思う。

その独善さは実際にアイドルになったときから顕在化していく。特に顕著に描かれていたのは大河くるみや亀井美嘉についてだ。大河くるみは工業高専の生徒でロボットが好きな女の子で女の子の友達は主人公が初めて、というほど内気な性格で根本的に他者から見られるアイドルに向いていないし、亀井美嘉はあまりにも普通に普通の女の子過ぎた。

徐々に余裕がなくなっていく主人公以外の三人に物語序盤に感じた仲睦まじい姿は完全に消え失せてしまっている。結果として普通の女の子として恋愛してしまった亀井美嘉のスキャンダルによって東西南北は解散をすることになった。

スキャンダルを起こした亀井美嘉に対して東ゆうに対して『彼氏がいるなら友達にならなきゃよかった』は東ゆうの怪物性を一番象徴している台詞だろう。

アイドルグループ『東西南北』にて辞めることを決意したのは他の三人であり、東ゆうには事務所に残るという選択肢もあるにはあったが、どうする?という言葉に本人が辞めます、と答えているがこれが彼女に偽物である理由の一つだろう。

なぜなら彼女一人ではアイドルになどなれない偽物に過ぎない、ということを一番理解していたのは彼女だからだろう。(実際、なぜオーディションなどではなく、こういうやり方をしたのか問われた際に、オーディションには全部落ちたと自嘲している)

怪物が少女になるとき

夢を失ったゆうは普通の高校生に戻らざるを得なくなる。オーディションには通らない(だろう)し同じ手段を取ることは実質的に不可能であるからだ。

実際、この時期の彼女は物語序盤で見せた怪物性はなりを潜めている。わかりやすいシーンでは学校内で同級生に嫌味たらしく『学校で困ったことがあったら相談してね』と言われる場面だろう。

中盤、アイドルとして活躍しているときは「いつでも頼りにさせてもらうね」と軽く受け流している一方ではただの少女になったときには「裏で私の悪口言ってるの知ってるよ」と感情的に反応してしまっている。

映画内では描かれていなかったがゆうはアイドルになるための四か条として「SNSはやらない」「彼氏は作らない」「学校では目立たない」「東西南北の美少女を仲間にする」を掲げていて、その中の「学校では目立たない」に思い切り反してしまっているのだ。

そんな彼女は母親に「自分は嫌なやつだ」と告白するのだが、母親は「そうなところも、そうじゃないところいっぱいあるよ」と返す。それもあってか、解散のきっかけとなった亀井美嘉に会いにいく。小学生のときの同級生でもあった亀井美嘉にかつての自分を聞くためだ。

ゆうは小学生の同級生であった高校時代に再会したとき美嘉のことを覚えていなかったのだが、それこそアイドルという夢に取り憑かれてしまったがゆえに覚えていなかったのだろう。

美嘉が語るのは虐められていた自分にゆうだけは気にせず声をかけてくれた、ヒーローであるということだ。ゆうが夢に取り憑かれたのは美嘉と会った後、カナダに移住して先で見た映像が原因なので、正真正銘のゆうの根幹の精神だろうと推測できる。

つまり、東ゆうという少女は極めて複雑な状況にとらわれていたといえる。小学生のときは紛れもなく彼女は本物だった。そのまま成長していればアイドルになっていたかもしれない。

だが、偶然にもアイドルという夢に取り憑かれたがために、怪物に、偽物になってしまった。アイドルを志すためには怪物にならねばならず、怪物になってしまったからにはアイドルでは居続けられない。何とも皮肉な状況だと思った。

美嘉が語るように夢に取り憑かれていないゆうはまさしく本物と言ってもいい。それが分かるのは東西南北のシングルがCDになったときだ。たった1曲、単独シングルどころかテレビ番組で使用した楽曲をまとめた中の一つでしかない。

とあることをきっかけに、CDを持ってかつて練習を重ねていた高台に東西南北のメンバーがまるで示し合わせたように集った。

そこで華鳥蘭子がアイドル活動のお陰で夢ができたと語る。世界中を巡ってみんなを笑顔にしたい、という夢だ。三人が三人ともゆうのお陰で前に進むことができた、といえる。それを成し遂げたのは決してアイドルの東ゆうではなく、ただの少女である東ゆうの影響である。

人を笑顔にする、というのはゆうが語るアイドルの魅力だが、怪物であり、偽物であったときの彼女は解散直前に美嘉から「近くの人(自分たち)を笑顔にできていない」と否定している。アイドルとしては彼女たちを笑顔にできなかったゆうが、ただの東ゆうとしては彼女たちを笑顔にできていたのは物語序盤を見れば明白だろう。

そして、彼女たちとの言葉を経て、東ゆうは本物へと戻ったのである。

彼女たちのその後

そして終局、といえる場面で本物のアイドルになった東ゆうはそのアイドルになった結果を「偶然が重なった結果」と表現しているが、その言葉が出てくること自体が彼女が本物であることの証明であるように思えた。

そして、くしくも東西南北の四人はかつて高校時代に10年後の自分をイメージしてコスプレをした姿に近しいものになっている。

白衣を選んだくるみは(おそらく)研究者の道へ、
探検服を選んだ蘭子は世界中を飛び回り、
シスター服を選んだ美嘉は一児(第二児妊娠中)の妻に。

そして、アイドル衣装を着たゆうはアイドルに。

このシーンにおける美しさはコスプレ衣装を選んだのはゆうではない、ということだ。文化祭でライブを見ることでアイドルへの導線を引こうとしたゆうは美嘉が行っていた障碍者ボランティアにて出会った車いす少女の案内でご破算になってしまったことに、完全に不貞腐れていた。

しかし、その車いすの少女がアイドル衣装を着れない(義足であるがゆえに)からこそ、ゆうにその夢を託し、ゆうは少女と必ずアイドルになることを約束する。

この約束は不気味なほど忘れ去られていて、アイドルとして活動している最中、ゆうは車いすの少女と交流している描写が全くない。ただの少女にもどったとき、偶然聞いたラジオにてその少女が「夢って本当に叶うんですね」と東西南北の楽曲をリクエストされたとき、ふっと物語に浮き上がってくる。

そして、これがゆうが本物に戻ることができたきっかけである高台の再会に繋がることとなった。

三人との交流、車いすの少女の夢を叶えたこと、これらによってゆうは本物になることができた。自分のためではなく、誰かのために。それこそがアイドルなのだろう。今でこそ、タレントとしての意味が強いアイドルという言葉であるが、本来それは崇拝される人や物、偶像を意味する言葉である。

自分だけではなれない、誰かにしてもらう、というのがアイドルなのであり、この物語が伝えたかったことなのだろう。東ゆうの青春物語はここで終着点に辿り着いた。

この物語は、最初に述べた通り『怪物が少女に、偽物が本物になる』だと思う。賛否両論あるように怪物がひたすら前に進み続ける姿はあまりにも恐ろしいですし、怪物が人々の温かさに触れて少女に戻る瞬間はあまりにも美しいと感じました。

恐ろしくも美しい、東ゆうの青春物語をぜひとも目にしてほしいと思いました。



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