決まりごと。

あいつはどうせ。

俺なんかどうせ。

あんなやつ。こんなやつ。

嫌な言葉を聞いては、自分でも呟いて。繰り返し繰り返し、自分に刷り込んで。

最初は自分の言葉ではなくて、なんとなくモヤモヤした嫌な気持ちだけがあって。そんなモワァッとした気持ちの落とし所を探していたら、そんな言葉たちに出会って。なんだかウキウキドキドキしていて。

そんな感じで、やっと見つけたしっくりくるフレーズを繰り返し繰り返し、いつも使っていたら、いつの間にかそれが当たり前になって。

モヤモヤの嫌な気持ちがあって、それに合う言葉があるのか。それともそんな言葉があるからモヤモヤしてくるのか。何だかわからなくなってきて。卵が先か鶏が先かみたいな話になって。

本当の自分の気持ちってなんだろう?そもそも最初にあったモヤモヤした気持ちは、本当に今使っているフレーズにしっくりフィットするものだったのか?

答えは誰にもわからない気がしてきて。

常識だって、同じようなもので。赤信号は止まれ。青信号は進め。それはどうして?って答えや理屈を探しても答えはない。

ただ教えられた通りのことが当たり前になっているだけで。

物理の法則は、そういう法則があって、それを人間がみつけて、それに合わせて物事を考えたり作ってみたりするけど。

最初の段階では何も決まってなくて、これはこうしよう、あぁしよう。と、人間が作った法則は人間社会のルールでしかない。法律とか校則とか。常識とか。

それらには本質的に強制力はない。重力のように万有ではない。でも、さも万有であるかのように思い込まれたルールは、社会のなかで強制力を持つ。

本質的ではないそれらの事柄は、肩書とかブランドイメージとか、豊かな価値付けや意味付けをもたらす。好きな芸能人にキャーキャー言う、ファンのそばで冷ややかな目線を送る非ファンの対比が好例かもしれない。

そういう価値付けを、何気ない口癖や会話のなかで繰り返し刷り込んで、自分をおとしめていないか。逆に自分を高め鼓舞しているのか。

そんな自己認識のなかで毎日を生きることが、精神的な病と向き合うことではないのか。病であるとかないとかではなく、そうやって自分と向き合い続けることが大切なことではないのか。

社会に合わせ、認められたことだけを繰り返し、刷り込んで。それが自分と思い込んで生きること。それは、僕にはできない。

それが普通という標準通りにできるような人間ならば、精神病にはなってない。僕はそう思う。


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