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無政府主義を考えてみる(1)

2022年明けましておめでとうございます。
本年もご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

年が明けてまず最初に思い浮かんだことや、去年ずっと気になっていたこと、自分のなかで整理しておきたいのに手がつけられなかったことなどを書き綴る。そんなことが年明けの自分作業の一つです。
言い訳なのですが、年末年始はここ十数年「占い師」としての仕事が忙しく、思考やアイデアをゆっくりと整理して書き出し、その一部を「公開」する。みたいなことが出来ずに、半ば義務的な感じでブログやSNSを更新していたように思い、反省心とギルティ感が新年の清々しさを蝕んでいました(苦笑)

そこで、今年は「何でもいいからとにかく書く!」を志としていこうかと年初の太陽に誓い、今回は私の「グレーバー・愛」と「宮台・愛」が重なったところの思考「無政府主義」について、思うことを書いてみようと思います。しかしそう簡単には「無政府主義」にたどり着くわけにはいかないのです。なぜか?それはあまりに過激的な主張として捉えられてしまうと残念なことになってしまうからです。
「そうじゃなーい!」というのがまずは大前提に語られないといけないのです。
そのためにまず「グレーバー・愛」と「宮台真司・愛」を語り、「アナキズム的転回」と「存在論的転回」を語り、それから「無政府」って何か、という順に進まないといけません。
ということで、全2回としての第1回では「無政府主義」にはたどり着けないと思うので、ご了承ください。2回目の投稿は、あと2日くらいかかると思います。

はじめに「グレーバー・愛」「宮台・愛」


「グレーバー・愛」とは、とてもお茶目で愛嬌があって、情熱的な文化人類学者でアクティヴィストのデヴィッド・グレーバーを愛してやまない、私の精神愛・知性愛のこと。
実は本当にほんとうに悲しいことに、2020年の9月に突然亡くなってしまい残念でなりませんでした。 
「デヴィッド・グレーバーの死」弓玉公式HP
グレーバーのトークショーや対談動画などを見ているとわかるのですが、彼の魂のピュアさや真面目さ、裏表のない正直さが屈託のない笑顔とともに現れていて、彼の話している内容が半分しか理解できずとも、彼の言いたいことがわかってきます。

「宮台・愛」とは、社会学者で都立大学教授の宮台真司先生への私の精神愛と尊敬愛と師匠愛と知性愛、思想愛のこと。です。宮台先生とのご縁を頂戴してのち少ししてから、社会人学生として4年ほど宮台ゼミに通いながら、宮台社会学・思想哲学を学んでおります。
2020年から昨年にかけては、念願が叶い、朝日カルチャーセンター新宿教室にて宮台先生との対談「森の哲学」を3回も行うことができました。
「森」と「哲学」と宮台先生
「世界の終わり」の世界とは?
宮台真司先生との対談素材「DUST」

私は学問的に本来性の論拠や言語的、人道的な主義主張に基づいて仮説を立てたり、私見を文章に上手に書いたりすることができないので、あくまでも私自身の思考整理と「グレーバー・愛」「宮台・愛」に基づいて、「無政府主義」に関することで、何が然様に私の心を鷲掴みしているのか、なぜ「古代マヤの世界観」を大切にしている私に深く影響を与えているのか、などについて書いてみようと思います。

アステカピラミッド

デヴィッド・グレーバー・愛

グレーバーのことを知らない人やわからない人は、まず初めに「デヴィッド・グレーバー」がどのような人なのかを、wikipediaで読んだり、ネット検索してくださいね。そして「へー、そういう人なのね~」とわかったら、次にグレーバーの著書『民主主義の非西洋起源について』の翻訳者で批評家でもあられる片岡大右さんの記事 「魔神は瓶に戻せない」D・グレーバー、コロナ禍を語る と、朝日新聞にも掲載された記事 「負債論」で一石 「本当に自由な社会」求めて を読んでくださいね。

グレーバーのコラムや著作、トーク番組や動画などが集められたとても素敵なウェブサイトがこちらにありますので、詳しく知りたい方は英語を翻訳しながら参考にしてみてくださいね。

先ほど紹介したグレーバーの著書『民主主義と非西洋起源についてー「あいだ」の空間の民主主義』を最初読んだ時、思いっきり「一目惚れ」してしまいました。脳がアハ!体験をしてしまった感じです。(こちらの著書はいまや在庫がなくて、現在プレミアがついて2万円台での販売になっています💦)

古代マヤ人の思考つながり


グレーバーは、片岡さんによると中学生の時にマヤ神聖文字の研究をしていて、その天才ぶりを発揮した結果奨学金を獲得されたそうです。マヤつながりがあったのかと感動もしました。

古代マヤの人々が、あるいは脈々とマヤの血とともに受け継がれてきたマヤ・ラカンドン(マヤ先住民として生き残った部族の名)の森やマヤコミュニティに継承された精神に、言葉の光が当てられたからなのだろうと思います。
 ・征服をまぬがれたマヤ人 ラカンドン族の歴史

人類学者としてのグレーバーの関心は、主に「人間とは何か」に向けられていたようです。人間一般の本性を深く理解するために、何千年もの歴史をたどり、原初主義や未開人の未開人性やコミュニティの在り方、古代国家が形成するプロセスなど、人間の本質に迫りながら研究を進められてきました。

一方「活動家」や「アナキズム的転回※」推進側に立つ「アナキスト」としてのグレーバーには、「私たちは99%」というウォール街占拠の活動家として、あるいは「ブルシットジョブ」「マルクス主義批判」「既得権益者批判」「国家に本性的に備わっている強制的性格の批判や、権力支配構造、支配と従属の批判」など、活動家として声をあげているのですが、その根にあるのは互いを理解し、配慮する人間同士のつながり「架け橋・ケア」的な本性が大切だとしています。

「アナキズム的転回※」

 『民主主義の非西洋起源について』のなかで片岡大右さんが、訳者あとがき『「あいだ」の空間と水平性』Ⅲ「アナキズム的転回」と民主主義 にて説明しています。そのことを説明するために、アラン・カイエによって記された『フランス語のためのまえがき』の一部を参照し、そして説明されている箇所を引用します。

制度化された代表制民主主義は、数々の失望をもたらしてきた。このような状況下で、民主主義精神を再生する唯一の道は、より深い民主主義の構築を目指すこと以外にはないように思われる。徹底して水平的で、参加者と当事者のすべての対等性を絶対の原理とする民主主義を打ち立てること。しかしこのような展望は、すぐさま疑問をかき立てずにはいない。民主主義の拡大と深化には、無力という代償が伴うのではないか?あるいはまた、支配すなわち何かに対する力に反対してなされる闘争は、なるほど正当でもあれば必要でもあるが、何かを行う力の減少を引き起こしはしないだろうか? 人類学者デヴィッド・グレーバーの息をのむほどに見事な論考は、こうした疑問を背景として読まれるべきものだ。……おそらくこの論考は、アナキズム的な歴史のヴィジョン、歴史の政治哲学に捧げられた、ピエール・クラストルの著作以来最も重要な成果であり、グレーバーの最良の仕事であって、しかもそこでは、哲学や社会科学における諸々の通念が見事に粉砕されている。

『民主主義の非西洋起源について』デヴィッド・グレーバー P128 「フランス語版のまえがき アラン・カイエ」

ひとりのアナキストを著者とするこの民主主義論は、単に西洋と非西洋の不毛な対立を厄介払いするためばかりではなく、民主主義の展開をアナキズムの観点から捉え直すことを通して、後者の歴史的不評を覆すためにも書かれている。本論考を貫くのは、「アナキズムと民主主義はおおむね同じものである」という仮説、「あるいはそうであるべきだ」という信念にほかならない。しかも彼の取り組みは、決して孤立した努力としてなされたのではなかった。本書は、時に「アナキズム的転回」と呼ばれる動向の最も有力な推進者の著作としても読まれるべきなのだ。
 この転回について、まずはフランシス・デュビュイ=デリの言葉を引こう。グレーバーも度々参照するこのカナダの政治学者は、アナキズムの歴史と現在への最良の導入の書と言うべき『父親に語るアナーキー』のなかで、次のように述べている――

対抗グローバリゼーションの運動が2000年前後に生まれてからというもの、この運動にはアナキズム的あるいはそれに近い傾向がかなり含まれていたもおだから、大学でのアナキズムの人気が上昇することになって、活動家たちは徐々に、人類学、地理学、哲学、社会学、政治学といった分野の教員ポストに就くようになってきた。アングロサクソン世界では、こうした最近の大学での盛り上がりを名指すために、「アナキズム的転回」が語られることさえある。

 この転回はとりわけ、2011年5月にニューヨークのニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチで開催されたシンポジウムに名前を与えた。ジュディス・バトラー、ミゲル・アバンスール、アルベルト・トスカーノらを招いて行われたこの国際シンポジウムは、かつてニュースクールで教えたライナー・シュールマンとハンナ・アーレントの業績に折に触れ立ち返りつつ、新世紀の政治哲学と関連諸分野における「アナキズム的転回」を主題化したのである。p167-169
 
長きにわたり、「アナキスト」という言葉は侮蔑の言葉として用いられてきた。だからこそ、少なくともホッブス以来、しかしたぶんもっと前から、アナーキーという概念はその語源的な意味(中心をなす政府の不在)から拡張されて、純粋な無秩序として理解されてきたのである。p170

『民主主義の非西洋起源について』デヴィッド・グレーバー 訳者 片岡大右あとがき P159~

グレーバーが考えている「アナキスト」的な立場・視座は、私からみると人類学的な思考「存在論的転回※」のものの見方や認識の仕方にも大きく関係するように感じたのですが、それはおそらくマヤコミュニティ「サパティスタ(複数の体制からなるマヤスモールユニットの社会組織集団)」の観点から概念を拾い上げていったということも大きく関係しているのではないでしょうか。

「存在論的転回※」

数年前から「存在論的転回」という新たな視座・人類学的思考が取り上げられるようになりました。文化人類学者で立教大学異文化コミュニケーション学部の教授、奥野克己先生のゼミにも半年ほど参加させていただき、『Lexicon』を通じて多くのことを学ばせて頂きました。

存在論的転回──社会学の沈下と人類学の隆盛  宮台真司

文化人類学がおもしろい -存在論的転回と”関係論的"存在論

「人類学の静かな革命」とも「ポストプルーラル人類学」とも呼ばれている、人類学の新しい動向である「存在論的転回」について、先ほど紹介した『レキシコン』から、少し長いですが引用してみましょう。

存在論とは、私たち自身も含む世界はどのようなものなのか、という存在の論理を問う知識であり、認識論とは、私たちはその世界をどのように知るのか、という認識の論理を問う知識である。世界とはこういうものだという存在論を方向づけると同時に、その認識論によって影響を受けるというかたちで、これら存在論と認識論は、相互に相互の前提となる関係にあり、両者を切り離して論じることはできない。しかし、近代の「自然/人間」の二元論に基づく学問の分業体制に従って、近代人類学の研究対象は存在論から切り離された認識論に限定されてしまっていた。p18-19

近代人類学の植民地主義的な支配や管理や搾取の正当化は、自然科学の真なる存在論を唯一の尺度にそれ以外の人々の存在論をその尺度からの社会・文化による逸脱として、一方的に認識論的に説明するという近代人類学の前提に起因しているため、この支配や管理や搾取に対する自己批判を行ったポストモダン人類学やポストコロニアル人類学のように、対象社会の人々の声を取り入れるかたちに民族誌の書き方を改めたり、分析の対象に権力関係のなかでの社会・文化の生成過程を組み込んだりしても、その前提が改められない限り、解消されることはない。その解消のためには、対象社会の人々の存在論を自然科学の存在論と対等な存在論と認め、自然科学を含むそれらの存在論がどのような認識論との相互関係のなかで成立するかを考えることで、自然科学の存在論を相対化しつつ、それ以外の人々の存在論を復権せねばならない。p20

こうした人類学の動向では、「自然/人間」の二元論に支えられている自然科学の存在論も人文・社会科学の認識論も、先住民を含めた他の人々の存在論と認識論と同等に扱われることで相対化される。そのうえで、近代の二元論に基づく存在論と認識論を含め、多様な存在論と認識論は、人々が人間と非人間(動植物やモノ)との関係を編み上げながら意味に溢れた物質的な世界を生成・維持する物質=記号的な実践の過程のなかに位置づけられる。この結果として、人類学の研究の焦点は、自然科学の存在論から逸脱している多様な人々の存在論を社会・文化によって説明する認識論から、多様な世界が生成される物質=記号的な実践の過程の存在論的な分析に移ることになる。
この動向が「存在論的転回」と呼ばれる所以がここにある。

『Lexicon 現代人類学』奥野克己・石倉敏明 編

存在論的転回の位置づけのなかでのオントロジー(存在論)は、「そもそも世界はどうなっているのか?」ということをパースペクティズム(多自然主義)的にとらえ、対象を抽象化しながら多視座的に柔らかい思考・境界をつくらない思考・分離しないトポロジー的な思考に近づいていこうとする立場なのだろうと思います。

宮台真司・愛

最初に言っておきますが、宮台真司について語るなんてことは、まったくもって不可能な話ではっきり言って「無理」です。

それでも語りたいと思うのは、私からみる「宮台真司」なる人物が、あまりに愛されるに相応しい人だから。なのです。男性としてもですが、それ以上に「人」として、先生として、学者として、知識人として、親として…

人間的なものを超越したAI的な頭脳明晰さと、卓越した知性と知識をもちながら、人としてはとても暖かく友愛や感情に溢れていらして、社会学者としては世界中に溢れるほどある学説や理論、思想哲学や論理矛盾などを自由自在に引用し、「宮台らしさ」を忘れないまま、自分の主張を展開したり他者と議論ができること。そしてそれらがすべて普遍的な「愛」に基づいているということです。
使命感に溢れているときは「風」のように、教師としての立場に徹底しているときは「言葉を超越した思いやりの真理」が「溢れ出す泉」の水のようにして相手に届くよう語られる様は圧巻です。

4年間宮台ゼミに在籍してきてなお、常に新しい視座への転換と、魂を揺さぶる感動と知のシャワーを与え続けてくださっていて、感謝とかそんな単純な言葉に変えることが出来ない、もっと深く、崇高で、神聖なパワーをもつ、モーセのような存在です。

宮台ドットコム http://www.miyadai.com/



先生の講義や対談、イベントで語られていることを書いてきたノートも何冊にもなり、文献資料の印刷やコピーなどはボックス4つにいっぱいです。

では、宮台先生の主義主張や言論が、私たち一般人からはるか遠い彼方の理解し難いほど難しい理論や議論なのか?と問うたとき、実はそうではなく、自然や虫や動物のことがわかる人、普通の子どもたちにもわかるような普遍的で自然の原理、宇宙や天の摂理的な思考に紐づいた、ごくごく当たり前にわかる思考なのだよということです。 そのことがわかるようになると、宮台真司がどのような事について論じているのか、言及しているのかがさらに理解できるようになり、宮台真司を知るための大きなカギになるのだろうと思います。

「難しい言葉は覚えなくていい、言葉や理論などはどうでもいい。何を言おうとしているのかをつかんでくれればいいのだよ。」

宮台先生が最初の授業でおっしゃった言葉で、何も難しいことがわからない私の胸にググっと刺さった言葉でした。
どうですか? 「宮台・愛」を感じますでしょ。

それでは次回「無政府主義」について書いていきますが、その前に宮台先生が最近ずっと言ってきた「加速主義」とグレーバーの「無政府主義」について少し語っているYouTube動画がありますので、是非ご覧になっておいてくださいね。


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