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えん結びの花 八・確信

 今日も取り巻きは無く、玲王は一人だった。
 怪我をしたのか、左手首にテーピングをしている。
「よう」
 威勢と態度こそ以前と同じに見えるが、その声は前よりも幾分落ち着いているように感じる。
「怪我したのか?」
「ちょっとな。それより……」
 玲王が進歩たちを横目で見た。
「僕たちはいい。先に用を済ませてくれ」
 楓我の顔を見た進歩は妙に優しげな笑顔で玲王にどうぞ、と促す。
 見た感じは遠慮しているという体だが、一瞬楓我に見せた鋭い眼差しには是が非でも何か情報を聞き出せ、と言う圧が含まれていた。
 仕方ない、と立ち上がった楓我は玲王と共に東屋を離れる。
「それで、用って?」
「まずはこれを受け取れ」
 構内に戻る扉の前で立ち止まった玲王は大きな紙袋を差し出した。紙袋の中には有名ブランド物のチョコレートの箱が見える。
「もしかして、いいことあった?」
「あったぜ!」
 玲王がよくぞ聞いてくれた、と鼻息を荒くする。
「俺、あれから色々考え直したんだ。お前言っただろ、贈り物はモノじゃなくて気持ちを伝えるためのモンだって」
「ああ、言った」
「だからこの前ダチに、ちょっと用事に付き合ってもらった時、思い切ってありがとうって言ってみたんだ。俺、考えたらそういうの言ったこと無かったんだ」
 玲王が噛みしめるように言う。その表情は自分は頑張った、と自慢げに輝いている。
「そしたらあいつら、初めてまた誘ってくれって、言ってくれたんだ」
 玲王はしみじみと噛みしめるように言うが、楓我はそんな言葉すら言われたことが無かったのか? と内心驚く。
「今までは、遊びでも用事の付き合いでも、やることやったら、もうそのままなんとなくバラバラになって別れてたんだ」
「……良かったな、本当に」
 なんと殺伐とした関係だったのか。楓我は失礼ながら憐憫の情を禁じ得なかった。
「付き合ってくれるのを有り難いって思ってなかった訳じゃない。ただ、出すモンさえ出せばそれはわかるだろうって思ってた。でも、違ってたんだ……」
 玲王は後悔を滲ませて呟く。
「人は、言わなきゃわからないものだよ。たとえ親でも恋人でも」
「ああ……。それで……」
 玲王が口ごもりつつ、必死に言葉を紡ごうとする。
「でな、俺、あいつを……。藍子って言うんだけどな、この前の日曜日に誘い出して……。ちゃんと言葉で伝えてみたんだ。一応贈り物も添えて。あ、贈り物はオマケだぞ? 言葉がメインだ!」
 ちゃんと考えているぞ、と強調する玲王に楓我はうん、と頷いた。
「最近の藍子は正直冷たくてよ……。何を贈っても良いレストラン連れてってもどこか上の空なんだ」
 玲王は体がしぼみそうなほどにため息を漏らす。
「ダチはいい加減諦めれば? とか言うけど、でも、俺は藍子がやっぱ好きなんだ。だから、考えられるだけの言葉で告白し直したんだ! そしたら藍子、すげぇ喜んで、改めてOKしてくれたんだ!」
「どんな言葉で?」
「ばっ! バカ! 言わねぇぞ! このスケベ!」
「えぇ?」
 成功例として聞いてみたかっただけなのに、と楓我は戸惑う。
「で、そういうことだから……。ありがとうな。お前が話を聞いてくれたおかげだ。しかも、ダメなところはダメって言ってくれた。あんなふうにあけすけに話した事って無かった。だから、色々考え直す事ができた」
 玲王は最初の慇懃無礼な態度からは想像できない低姿勢で、自然に頭すら下げた。
 楓我はどうやら思いを伝える手伝いができた、と最近ささくれていた心が癒やされる思いがした。
「あとよ、……ん!」
 玲王が顔を百面相させながら右手を差し出す。
「え?」
「は、早くしろ!」
 玲王が指をくいくい、と曲げて何かを促す。
「もしかして、握手?」
「口で言うなっつぅの! ハズいんだぞ!」
 そう言いつつ右手は下げない。楓我がじゃあ、と手を差し出すと玲王は一呼吸し、そして勢いをつけて手を握った。
 意外に冷たい手だ、と楓我は思った。
「へへ。こういうの、クサいけど実は憧れてたんだ」
 握りあった手を見て玲王が噛みしめるように言う。
「マジで、感謝してる」
 本当に心から、と表情が語っていた。
 楓我は手に力を込めることで答え、玲王も力を込めた。
 が。
「いでで!」
 玲王が身体を捩った。
「え?」
「ち、力! 力強いよオメェ」
「あ、ごめん。加減がわからなかった」
「……まぁ許す。なんか映画みたいだな、こういうの」
 離した手のひらを見て玲王が照れくさそうに笑った。
 楓我は、こんな感謝のされ方もあるんだな、と胸が満たされる思いだった。
「いやホント、クリパで思い切ってコクったのに振られるなんて嫌だったからな」
「結構長く付き合っているんだな」
「まぁな」
 玲王がいいだろう? と胸を張る。
「最初は直感だったけど、今はあいつが好きってはっきり思える」
 とても真っ直ぐな瞳だった。羨ましいな、と楓我は思う。
「そういえば、その手は大丈夫なのか?」
「平気だよ。ちょっと足がもつれてこけて、手首を打っただけだ。あれか、気疲れってやつかもな。なんせ俺は生まれ変わったからな」
「ならいいけど」
「……なぁ、そういえばよ」
 玲王が柔らかな口調で語りかけるように聞いてきた。
「お前は好きなやつはいないのか? いるんだろ? 思いは早く伝えたほうがいいぞ」
「いや、急に何を……」
 楓我はその質問に既視感があることを思い出し、前向きな話をされているのにひどく不安を感じた。 
 ──まさか?
「あの、ちょっと、これ触ってくれ」
 楓我が校舎の壁に這っている蔦を指差す。
「蔦ぁ? まぁいいけど大丈夫か? ばっちくないだろうな?」
 玲王は素直に蔦の葉を触り、これでいいか? と手を離す。
 触っていた場所中心に、濃いモスグリーンの葉っぱがほんの僅かだが目に見える程度には色褪せるのがわかる。
 楓我は息を呑んだ。
「で?」
「あ、いや。一種のセラピーだよ」
「はあ? まぁ、気遣いは受け取っとくぜ」
 玲王がしょうがないな、と笑う。
「あのさ、よかったら、二人の馴れ初めを聞いていいかな? きっかけも」
「おいおい、仲良くなったの聞いた途端に根掘り葉掘りか? お前もしかして意外にモテない? 聞きたい? そんなに?」
 玲王がいかにも調子に乗った顔でニヤける。
「ああ、大事なんだ。頼む」
「そこまで必死かぁ。まぁいいか。最初のきっかけは……ダチのダチだ」
 楓我は一字一句を聞き逃すまいと耳を澄ました。
「去年の11月頃だ。ロビーでダチらとだべってた時、俺の顔を見るなり『好きな人がいるなら思いを伝えないとダメだよ』って熱心に言ってきた女がいたんだ。変な奴だったけど、なんか気になる話し方だったな。で、そいつはまぁまぁイケメンの彼氏と一緒だったぜ」
 ──似ている。
 楓我は杏月に言われた言葉を思い出す。
 そしてさっきの玲王の言葉も、別に上手いことを言っているわけでもないのに何故か気分を高揚させる、と思った。
「でも、そのおかげで気になっていた藍子にコクれて、オッケーしてくれた」
「それで?」
「まぁ、その後は……、いやお前知ってるだろ? アレだ。藍子とちょっとケンカっていうか、疎遠っぽくなっていたんだよ。でも、お前のお陰でよりを戻せた」
 玲王が照れくさそうに顔をニヤつかせる。
「だから楓我、お前にもこの幸せな気分を味わってもらいたい!」
 玲王は興奮気味に目を輝かせて鼻息を荒くする。なおも言葉を続けようとするが。
「っくしょい!」
 突然、中庭に木霊しそうなほどに大きなくしゃみをした。
 口を抑えたまま動かない玲王を見て大丈夫か? と楓我が顔を覗き込む。
「……っと、わりい。あー……。ちょっと風邪っぽいかな。こっちから話しかけておいてなんだけどよ、こんなとこでいいか?」
「ああ。怪我しているのにありがとう」
「ただの打ち身だって。ま、お前も頑張れよ。どうしてもうまくいかなかったらまたアドバイスしてやる。俺、いい店知ってんだぜ」
 玲王の事だ。どんな高級レストランか、それとも料亭だったりするのだろうかと思っていると。
「和心っていう喫茶店だ」
「えっ?」
 出るとは思わなかった店名に楓我が眼を丸くする。
「ん? お前、知ってるのか?」
「俺もそこ使ってる……」
 楓我が言うとおお、と玲王が嬉しそうに頬を緩める。
「そうか、あそこいいよな。なんだ、思ったよりいい趣味じゃねぇか。なら話は早い。機会があれば奢ってやるぜ。もちろんアドバイスもな」
 自信に満ちた玲王は恋愛の達人だとでも言いたげに胸を張りその場を去った。

「どうやら彼もお仲間のようだね」
 いつの間にか後ろに立っていた進歩が玲王の背中を見ながら眉をひそめる。
「植物を弱らせる現象はあったかい?」
「……触った植物がわずかに色褪せる程度には」
 楓我が玲王が触れた蔓の葉を指さす。
「なるほど。僕が最初に症状に気づいた頃と同じか」
「元気そうだったよ。応援までされた」
「余裕だな」
 この前までのすっかり自信喪失していた玲王を思い出し、楓我も肩をすくめる。
「じゃあ、あの人はまだ大丈夫なんだよね? 多分だけど、植物を枯らせる現象が進行するにつれて具合も悪くなるみたいだし」
 雫が良かった、と胸をなでおろした。
「案外、この現象は関係なかったりとか……。いや、それは楽観的すぎか」
「でも、確かに私と進歩くんも、この現象が起きるようになってからも倒れたり、苦しくて眠れないとか、そこまで具合が悪くなった事はないし」
 楓我の言葉に雫も確かに、と手を見る。
「雫、説法屋。それは現実逃避だぞ」
「と、逃避しているわけじゃないよ? でも進歩くんと私、実際それほど現象が強くなってないっぽいし……?」
 ね? と首を傾げる雫を見た進歩が、たっぷり溜めてから大きな溜息をこぼした。
「……まぁ、確かにこの現象が起きたイコール死、と紐付けられているわけじゃない。複数条件があり、同じ条件がたまたま連続で確認できただけ、という可能性は……無いとは言えない」
 進歩は納得はできないが、と眉をひそめつつ肩を落として雫の提案に折れた。
「だが説法屋、あの男も貴重なサンプルには違いない。今後のためにもよぉく動向を観察してくれ」
「だからサンプルとかそういう言い方もやめろ」
 楓我が睨むと、代わりに雫が申し訳無さそうに進歩の腕をつねる。進歩はイテッと顔をしかめて口をとがらせた。
 二人のチグハグながらも仲良さげな様子を見た楓我は、大知と杏月の事は不可解だが今自分の周りに起きている事は案外一過性のものとして過ぎるのでは、と漫然と思い始めていた。

 11月1日。水曜日。午後3時。
 風に冬の冷たさが混じりはじめている。
 楓我は和心の奥の席でひとり座り天井を見上げていた。
 テーブルに置いてあった植物はマスターが新しく見繕ったものだ。楓我は出来るだけ触らないように端に寄せ、何も変化が起きてないことを確認して安堵する。
 呪いかどうかもわからない上なんの手がかりもない。
 もしかしたら杞憂なのかもしれない、と一旦問題を置くことにした楓我は自分の中で今最も大事な問題について考えていた。
 マリーから聞いた自分に足りないもの。言葉、進歩が言った良い偽善。それがどうにも引っかかっていた。
 頭の中のどこかに小さな出っ張りがあると感じるのに、それを記憶の山から掻き出せない。
 静かに流れてくるジャズの音が今はノイズのように脳をざわつかせ、自分がいかに焦っているのかがありありとわかる。
「昔の俺……。ソバ、偽善……」
 まるで共通点がない。だけどきっと言葉は繋がっている。
 百面相をしているとマスターが注文のコーヒーを持ち、楓我の顔を見る。
「なにか悩んでいるようだね」
「ええ、どん詰まりっていうか先が見えないっていうか……」
「まだ悩んでいるのか? 前も言ったが、自分で解決できなさそうなら、思い切って他の誰かに聞くことも大事だと思うよ」
「……そうですね」
 ──こんな時、自分以外なら……。そうだ、じいちゃんなら、なんて助言をくれるだろう。
 ふと実家の姿が脳裏に浮かぶ。なんでもいい。なにかきっかけだけでも、と楓我は藁にもすがる思いでスマホを取り出した。
「マスター、電話かけていい? 家にちょっと電話したいんだ」
 楓我がスマホを指差すとマスターは視線をそらしてコーヒーの焙煎の続きを始めた。
「楓我? 急にどうしたの?」
 電話の相手は楓我の母、栄子だった。
「あのさ、ちょっと宿坊を見せてくれない?」
「えっ? ああ、テレビ電話ね」
 栄子に事情を話して開始されたビデオ通話画面には立派な表門が映し出されていた。
「はい、こちらが創業三百年余り。伝統ある宿坊、風林坊の表門でございます」
 栄子が右手を上げ説明をする。
「なに営業トークしてんだよ」
「久しぶりだから忘れちゃったかと思って」
 呆れた様子の楓我に栄子が母親とは思えない、茶目っ気のある笑顔で言った。
 映像とはいえ表門をくぐるのは大学入学で引っ越して以来だった。
 入り口の門は相変わらずくたびれているが重みがあり、わずか数ヶ月ぶりなのに前よりも少し小さく見えた。
 門をくぐれば石畳が本館までやや蛇行しながら続いており、右手に曲がればそこには鯉の泳ぐ池と石橋が見えた。池の畔には蛙の噴水があり、山からの湧き水を口から吹き出している。シオカラトンボが池の蓮にとまり、せわしない動きで目玉を掃除していた。
 宿坊の風景は記憶から何も変わってはいなかった。
 映像が宿に戻りかけると。
「あ、ちょっと鯉が見たい」
「はいはい。こう?」
 栄子がスマホのカメラを池に向けて下ろす。
「おー、懐かしい。鯉次郎いるかな」
 池の中には四十センチを超える大きな鯉が十匹は見えた。
 楓我は餌をやって水しぶきを浴びたことを思い出し、目を細める。
「相変わらず元気よ」
「良かった」
「食欲も旺盛。あたしより長生きするんじゃないかしら」
 栄子はケラケラと笑う。
「今はこうして電話で顔を見られるんだから便利よねぇ」
「母さんがビデオ通話を覚えてくれて助かったよ」
 ビデオ通話を覚えたのは宿の営業に役立つから、と観光組合でIT教室が開かれたおかげで今では宿の紹介をSNSで発信したり、動画も楽しんでいる。
「今年の夏は暇だったわ。でも電話してくれたのが今日でよかった。明日はお客さんいっぱいだから。さっき、きんぴらゴボウの材料を山盛で作ったの。お母さんのキンピラ、懐かしいでしょ?」
 モニター越しに懐かしい記憶が蘇る。
 空気も匂いも感じないが、記憶の引き出しにはありありと感覚が残っていた。
 目を瞑れば中学校、そして小学校の頃に戻ったような気すらする。
「楓我、小学校の頃はおじいちゃんにべったりだったね」
「うん。修験者が籠もる山にも連れて行ってもらった。滝行も体験したし」
「寒かったって泣きながら帰ってきたっけ」
「最初だけだよ。後はちゃんと堪えた」
「宿泊に来た子たちとも仲良くしてたね」
「そうみたいだね。よく覚えてないけど」
 カメラは宿坊の中に移動し、一度に十人は揃って靴を履ける玄関を抜け、二十畳の居間に入った。宿坊には同じ部屋がもう二つあり、今見ている場所が寝る部屋。もう一つが食事用。もう一つが修行用の部屋だった。
 古い建物の特徴で天井は高く、一抱えもある梁が存在感を醸し出して天井をまたいでいる。幼い頃はあれが落ちてきたらどうしようと恐怖を感じることもあった、と改めて思い出す。囲炉裏のある薄暗い部屋に入った瞬間、炭の匂いを嗅いだ気分になった。
 忘れていたあの頃の一番楽しかった記憶は、まるで色褪せていなかった。
「確か、四年生の頃か。あの時、外国の子が……」
 その時、楓我の脳裏にいつかの記憶がフラッシュバックした。

 眼の前には親子で宿泊に来たという外国の子供が立っている。
 まだ顔がはっきり見えないがどうやら少女らしい。
 英語を喋っていて話していることはわからない。だが少女に対し楓我は身振り手振りで一生懸命に話していた。
 どこかつまらなそうにしていたその子が元気になるように、と家の中を意味がわからないであろう日本語で話し、鐘楼を実際に突いて音を鳴らし、鯉に餌をやったら鯉が暴れて怖がらせてしまった。飼っていた猫を抱かせたら機嫌を直してくれたので嬉しくなって台所に行き用意している昼食を見せた。
「ソバ。すごくうまい! ええと、ぬーどる!」
「ヌードル?」
「こうやって食べるんだ」
 箸を持ってすする真似をする。あんまり口をすぼめたからその顔が面白かったのか少女がクスクスと笑い始めたので、もっと笑わせてやろうと目を寄せたひょっとこの真似をしたらケラケラとお腹を抱えて笑った。
「ソバ! ヤミー! ヤミー!」
「やみ? わかんないけど……やみー!」
 昼食で少女と一緒に食べた山菜ソバは食べ飽きているはずなのにとても美味いと思った。その後ずんだ餅も一緒に食べたが、他のお客さんに出す分まで二人で食べてしまい、俺だけがこっぴどく叱られる。
 かばってくれた、と少女は頬にキスをしてくれた。
「あの子に説法もしたいけど、言葉わからないしなぁ」
 すると少女の父親が自分は日本語が少し話せると楓我に話しかけてくれた。
「僕、説法をしたいんです」
「セッポウ?」
「悩みを聞くんです」
 父親が少女に英語で尋ねたがあいにく少女自身は特に悩みらしい悩みはなく、それならと代わりに父親が聞いてきた。大きな体の外人がのしかかるような姿勢で聞いてきたときは思わずのけぞってしまうが、楓我は恐怖感を必死に抑えて話を聞いた。
「ワタシはワイフ……ええとこの子のお母さんが好きなのでここに来ました。でもワタシは他に行きたいところがある。マリーはキミのおかげで楽しそうですね。ワタシは……ワイフをだましている。イケナイコトですか?」
 そう尋ねる父親は真剣な表情をしていた。
「偽善って言葉があります」
「ギゼン?」
「いい人の真似をする、って意味です」
「それは今のワタシか……」
「でも、偽善が悪いこととは思いません」
「ホワイ?」
「だって、相手が嬉しいならいいんです。あなたにとっては嘘でも、相手の人にとっては本当に嬉しいことだから、それでいいんです」
「! オオ……」
 父親が目を輝かせる。その傍らでは少女がキョトンとした顔で父親を見上げていた。
 ──よし、じいちゃんみたいに言えた!
 楓我は更に説法を続けようとするが、うまく言葉が続かない。
「あー……ええと……」
「受け取った善意はどういう意図でも相手にとっては本物です。だから、いずれあなたが自分で自分を許せればいい。奥さんと一緒に楽しめるようになればそれでいいと思いますぞ」
「じ、じいちゃん?」
 祖父がいつの間にか後ろに立っていた。
「オーサンキュー! サンキュー! ガンバル。ワイフと本当に楽しめるようにガンバル! ワタシ、アイしているから!」
 父親は大きな手で楓我と祖父の手を握ると何度も感謝を伝える。
 祖父は良くやったと楓我に微笑んだ。
 少女が楓我に何かを言うがわからないでいると父親はそれを通訳してくれた。
「マリーはまたキミとソバを食べたいと言ってる」
「うん! 食べよう。また来てくれよな!」
 翌日、少女と家族は宿坊を後にした。
 それは小学四年生の頃の出来事。
 夏の陽射しは小さくなって消えてゆく少女の白い肌を透き通るように照らしている。ガラスが透けるように少女の笑顔は光の中へと消えていった。
 
 ──そうだ。俺は少女と一緒に遊んだ。
 あの日食べた山菜ソバの味を思い出した。
 また食べよう、と約束したのだ。
 少女の顔がはっきりと思い浮かぶ。
「マリー……」
「楓我ー? どこか他に見たいとこある? 五重塔行く? ちょっと時間かかるけどいいよ?」
 栄子の声に我に返る。
「いや、充分だよ。今日はありがとう」
「遠慮しなくていいのに。あ、そうだ。今度はいつ来るの? おばあちゃんも楓我の顔見るの楽しみにしているからね」
「そうだな……」
「その時は覚悟しておいてね。おばあちゃん、いつ継ぐんだって絶対言ってくるよ」
「親父が継いだばっかりだろ?」
「大きな声じゃ言えないけど自分の目が黒い内に楓我に継いでほしいんだって」
 栄子は困ったわねぇ、と呑気に笑った。
 その話はまた今度、と楓我は通話を切る。
「俺、マリーに会っていたんだ……」
 マリーは待ってくれていた。あんなにヒントをくれていたのに俺は……。
 気がつけば楓我はスマホの通話ボタンを押していた。

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