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えん結びの花 十一・刻々

 11月3日。金曜日。午前10時。
「天気は下り坂か」
 昨日までの秋晴れはなりをひそめ、朝から肌寒い曇天の空が広がっていた。
 始発の駅前から乗車したバスは目的地で降りるまで楓我と進歩の貸切状態だった。
 街の停留所を全て素通りして市街を抜けたバスは蛇行する峠道を登り、30分ほどで山中にただ一つの停留所、柴森山峠停留所で二人を降ろし、からっぽの車体で峠を降りていった。
 ディーゼルエンジン音が消えて周囲は静かになるかと思いきや、山は意外に騒がしかった。
 風で枝葉が揺れて何重にも木や葉が擦れ合う音が複雑に重なり、森が何かを話し合っているかのようにざわついている。
 カッコウやドバト、よくわからない鳥の鳴き声も四方から木霊し、山の上からは肌寒い風が吹き下ろす。
「にしても、バスの時間ギリギリだったな」
 楓我が進歩に非難の視線を向ける。
 朝早くに用意していたのにすっぽかされたらどうしようかと思っていた。
「間に合ったからいいだろ。しかし、意外に緑の匂いっていうのはしないんだな」
 防寒着に身を包んだ進歩が呟く。
「こんなもんだぞ。変に濃い緑の匂いってのは草を刈ったとか木を切り倒したとか、そういうときの匂いだ」
 同じく防寒着を着込み、軍手をつけた楓我が懐かしそうな目で周囲を見た。
「そうか、緑の匂いってのは謂わば植物の血の匂いか」
「やめろって。それより、どこから探す? いつ雨が降るかわからないから急ごう。帰りのバスはここの停留所に来るのが午後5時55分。それで終わりだ。遊んでいる暇はないぞ」
「あの女が見つかったのは停留所付近だったね。そのあたりから池なり沼なり水がありそうな低地っぽいところを探す」
「……いい加減、名前で呼べよ」
「もしもその女が元凶だったなら、名前なんかで呼ぶ気はないよ」
 その言葉には静かな怒気が滲んでいた。
「マップの衛星写真でそれらしい場所は目星をつけているが、木で隠れているところの可能性もあるよな」
 楓我がスマホを見ながら進む方向の目処を立てる。
「電波は大丈夫かな?」
「圏外。でも地図はオフラインで見られる」
「充電は?」
「バッテリーは持ってきた。一日動画を見ても余る」
「上出来だ。行くぞ」
 二人は人気のない登山道を歩き始めた。
「進歩は本当に呪いだと考えているか?」
 歩きはじめて30分程は地図を見ながら無言の行進が続いていたが、ふと楓我が問いかける。
「……どうだろうか」
 進歩にしては途切れの悪い返答だった。
「生きている人間なら誰かを恨んで呪って、事を起こすのはいくらでもある。だが、生者でない場合、しかも間接的となると……ね」
「だが、俺たちの身の回りで実際に三件人死に起きている。どれも毒や病気、ウイルスの線は無いだろう。大知は正式な診断書まであるんだ」
 楓我は地図を確認しつつ考えを述べる。
「呪いや恨みで人死にが出る時、その正体はたいてい共謀者がいて、結局のところ死因は毒とかの物理的な方法であることが常なんだけど……」
 進歩は息を上げながら眉をひそめて唸る。
「呪いと言っていいかはわからないけど」
 楓我が今にも雨粒が落ちてきそうな鉛色の空を見上げながら言う。
「感情の伝染ならあると思う」
「集団心理とかいうヤツかな?」
「みんな恋仲の人たちが犠牲になっている。大知と杏月さん、佐々木さんと藍子さんはお互いに相手のことを大切に想っていた。愛情の影響力は大きい。呪いじゃなくても、例えば結構な昔だけど、アイドルが死んだ時、それを追って自殺してしまう人間が実際にいた。そういうふうに、だれかの行動で感情が動かされ、それが他の人に伝染することはある。俺だって大知と杏月さんにアテられた一人だ」
 マリーと懇意になりたいと強く意識したのは大知と杏月を見てからだ、と楓我は自身の経験を思い出す。
「そういう感情を強く揺さぶり……血流を上げて、脳の血管でも切らせるのか?」
「憤死って言葉はあるけど、実際には直接の死因ではないらしいし……。そもそも植物を弱らせる原因っていうか仕組みが……うぉっと!」
 足元の注意が疎かになり、楓我がぬかるむ地面で足を滑らせる。うっかり手を付き、軍手が泥に塗れた。冷たい泥が体温を奪う。
「大丈夫かい?」
「平気だ。そろそろ最初の目的地に行くために道を外れていい頃だ。足場が悪くなるから充分に気をつけて先に進むぞ」
 楓我が周囲を見渡す。
「この小川がちょうど谷間に続いている。これに沿って行こう」
 進歩は少し緊張した面持ちで頷く。
 ふと、谷間を見ていた進歩の頭の上にばさり、と葉が落ちる。
 邪魔だ、とはらうと続けて葉が落ちてきた。
「進歩……」
 楓我が上を見上げて息を呑む。
 進歩が顔をあげると、頭上にぶら下がっていた蔦の葉が次々と枯れて落ち続けていた。
「触れずに枯れている……!」
 楓我が絶句する。だが進歩は雨のように舞い落ちる枯れ葉を見てふん、と不敵に鼻を鳴らした。
「上等だ。その前にこのふざけた茶番の正体を明かす。説法屋、行くぞ」
 楓我は黙ってうなずき、谷へと降り始めた。
「……ハズレか」
 下り坂を降りきると、周囲は岩だらけではあるがほぼ平坦な場所になる。最初に目星をつけていた池と思わしき場所には水たまり一つ無く、岩が露出して光を反射しているだけだった。他に衛星写真で確認できる池らしきものは見当たらない。
 そのうえいよいよ小雨が降り始め冷たい風が吹く。気温は一気に十度近くまで下がっていった。
「まずいかもね」
 進歩が体を震えさせていた。
「寒いだけならまだしも、雨は良くないな。ガスも出てきた」
 楓我が周囲を見渡しながら言う。
「進歩、今12時だ。このままなら戻ることも考えなきゃダメだ」
「説法屋、神通力とかそういうのは無いのかい?」
「そんなものあるか。俺は修験者じゃない」
「池……。低地……」
 楓我は解像度が良いとは言えない衛星写真を睨んで条件に合う場所を必死に探す。
「池がないんだ。祠は池のそばにあるはず。そして停留所から極端に遠くは無い筈なのに……」
「説法屋。さっき、水だと思っていたところが岩だったね」
「ああ」
「逆にそう見えないところが実はってことはないか?」
「そうか、水が枯れていることだってありうる」
 地図を衛星写真から等高線表示に切り替え、付近をくまなく探すと、谷間に水が溜まってもおかしくないくぼみを見つけた。
「……近い。道路にも出やすそうだ」
「どっちだい?」
「こっちだ!」
 とにかく行くしか無い。これで駄目なら引き返さなければならない。
 最後のチャンスだ、と二人は進む。
 岩や倒木、深い茂みと無数の羽虫が行く手を阻むが小一時間も歩いた頃、森の奥にわずかに明るい場所が見え始めた。
「進歩、見えたぞ! 泉……いや、池か?」
「あったか?!」
 足元のおぼつかなくなっていた進歩が汗だくの顔を持ち上げて目を輝かせた。
「水があるぞ。でも落ち葉で埋まってる……。これじゃ地面と区別がつかないわけだ」
「説法屋、祠は?」
「ああ……。あったぞ!」
 楓我の視線の先には半分近く崩れているが様々な大きさの石を積み上げて作られた囲いがあり、その中には石仏が二体あった。
 一体は元の場所から祠の外に倒れ、頭から泥の地面に突き刺さっていた。
「泉の側に建てられた祠。その中に鎮座した二体で一体の石仏。そして周囲には一応花が咲いている」
「周囲の花は明らかに人の手で植えられた跡が見られるね。自然の植生じゃないよ」
 進歩が息を整えつつ周囲を観察する。声には緊張が滲んでいた。
「これが縁結びの花の祠……」
「石仏が倒れているな。まだ新しいね」
 進歩の言う通り、ひっくり返っている石仏の裏側と合わさっていた面、土台には苔や汚れがほとんど見られない。
「倒れたのは、つい最近だ。間違いない」
「あれを見ろ」
 進歩が斜面の上を指差す。草に紛れるようにしてサコッシュが落ちていた。
「女物?」
「ここで間違いないな」
 進歩がやった、と息を上げつつ目を輝かせた。
「見ろ。おそらく……」
 進歩が倒れた石仏を見て言う。
「この石仏は元々は二体がぴったりくっついて鎮座していたんだろう。どちらの面もとてもきれいだ」
「確かに。うっすらと苔は生えているけど、外側の分厚い苔と比べると全然種類が違うように見える」
 面白いな、と楓我は僅かな環境の違いで異なる植生を眺める。
「進歩、これが心中した二人を慰めるために作られたものだろう。これを元の位置に戻せばいいのか?」
「それ以外出来ることはないな。……だが」
 そんなのでいいのか? と進歩は疑問も感じる。だが、二体の石仏を眺めていると、頭の中にさっきのような言いようのない気分の高揚を感じる。雫と一緒の時に感じているそれと似ている、と思った。
 そして今は何かが囁くような、背筋を髄の中から撫でられるような未知の感覚が足の下から脳天まで突き抜ける。それは進歩の体を無意識に動かした。
「進歩?」
「直そう」
 進歩は石仏に手をかけ、力を込め始めた。
「あ、ああ」
 楓我も石仏に手をかける。
「……重い……!」
 小さく見えるが岩の塊である石仏は二人がかりでも簡単には動かせない重さだった。
「進歩、これ、難しいぞ……」
「ダメだ! どうしても戻すんだ!」
 進歩の声に焦りとも思える声色が含まれていた。
 今までにない必死な声とその形相に楓我が戸惑う。
「絶対に、戻す……!」
 軍手が擦り切れ、指から血が滲んでも進歩は一向に諦める様子がない。
「ぐ……?!」
 ふと進歩の体から力が抜け、わずかに浮いていた石仏が鈍い音を立てて地面に落ちる。
「進歩、一度戻ろう。どうしても直したいならちゃんと用意を……」
「それじゃ間に合わない!」
 進歩が叫ぶように言う。
「進歩?」
「今わかったんだよ。僕にはわかったんだ!」
「何がだよ!」
「雫だけが気付いていたんだよ。植物を弱らせる現象……。男と女が愛し合って、男が死んで、女がその後を追うように死ぬのが何かに似ているのを。死ぬ前に他の人間に接触する理由も……」
「進歩? 何のことだ? 呪いじゃないっていうのか?」
「苔だよ」
「苔?」
 楓我が眉をひそめる。石仏は苔にまみれている。軍手も泥や苔にまみれている。
「苔って、この? いやそれはふざけ過ぎだろう?」
「聞け。この苔は、胞子の状態で人間に寄生するんだ。それがわかった。俺自身で確信した」
「確信って……まさか?」
「そうだよ。俺に寄生しているのがまさに……ぐっ!」
「進歩ここを離れるんだ! もしもそうなら今すぐ……」
「聞け。昨日、雫が言ったんだよ」
 進歩は意識朦朧となりながら話を続けた。
「雄株と雌株が男女それぞれに寄生して、最後に精子が卵細胞で受精する。それが呪いの正体なら説明がつく。そう言ったんだ。昨日の夜……」

「進歩くん、植物にも雄株が精子を作って、実際に雌株まで泳いで受精するものがあるんだよ。例えば苔がそう」
「苔?」
 知らなかった、と進歩が目を丸くする。
「全部推測で悪いけど、呪いの伝染の仕方が何かに似ているって考えていたの。寄生生物とか細菌なら、人が死ぬようなら重篤な症状なら検査でわかるはずだけど、これがもしも植物だったら、しかもすごく小さかったら、そんなのまさかって見逃されるかも……って」
 雫は部屋に置いてある観葉植物を見ながら言う。趣味なら微笑ましいが、それらは植物を弱らせる現象の進行度を確認する為であった。
「……続けてくれ」
「苔の雌株には造卵器っていう、哺乳類で言う子宮があってね、きっと今、私の子宮にそれの卵子があるんだと思うの」
「つまり、僕の精巣にも苔の精子があると? それは流石に……」
「そうだよね。本当は確かめたいんだけど、ちょっと器具がないと難しくて……。が、がんばってみたんだけど……」
 声が恥じらいで小さくなる。
「そうだと仮定して当てはめると……えん結びの花を贈る奴は、つまり作られた胞子を他の人間に媒介させているのか?」
「……私を応援してくれた智美さんは、多分苔に寄生されていたんだと思う。智美さんの中で実った胞子を広げるために、私みたいな人を見つけて……うん、そうだ。この苔は人の愛情を利用して、雄花と雌花をくっつけさせるんだよ。私が雌株。進歩くんが多分雄株……。恋人同士だとそうそう離れないから安全に受精できるってことだと思う」
「雫、待ってくれ。僕の……僕のこの気持ちは、苔なんかに思い込まされたっていうのか? 苔が、受精するために?!」
 進歩の息が荒くなる。汗が吹き出し、心臓が早鐘のように打つ。
「違う!」
 雫が叫び進歩は我に返る。
「違うよ。進歩くん」
 雫が進歩を抱きしめ、進歩は逆らわなかった。
「私は高校生の頃から進歩くんが好きだった。智美さんに会ったからじゃない。この気持ちは……作られたものなんかじゃない! 誘導されて思い込んでいるものなんかじゃない!」
 進歩の胸に熱いものが込み上げ、目頭が熱くなるのを感じる。
「苔は元々ある人の愛情を利用しているんだよ。誰かを好きだっていう気持ちを。雄株と雌株に感染している者同士で恋愛感情があるときに、それを増長させるんじゃないかな。そういうの……ええと、何だっけ」
「一番都合がいいのは脳だ。苔が脳に寄生しているとしたら、PEA(フェニルエチルアミン)を操って感情を高ぶらせる……。ありえないとは、言えない。脳内麻薬ならドーパミンが手っ取り早い。そうなると前頭野あたりに苔は寄生しているのかもしれない」
「さすが進歩くん! なるほど、感情を高ぶらせればその気になる。そういうカラクリかもね」
「周りの植物が弱まる現象は何なんだ?」
「……おそらくは、フィトンチッド」
「聞いたことあるな」
「森で人が気持ちいいって感じる成分。森林浴でよく言われるやつだよ。森林浴で良い気分になる物質の正体である青葉アルデヒドのたぐいのこと」
 雫の真剣な表情を進歩は見つめ、促す。
「人間にとってはたいてい心地よい匂いだけど、他の植物を駆除するための、いわば毒って感じ。森も平和に見えて、あんがい弱肉強食なんだよね」
「それは……つまり、脳内に寄生した苔が周囲の植物を排除するため、体から発生させているのか?」
「多分。そしてそれが強くなっているのは、苔が成長してるから」
 雫は両手を見ながら言う。
「進歩くん、祠探しはやめよう。危険だよ。きっと、楓我くんが言った通り、私たち、しばらく距離を置けば……」
「それを確かめるんだ」
「進歩くん!」
「成長した苔は、その後どうなると思う? みんなどうなった?」
「それは……」
「苔がもしも事故で外に出たのなら、それを返せば呪いが、成長が止まるかもしれない。どのみち今のままじゃ僕と雫は……」
「なら、ねぇ、進歩くん。私たち、このまま身を任せちゃ……ダメ?」
 雫が進歩に身を寄せる。雫の匂いが、体温が五感を震わせるほどに刺激する。
「……!」
 体中が総毛立った気がした。進歩は抱きしめたい衝動を歯を食いしばって堪え、そして抱きしめるかわりに肩に手を置き、雫を引き離す。
「進歩くん!」
「雫。僕は生きるために行くんだ」
 進歩の言葉に雫が息を呑む。
「それと、そうだとすれば説法屋はどうして発症しないんだ?」
「それは……」
「二人から感染させられたのにあいつは症状がほとんど無い。僕はね、あいつこそ呪いを解除する鍵だと思っているんだ」
「楓我くんが?」
「だからあいつにも付き合ってもらう。同じ場所に行って同じことをすれば、なにか違いがわかる。そうすれば、雫、君を死なせない方法がわかるかもしれない」
「そんなの……進歩くんも一緒じゃなきゃ、嫌だよ……。どこかに逃げられないの? 二人で逃げられないの?」
 雫が嗚咽を漏らす。
「因果応報。いいことをすればいいことが、逃げれば逃げただけの業が追ってくる」
 進歩が呟く。
「ははっ。僕もあいつに影響されたかな」
 進歩はこれまでにない優しい微笑みを雫に向けた。

「進歩、お前……」
「僕は逃げない。この苔が呪いの原因なら、熨斗つけて突き返してやる!」
 進歩が歯を食いしばって石仏を押し戻そうとする。頭の血管が浮き、鼻から血がこぼれ落ちる。
「えん結びの花の都市伝説は、きっと過去にも似た事件があったんだ。こことは限らないが、話が残っているんだから、きっと生き残った人間がいる。なら、今回だって……!」
 進歩は石仏をひたすら押し上げる。
「進歩、下に石を積むんだ! 少しずつ動かそう!」
 周りに適当な枝は無く、てこは使えそうにない。楓我は崩れた祠の石をわずかに浮いた空間に差し込み、少しずつ少しずつ石仏の姿勢を直してゆく。
 代わる代わるに石仏を持ち上げ、石を積み続ける作業を1時間以上も続け、石仏はようやく元の位置に収まった。
「やった……」
 楓我が肩で息をしながら元の位置に収まった石仏を見る。寄り添いあった場所は苔で隙間が埋まり、別々のものとは思えないほどにくっついていた。
「やったな、進歩。……おい?」
 進歩が自分の手を見て黙っていた。
「進歩?」
 進歩は楓我の声にはっと頭をあげ、楓我を見る。だがその視線は定まらない。
 進歩は頭を振り、目をしばたかせてようやく風我を見た。
「どうした?」
「……いや、ちょっと疲れたせいだ」
「何が」
「それはいい。説法屋、消えたよ」
「……なにが?」
「声……いや、意識が……。頭を締め付けるような不快感が……消えた」
「それって……!」
 楓我が石仏を見る。
 寄り添った石仏の顔は苔にまみれ、表情はほとんど見えない。自分には何もわからないが、進歩にはわかったのだろうか? と首を傾げる。
「何か、植物をくれ」
 進歩が大きく息をしながら手を伸ばす。楓我は地面を這う蔦を引き伸ばして進歩に渡した。
「進歩……! 植物が枯れない!」
 二人が触れた植物は何も変わらなかった。変色もしない。葉が落ちもしない。そのまま数分待っても葉はみずみずしいままだった。
「やった! 石仏を直したからだ!」
 楓我が飛び上がる勢いで歓喜の声を上げた。
 対して進歩は逆に落ち着き払って石仏を見つめている。
「進歩。多分だけど、この石仏を倒したのは智美さんだったんじゃないか? きっと故意じゃないにしても、それが呪いを引き起こしたのかも……。もしかしたら、石仏を倒されて怒った昔の恋人二人が、自分たちを直せって、それを言いたくて……」
「楓我」
 興奮していた楓我がそのひと言に息を呑む。初めて進歩が名前で呼んだのだ。
「ありがとう」
 そして礼を言った。
 夢を見ている? というほどに驚く楓我を見て進歩が笑った。
「……見ろ」
 進歩が石仏を指差す。
「これ、話じゃ二体で一体になる石仏をとなっているが元々一つだったんだ」
「そうなのか?」
「平らでもないのにつなぎ目が正確すぎる。割れた岩の左右に彫ったというのが真相だろうね」
「そう言われれば……。でも、これが何なんだ?」
「この隙間にあった苔は、周りの苔とは全然種類が違って見えた。もしも……それが周りの苔より弱い種だとしたら。きっと苔は石仏の隙間で、他の種に侵略される事を恐れながら生きてきたんじゃないかな」
 すっかりいつも通り冷静な進歩が噛みしめるように呟き、ふと声を上げる。
「……雫は、きっと大丈夫だ」
「進歩?」
 進歩がふらつきながら歩き出すが、頭を抑えて膝をつく。
「進歩! いいから帰ろう。もう用は無いんだろう?」
 楓我は進歩に肩を貸し、祠を後にする。
「これで俺たちは死なずに済むんだよな?」
「ああ。少なくとも君は大丈夫だと思う」
「どうして? 進歩もだろ? 自分の中じゃ何も変わってないように感じるけど……」
「これだけの苔に囲まれて、楓我、君はなぜ侵されない?」
「……石仏を直したからじゃないのか?」
 きょとんとする楓我を見て進歩は力なく笑う。
「行こう。バスに間に合わなくなる」
「あ、ああ」
 祠から峠道に出るまでは意外にかからず、バスの時間ギリギリで停留所まで降りることが出来た。
 進歩はよほど疲れたのか、時々風我の手を借りて山を下る。普段なら絶対にしない行為だ。
 びしょ濡れの楓我たちを見た運転手は、座席にビニールのシートを敷いてくれた。乗客は二人しかおらず、まもなくバスは静かに発車した。
 バスに揺られ何度かくしゃみをする進歩の意識ははっきりしていた。だが、その視線はどこか落ち着かない。
「大丈夫か? 帰ったら早く休んだほうがいい」
「そうする……。楓我、雫はきっと大丈夫だ」
「そうだな」
 進歩はさっきから同じことしか言っていない気がした。
 車窓から街が見えてきた。進歩は街を見下ろしながら穏やかに笑みを浮かべている。その様子は落ち着いている、と言うよりどこか力なく見える。それはまるであの日、図書室で見た杏月のように。
「楓我、お前はマリーと仲良くしろよ」
「え? ああ。それは……。進歩?」
「大丈夫だ。もう、雫は……」
「進歩、さっきから何言ってるんだ?」
 どこを見ているかわからない進歩に不安が湧き出す。病院に連れて行ったほうがいいか、と思い始めたとき、楓我の携帯が鳴った。
 それはマリーからだった。こんな時でも楓我の顔が思わず明るくなる。その様子を見て進歩は早く出ろ、と楓我を促した。
「ハイ、楓我」
 スピーカーの向こうから耳をくすぐる心地よい声が響いてきた。
「マリー、もうこんばんは、かな?」
 車窓の外を見ても一面の雲で青空は見えず、街の看板のライトは昼夜の感覚を狂わせる。
「着いたの?」
「いや、今はまだ帰りのバス。家に着くのは……あと1時間くらいかな」
「終わった?」
「終わったけど……」
「成果は芳しくない?」
「いや、うまくいったと思うんだけど……正直わからない」
「楓我、声が暗いよ。気分がますます暗くなっちゃう」
 マリーの弾むような声が沈んだ心に浮き輪をつけてくれる気がする。だが、今はそれでもなかなか気分が明るくなる、とはいかないのが申し訳なかった。
「お夕飯一緒にどうって思ったんだけど」
「それはいいな。あ……」
 願ってもない提案だったが、ふと進歩を見る。
「何を遠慮なんかしているんだ。愛しい彼女の誘いだろう?」
「大丈夫なのか?」
 問いに対して進歩はスマホを取り出して楓我に見せた。
「ちょうど、雫からもかかってきた」
「どうやら、お互い世話好きな彼女に恵まれたようだな」
 違うと否定するかと思ったが、楓我の言葉を進歩は否定しなかった。
 進歩も着信に応答する。
「雫」
 さっきまでの空虚な表情だった進歩の顔にわずかに精気が戻った気がした。進歩は小さい声で話し、それを見て楓我も自分の電話に戻る。
「服を着替えてからなら、一緒に出かけたい」
「着替え? 何? 濡れたの? この冷たい雨の中何してたの?」
「下着までぐっしょりさ」
「楓我、どこで何してきたの? インフルエンザだって流行っているんだよ?」
「それも話すから」
「……しょうがないなぁ。電話かけるといつも着替えが必要になってない?」
 小さなため息が聞こえるがそれすら優しく感じる。待ち合わせ場所を決め、電話を切ると進歩も電話を切ったところだった。
「楓我、僕はこの先で降りる」
「こんなところでか?」
「雫が待ってるんだ」
「ああ、迎えに来てくれたのか。雫さんによろしくな」
 楓我の言葉に進歩が素直に頷く。
 今日初めての降車ボタンが押され、バスが止まった。
 街外れの公園近くの停留所で進歩だけが降り、バスは走り始める。
 振り返りもせず公園に向かって歩く進歩。その背中がやけに煤けて見え、楓我は無性に不安を感じるが、交差点を曲がり姿は見えなくなる。
 雫がいるなら大丈夫だろうと思い、楓我は再び襲ってきた猛烈な睡魔に抗いつつ船を漕ぎはじめた。

 雨のそぼ降る公園を進歩は歩く。
 もう体が冷たいのか何なのかよくわからなかった。
 足がもつれ、膝をつく。
「見えないって、厄介だな」
 進歩の視界がほとんど消失していた。
 ──これが、最後の感覚なのか……。
 進歩は我ながら冷静だと感心していた。
 スマホが鳴る。相手は雫だ。視界が不自由だと着信ボタンを押すのも苦労するのか、と驚きつつなんとか通話ボタンに触れて応答する。
「進歩くん! 今どこなの? ねぇ! 大丈夫?」
 雫の声が震えていた。
「正体は確かめたよ。雫、君の予想も当たっていた。でも、賭けは……負けだ」
「やめて!」
「祠に行ってわかったことがある。祠にあった苔、あれが寄生していた苔なのは間違いないよ。だって、僕の体から何かが抜け出たのがわかったんだ」
「抜け出た……?」
「雄株が成長していたんだ。それが僕の血を通って祠の苔に移動した。つまり、僕の雄株は役目を終えたんだよ」
「……そんな……」
 雫の声が震える。
「神経の……かなり、深くまで寄生している。だからそれが枯れると……きおくも……おっと」
 足元がおぼつかなくなり、進歩は転がるように道の脇の茂みに倒れ込んだ。
「進歩くん! 今どこなの?」
「ぼくのからだは役目を終えた」
「変なこと言わないで!」
「本当だよ。今、僕の目は殆ど見えないんだ」
「目……? ど、どうして?」
「脳が死に始めているんじゃないかな。視神経がまっさきに影響受けるのかも知れない。言語中枢じゃなくて良かった。喋れなくなる」
「そんな……!」
「僕のお株が役目を終えた。だから対であったきみのは……きっと相手が居なくなったんだからおとなしくなるだろう。きっと……」
「そんなの……。進歩くんがいなかったら、私……」
「ぼくは……きみを、まおれたかな」
 ろれつが回らなくなり始めていた。
「ま、守ってくれたよ! ずっとずっと! これからもでしょ? ねぇ!」
「君はもうあいじょう……だ」
「進歩くんっ!」
「ああ、そうらあと一つ。わからないんだ……」
 声が小さくなってゆく。言葉に精気が無くなっていくのが雫にはわかった。
「……なぁに?」
 雫は涙をこぼしながら優しく問いかける。
「あいつは、どうしてのろいがすすまあかっらんろう……。マリーも……。それが……わかあない」
 雫は必死に考える。楓我とマリーの二人の何が自分たちと違うのかを。言葉を途切れさせたら終わりな予感がしていた。
「あ……」
 雫はマリーとの会話を思い出した。
「どうした?」
「マリーさんはね、アメリカにも似たような伝承があるって言ってたんだよね?」
「ああ……」
「もしかしたら……。もしかしたら、マリーさんは私たちとは違う苔に寄生されているのかも」
「違う……?」
「日本にあるような苔が海外にだってあるのかも。私、マリーさんから心地よい香りを感じたことがあるの。あれも、もしかしたらフィトンチットだったのかも。いい匂いって思ったのは、私の苔がマリーさんの影響で弱まって、だから私の体がいい匂いって思った。それなら説明つかないかな?」
「……それは……きょうみぶかい……な……」
「もしも、もしもそうなら、マリーさんの苔が強いって事は、それは……」
 雫が息を呑む。
「植物は……強いものが弱いものを淘汰する……。マリーさんのが強い個体なら、他の人のそれを排除しようとする筈……。楓我くんが進歩くんにあんなに攻撃的になったのは、マリーさんというより、マリーさんの苔を守ろうとしたから……」
 雫の声が震える。
「わたしたちの苔が無くなったら、それで終わりじゃ……ない……」
 進歩の弱々しい息が聞こえている。
「眠っちゃ駄目! 聞いて! マリーさんの苔はもしかしたら外来種として生息範囲を広げようとしている……。そういうこと? ねぇ、進歩くん?」
 だが、スピーカーからはスマホに落ちた雨音が聞こえるだけだった。
「進歩くん! 進歩くん!」
 雫の必死な呼びかけも虚しくスピーカーからはマイクに当たっているのか雨粒の耳障りなノイズだけが聞こえ続けている。
 雫はスマホを握りしめたままその場に泣き崩れる。
 傍らのテーブルの上に置かれた鉢植えのポトスの葉が、切られたようにぽとりと落ちた。

「ハイ! お目覚め?」
 スマホが鳴り、楓我は夢うつつから目を覚ます。
 バスは街灯と看板の明かりが乱反射する眩しい市街を走っていた。
「よく寝ているってわかったね」
 大あくびしながら言うと、スピーカーの向こうから笑い声が響く。
「なんとなくね。ねぇ、疲れてるんでしょ? 今から差し入れ持ってあなたの家に行ってもいい?」
 マリーの声が妙に頭に響いた。
「歓迎するよ。でも、もしかしたら俺寝ちゃうかもしれない」
「いいよ。よく眠れるように寝かしつけてあげる」
「それは……嬉しいかも」
 敵わないな、と楓我が笑みをこぼす。他愛のない話をしてから電話を切った楓我は頬を叩き眠気を振り払った。
「大知たちの分まで頑張って生きるんだ……!」
 誰が得体のしれない苔なんかに負けるか、と楓我は拳を握る。
 ふと頭が痒くなり、軽く掻くと細い針上の葉が数枚、膝の上に落ちてきた。
 山をどれほど駆け回ったのか。頭が葉っぱまみれでもおかしくない、と楓我は気にも留めなかった。
 だから気づかなかった。落ちた葉の付け根がどれも自身の髪の毛だったことに。

 スマホを置いたマリーは機嫌良さげに外出の支度を始める。
 ブラシで丁寧に髪をすくと、数枚の小さな植物の葉がからみついていた。
 マリーは枝毛を見つけたのと変わらない仕草で抜いてゴミ箱に捨てる。
 部屋の電気を消すと、ぼんやりとした明かりが闇をかすかに照らす。
 それはマリーの瞳が発光する輝き。

「楓我、あなたは……Yummy?」

                               完