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えん結びの花 四・進行

 10月28日。土曜日。午後1時。
 葬儀は家族葬のためしめやかに進められた。親戚が三人来た以外来客はなく、その親戚も今は別室で休んでいる。
 客間に棺が置かれ、そこにいるのは大知の両親と楓我の三人だけだった。
「慌ただしくてすまないね」
 ぬるいお茶で喉を潤し、裕三が独り言のように呟く。
 楓我は黙って頭を下げる。
「それに、死に顔も見せられなくて本当に申し訳ない」
「いえ、検死が必要な状態だった事は杏月さんから聞いていました」
 大知の眠る棺の窓を開けることは出来なかった。裕三からは君さえ良ければ、と言葉をかけられたが、楓我は両親の心情を汲み遠慮する。
「杏月くんには、つらいことを押し付けてしまった」
 楓我が律儀に持ってきた葬儀のハガキを見ながら裕三が疲れた顔で頭を下げた。
「いえ、杏月さんからも、最後に話を聞けて良かったです」
「しかし、まさか杏月くんまで……」
 言葉が途切れ、隣りに座っていた母親の美代みよが口元を抑えて背中を丸める。
「いったいあいつに、杏月くんに何があったのか……」
 棺を見た裕三が小さく呟く。
「……差し支えなければ教えてください。大知はどういう状態だったんですか?」
 杏月から聞いたのは大知の外見的状況だけ。楓我は詳しい内容を知りたかった。
 裕三が美代に目配せすると、美代は小さく頷いた。
「あとは頼む」
 出ていったのは裕三のほうだった。
「ごめんなさいね。あの人もう、とても思い出せないって」
「大知、お父さんっ子だったから」
 遺影を見た美代が今にも泣きそうな笑みを浮かべる。
 大知の遺影は街から見える山脈と合成された姿だった。大知は眩しいくらいの笑顔で笑っている。これは確か卒業式で撮った写真の顔だ、と楓我はあのときの光景をフラッシュバックさせた。笑い声すら聞こえそうなほどに鮮明にあの日の事が思い出される。
「さっきあの人が言ったけど、事件性は無いらしいの。でも、発見された時の状態は……杏月さんから聞いたと思うけど……。普通じゃなかった」
「そうらしいですね」
 そして、それを話す時の杏月も普通ではなかった。あの仕草は思い出すだけで背筋が冷たくなる、と楓我は肩をすぼめた。
「違法薬物の使用歴が無いか聞かれたわ」
「薬物……」
「ひどい自傷行為が見られたからかしらね」
「聞いています。でもあいつはそんなのに縁はありません」
「ええ、親の贔屓目じゃなく、あの子はそんな事しないってわかっている。実際、なんの反応もなかったし」
 当たり前よ、と美代が憤った顔で言った。
「だけど……」
「そうね。でも、それならあの子はどうしてあんなマネをしたのかしらね」
 眼球の破損、右手の指はガラス片を握りしめることによって人差し指はほとんど千切れていたらしい。どちらも神経を傷つけ、想像し難い激痛を伴うであろう行為だ。
「あいつは、あんなに杏月さんとの事をのろけてたのに……」
 楓我は憎らしいほどに幸せそうな大知の顔を思い出し、思わず涙を一粒こぼす。美代もその様子を見て涙を流した。
「……ごめんなさい。それで、検死の結果の最終的な死因は、心臓麻痺らしいの」
「心臓?」
「ただそれは一番の要因らしいというだけ。外傷も致死にまで至るものではなく、複数要因が絡んだ異常死。ただし事件性は認められない、が最終判断」
「それ、なんにもわかってないって言っているようなもんじゃ……」
「ええ。でも、それを受け入れたの」
「いいんですか?」
 なぜ? と声が大きくなりそうになるが楓我はこらえて美代を見た。
「事件性が認められないから、これ以上は行政解剖になるんですって。そこまでやれば、もしかするとなにかわかるかもしれない。でも、あの子をこれ以上苦しめたくなかった……」
 死因がわからない解剖の場合、どこまで切り刻まれるかわからないのだろう。楓我はその判断に何も言うことは出来ず、心情を察して静かに頭を下げる。
「それにしても……」
 美代が絞り出すように声を漏らす。
「どうして杏月さんまで……」
 美代が顔を歪めて目を伏せた。
「大知がこんなことになって、だけど杏月さんにはこれからなんとか幸せになって欲しいって、そう思っていた矢先だったのに……」
「杏月さんの事は、何かわかりましたか?」
 美代は力なくかぶりを振った。
「杏月さんは病院で息を引き取ったそうよ。でも、それ以外の事は彼女のご両親からはまだ何も……」
 無理もない、と楓我はうつむく。
 昨日、東屋で見たあの弱々しい笑顔が、担架で運ばれている時に見た、枯れかけた花のように弱々しい姿が脳裏に浮かぶ。
「ねぇ、楓我くん、二人は、幸せだったのかしら……」
 棺に視線を落とした美代が問いかけるように呟く。
「俺は、幸せだったと思います。二人を見て羨むやつこそあれ、不幸だと思う奴なんかいません」
 楓我の言葉に美代がゆっくりと顔を上げる。
「あとは、ご両親のお二人がそう信じれば二人は幸せなまま旅立てると思います。ご両親が信じてあげなければ大知も杏月さんも安心できないと思います」
「……そうね、そうよね。楓我くん、本当に……本当に……ありが……とう……。大知はこんなにいいお友だちに恵まれて…………」
 美代が言葉を詰まらせ、静かに嗚咽を漏らす。楓我は美代に頭を下げ、そして棺に手を合わせて部屋を出た。
「話は終わったかい?」
 居間で座椅子に座り、ぼんやりと虚空を見つめていた裕三が楓我に顔を向ける。
「はい。時間を取ってしまいすみませんでした」
「君ならいいんだ。火葬場に行くのが3時だから、あと2時間で出棺なんだが……」
「いえ、これでおいとまします。俺はあいつに言いたいことは全部言いました。どうか身内の方々で見送ってあげてください」
「そうか。……ああ、そうだ。大知の遺品から何か欲しいものはないかい? 今度大知の部屋を片付けに行くから、できれば何か貰ってほしいんだ。見てからでないと何があるかわからないが」
「それなら……」
 大知の持ち物から貰っても差し支えのないものは何だろう、と考える。
 ──本、筆記用具、写真。あとはあいつのギター……。
 頭の片隅に追いやっていた大知の部屋の様子が蘇る。
「そうだ、ギターはどうだ? 君なら大知も喜ぶ」
 裕三が提案するが、それは流石に図々しいと楓我は思った。そして。
「いえ、そうだ、もし部屋に観葉植物があったら、それをいただけませんか?」
 最後に大知の部屋に遊びに行ったのは確か8月だった。
 そのとき、部屋に植物があったのを思い出す。健気に小さく葉を茂らせていたのは……確かアイビーだった。
 大知が言っていた。杏月と一緒に育てるのもいい、とのろけていたのを。
 楓我は大知だけでなく杏月とも繋がる遺品だと思い、それを願った。
「わかった。確かに鉢植えがあったと思うから、後で君に届ける」
「よろしくおねがいします」
 楓我は静かに頭を下げ、家路についた。

 薄曇りの空を吹く風はようやく10月らしいと思える冷たさを含んでいた。
 喪服代わりの黒いシャツとズボンは生地が薄く今の季節に着るには肌寒い。乾いた空気を吸い込むたびに秋を感じ、肺から体中が冷えてゆくような気がした。
「さむ……」
 経験したこともないのに何故か妙に人肌が恋しいと思い、独りでいる自分が異様に寂しく感じた。自嘲でも笑えば気が紛れるかと思ったが、切なさが勝り笑うことが出来ない。
 自分の手を見てため息が漏れたそのとき、スマホが震える。相手はマリーだった。
 楓我はにわかに頭に血が上り、頬が紅潮したのを感じる。心臓の鼓動が少し早まったのがわかった。急いで出ようとするが手が滑り、スマホをお手玉してしまう。すんでのところで受け止め、改めて着信に応答する。
「はい」
 努めて冷静に、と思いつつ少し声は上ずっていた。
「ハロー、そろそろ終わったかと思って。……元気?」
「今元気になったところ」
「あは、なぁにそれ」
 控えめな笑い声が聞こえる。
 その声は耳に心地よく、心に張り付いた泥のような暗い感情を乾かし、剥がしてくれる。そんな気がした。
「それで、何?」
「あのね、昨日の今日で遊びに……ってわけにはいかないかもだけど、気分転換としてどこか行かない?」
 マリーが問いかける。
「気を遣ってくれてる?」
「楓我、そういうわざと他人行儀なのナシ! 日本人はほんとうにヘンなところで距離をおくよね」
 そういう感覚がわかるあたり、むしろマリーもだいぶ日本かぶれしていると言えなくもない。
 楓我はまだ無意識に緊張していたであろう糸が緩み、ようやく感情のままに笑い、ごめん、と謝る。
「落ち着いた?」
「……ありがとう。うん、どこかに行こう。近くでもどこでもいい。らい……」
 来週にでも、と言いかけるが頭の中で誰かがそれじゃダメだと警告を発した気がした。
 楓我は言葉を飲み込み、そして今一度自分の気持を考える。
「マリー」
「ん?」
「本当は、昨日からずっと会いたいと思っていた。マリーの声を聞きたいって」
 前なら絶対言わないような言葉だと自分で思った。だが、止まらない。
「今話しているよ」
「電話越しじゃなく、直に聞きたい。……君に会いたい」
 電話の向こうが少し静かになった。楓我は瞬きするほどの僅かな間が何時間にも感じる気持ちだった。
「いいよ」
「いつ会える?」
「いつでも。ご要望は?」
「出来るなら……、今日。できるだけ早く」
 電話口の向こうでくすぐったそうな笑い声が聞こえた。
「マリー?」
「ううん。今日は積極的ね」
「マリーの顔を見たいんだ」
「もう……」
 うぬぼれでなければ、電話の向こうでマリーが照れている。そんな気がした。
 楓我はふと、杏月が応援してくれたことを思い出す。
 彼女が勇気をくれた。今ならきっと──。
 本当は大知に聞きたかった。好きな人には、どんな言葉をかければいいのだろう。どうすれば振り向いてくれるのだろう、と。
「じゃあ、喫茶店で……あ」
 楓我が浮ついていた気分を急激に冷ました。
「どうしたの?」
「ごめん、少し後でいいかな? 代わりに夕食もおごるよ」
「いいよ。でもどうしたの?」
「まだ喪服なんだよ。ただの黒い服だけど、着替えたいんだ」
 電話の向こうでそうだね、と控えめな笑い声が聞こえた。
「喫茶店でお茶をしてから夕食はどう? お気に入りの喫茶店があるんだ」
「それは興味あるね。なんて喫茶店?」
「和心」
「ナゴミ。いい響きだね」
「じゃあ、5時に和心でいい? 場所は送るから」
「OK」
「ありがとう。待ってる」
 初めてこちらから誘い、そして受け入れられた。楓我は心を高揚させる。
 楓我は杏月さんのおかげだ、と空を仰いで感謝の気持ちを送る。
 そして。
 願わくばマリーと結ばれますように、と。