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わたしを祝福するということ ─バースデー・エッセイ─

みなさまお久しぶりです。

先日、2023年11月11日に開催された文学フリマ東京37にて販売されていたエッセイ集、『立ち止まる、それでも』に寄稿させていただいたエッセイを、こちらでも共有してみたいと思います。

文フリ行けなかったよ〜という方がいらっしゃれば、読んでいただけるととっても嬉しいです。


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 *はじめに/トリガーウォーニング*
このエッセイを読むにあたって、社会問題や読んでいるあなたのしんどい記憶に繋がりうる内容が含まれていることがあります。読んでいて少しでもフラッシュバックをしたり、辛くなったりしたら、読むのを中断したり、休憩をはさんだりしてください。


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 生きるということはとても難しい。わたしがわたしであるというだけで、この社会はわたしを祝福しないからだ。だから、わたしが、誰よりもわたしを、祝福するしかない、と思った。

 わたしはノンバイナリーだ。これはわたしが名乗るための「なまえ」である。意味がわからないならググってほしい。わたしが説明する必要はない。つきはなすように聞こえるかもしれないが、あなたがもしシスジェンダーなら、異性愛者なら、きっとそうであることについて社会から質問されるなんてことはないだろうから。わたしがただそうであるだけで、誰かの何かをうばってきただろうか。そんなことは断じてない。だが、世間はわたしに説明を要求する。わたしが人権侵害を告発すれば、「じゃあどうしたらいいの?」と無責任に尋ねる。そのたびにわたしは説明を強いられる。自分についてそこまで開示しなければしんどい思いをせず生きていくことができないこの現実に、幾度となく絶望する。そんな日々の中で、わたしは生きている。

 さて、このエッセイのタイトル、「わたしを祝福するということ」とはどういうことか。

 それは、思う存分悲しむことだ。
 それは、思う存分怒ることだ。
 それは、思う存分落ち込むことだ。

 一見、全く祝っていないようにみえるかもしれない。だが、残念ながらこの社会では、「幸せ」であることを強要される。立派に「社会人」となること。留学すること。「異性」と付き合い、結婚し、出産し、育児をすること。いつも笑顔でいること。この社会の「幸せ」の定義に、わたしは中指を立てる。もちろん、それを選択する人が悪いんじゃない。政治が、その選択肢がない人を想定せず、またあらゆる人の在り方を想定せず、どないもせんからブチギレているのだ。

 そんな世界で生きていて、わたしが元気でいられるわけがない。毎日踏み絵をさせられるような、毎日「ハミゴ」にさせられているような、毎日拳銃を向けられているような。誰にも会いたくない日も、誰も信じられない日も、泣けないほどつらい日も、えげつないほどある。

 薬物治療が苦手なためメンクリに行くことを諦めているわたしは、せめて誰かに、なにかに頼らなければ、とは思う。だが、ジェンダークィアであるわたしが、あらゆる相談場所で望むケアを受けられるわけがないのがこの世界である。(ケアという意味の広い言葉の中に、相談に乗ることもその中に入るとわたしは思っている、詳しい定義はわからないけれど。)たいていの場合、「他に楽しいことを見つけよう」「わたしもそういう時あったけど○○すれば前向きになれたよ」「わかってあげられなくてごめんね」と言われる。そんなことをいうわたしもだが、余裕のない時、そんな言葉しか出てこない瞬間があるので、そういった言葉自体が悪いわけでもないと思う。しかし、わたしのしんどさの根源は、明確にこの社会であり、差別なのであって、わたしのせいではないのだ。それははっきりといえる。だが、わたしの相談に対する答えが、わたしの経験し得ない成功体験や、はたまたトーンポリシング(1番アカン)、自己責任論への押し込みであったのなら、わたしはケアにアクセスすること自体を断念しなければならなくなる。そんなこの世界をわたしは、憎く、悲しいなと思うのだ。

 落ち込んでいるとき、たちあがれないとき、そして、そうやって誰のケアも受け取れなくなった時。傷つきすぎて、どんな言葉もわたしの心には届かない時が、一番つらい。あなたの成功体験も、生きることについての励ましも、届かない。

 そんなとき、わたしを肯定できるのは、残念ながら、わたしだけだった。

 わたしは、自分を祝福する気持ちで、果てしなく落ち込み、悲しみ、怒り、憎む。それをどこまでも肯定するのだ。

 たしかにそれはとても苦しいことだ。しかし、残酷なこの社会の中で、怒りを簡単に冷却させようとするこの家父長制が根深い世界の中で、自分のそういった苦しみに対して誠実でいることは、想像以上に難しい。だから、あなたに対してキルジョイしてでも、わたしは大いに悲しみ、怒り、落ち込む。それが、わたしの感情を、存在を、なかったことにさせない大切な方法だからだ。

 思う存分悲しむこと。
 思う存分怒ること。
 思う存分落ち込むこと。

わたしから、わたしの生存へ、送れる最大の祝福なのだ。


 10月22日は、わたしの誕生日だ。それは、誰よりもわたしがわたしの1年の生存を祝う日。仮面ライダージオウのウォズに「祝え!」と言ってもらってみたいし、大好きな中原中也の命日でもあるから、中也忌のイベントにも行ってみたい。わたしのいつか叶えたいバースデープランはたくさんある。でも今年は(も)アベノミクスの失敗と自公政権のせいで景気も悪いし給料も上がらないし最悪なので、とりあえずわたしは自分の部屋を掃除することにした。わたしは自分の部屋をきれいに保つのがめちゃくちゃに苦手だが、わたしにとって家がセーフスペースにできるように、好きなものに囲まれつつも、掃除ができないことによる自己嫌悪が少しでも減るように、すこしだけがんばってみることにした。

 わたしがどれほどがんばろうとも、世の中のマイノリティに対するバックラッシュは消えない。むしろ世界ではいまも多くの人が戦争や差別、貧困などで死んでいて、この社会の中でも、家がない人や、居場所がない人に対する公助も本当に少ない。わたしについても、特権的だといえる側面はたくさんあるが、いつだって明日死ぬのはわたしかもしれないと感じる。りゅうちぇるが死んだとき、わたしは自分が殺されたのと同じだなと思った。死んでいたのはわたしだったかもしれない、と。軍拡ばかりが強調されて、いつわたしの住んでいるこの場所が再び戦火に包まれてしまうかもわからない。生きているだけで不安だ。

 わたしがいつも、インタビューやブログで言っていることがある。「同情はいいから、わたしとともにたたかってほしい」ということだ。ともにこの社会に対して怒り、小さなことからでも学び、ともにアクションを起こすことだ。ネット署名やツイッターのリポストといったことだけでも、それは大切なアクションだと思う。このエッセイの中では、わたしは自分へのセルフケアについて述べてきたが、わたしのしんどさや生きづらさは自己の問題ではない。思いやりで解決することも決してない。個人的なことはすべて、政治的なことであるからだ

 例えば、貸与奨学金の返済が不安だ。お金がなくて留学にも行けないけど、成績によって給付奨学金を受けるには、バイトや日々の生活で精一杯で外国語の勉強もままならない。ストレスがたまりすぎて、浪費がやめられない。物価が高すぎて生活費をやりくりするのが大変だ。給料が安い。ピルを服用したいけど、高くて諦めている。パートナーによるセクハラが辛い。
 これらすべては政治によってうまれた問題であり、多くの個人が自己責任論によって苦しんでいる現在進行形の出来事だ。お前の努力不足だと、子どもの頃から言われ続けるような社会で生きてきたからだ。

 あなたは悪くないんだ。あなたが悪いんじゃないんだよ。

 これからもわたしはそう言い続けるし、あなたのためにわたしも怒る。だから、あなたもわたしとともに怒ってくれたら嬉しいなと思っている。

 話が壮大になってしまったかもしれないけれど、わたしの抱えるしんどさは、すべてこの世界と繋がっていることが、どうか伝われ…!と思いながら書いた。自分という存在を憎み、恨み、いないことにして死んでいくよりかは、胸を張って自分の生存を祝福できたほうが、まだしんどさは減る気がするし、わたしは良いかなって思うのだ。

 もちろん、それによって今まで死んでいったクィアの人々、マイノリティという立場におかれている/いた人々を、いなかったことにはさせないし、しない。ここに改めて追悼の意を表し、そして、今生き延びようとしている人、生きるのに辛さを抱えて生を手放してしまいたい人へのエンパワメントや慰めが送れたらと思う。

 わたし達を「繊細な人」にするこの世界を、わたし達をいないことにするこの世界を、わたしは許したりしない。泣き寝入りしなくていいように、そしてもうわたしがわたしであるというだけで傷つくことのないように、今日もわたしは思う存分悲しみ、怒り、落ち込む。

 最後に、わたしへ
 いつもおつかれさま、誕生日おめでとう。

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