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親と折り合いと

https://note.com/may_eirenote/n/ne355779b70c4

私の良くないところ。心配症すぎるところ。しかも他人に対して。

それが、母譲りで、そのせいで自分も苦しめられている。
それなのに、気がつくと同じことを他人にしてしまっている。
心配のあまり「無理だよ、止めときなよ」と言ってしまった瞬間…うっ、心当たりがありすぎる…。

親身になってくれるのがいいところ、とパートナーからは言われるのに、それが裏目に出る、大切にしたいから言っている言葉で、逆に相手を傷つけてしまう…。

どうしたら?どうすれば?大事にしたい人をちゃんと正しく愛せるのだろう。私にとっては、袖振り合うも多生の縁、Twitterのフォロワーさんですら、心配の種になりうる。でもそれは、心配させられているというより、心配したいから心配しているわけで。


翻って、親。こちらが色々考えた末に上京して、とりあえずシェアハウスに拠点を定め(とは言っても、みんなで暮らすというより、簡易のホテルか下宿のようなもの)そこから、就労移行支援事業所に通う、と伝えてあるにも関わらず、就労継続支援B型の求人を、こういうのあるって!と勧めてくる…。

B型は一般企業で働くのが難しい人が通うところで、と説明したにも関わらず。いや、B型であってもA型であっても、この先、自分に合うとなれば働く先として選ぶことになるかもしれない。
…なるかもしれない、が…。
今は上京したて、それも就労移行支援に通うと決めて見学に行っているわけで。
たった4日間とはいえ、自分なりに決めて自分の足で動き、自分の意志で自由に動ける生活に対して《ようやく正しく休めている》という感じがしている。休職期間よりも休めているかもしれない。

会社や上司に言われるがまま、日々の仕事に追われるがまま、家ではやってみたいと言ったことに賛成できないと抵抗される…。

そうだ、初めて自分の意志、自分の力を認められて自由になれている感覚があるから、きっと、こんなにも開放感があるのだと思う。

親の心配は分かる、どうしようもなく心配なのも分かる。心配したいのも分かる。心配してもらえるなんて恵まれてる、のかもしれない。

でも、それと、自分で決めたやり方を無視されるのは、別物だ。自分の意志を無視されるのは別物だ。

自分の人生、自分で責任を持って選び取りたい。そして、それは自己責任を背負い込みすぎるのでもなく、自己責任を内面化して自分を半ば諦めて仕方なく選択しているのでもなく、やってみたい頑張ってみたいという自分の意志で選んだのだ。

自分の中にある、どう考えても親譲りの心配性と、親の心配性の間で、折り合いをつけかねている。


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