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桜前線

さくらの開花予報がニュースで流れるこの時期に、その名前の幼なじみとひさしぶりに会うことができた。
まるで春の訪れというものが人間の姿になって会いに来てくれたような、そんな心地よさを感じた。
私はいつも彼女の虜で、彼女が幼いころ隣に引越してくるまで、私は自分という人間がどういう人間として生まれたのか、あまりわかっていなかったように思う。一年先をゆく彼女の後を追うように、同じ中学を受験した。あんなに仲の良かった同学年の友達たちがいたのに、取り憑かれたように追いかけてしまったのだ。そしてそれを境に、彼女と私を含めた幼なじみの4人も、それ以降集まることはなかった。
私は今でこそ自分の選んできた道に迷いなんてなかったし、疎遠になってしまった関係はあっても、それですこし、切ない気持ちになってしまったとしても、やっぱり彼女を追いかけてあの中学に入ったと思う。ただ、未来の大きな分岐点というのは、立っている最中、選ぶ間際は本当に自分がそこに立っていることが理解できず、後になって ああ、あの時の選択は実は本当に大きな分かれ道だったんだな、と思うに至る。
そういう 物心がつかず目の前に順番にやってくる進路の選択というのは、なんだかあまりに単純な話で、それなのにこれでもかと出会う人の取捨みたいなものに直結してしまうのだ。

だから彼女と久しぶりに会って、自分の分岐点なる人間と話して、幼いながら本能的に彼女と同じ所に行こうとしたのには訳があるんじゃないかって。意味づけなんてものはもう、好き勝手にいつでも、自分ができる時にやるものだってわかったけど、「訳」は何か違う気がしていて、でもその「訳」がわからないうちに踏み出した足が、答えでもあるんじゃないかって。
心と身体は一つで、なんて言うけれど、本当に一番最初に反応しているのは、この世に存在している身体のほうなんじゃないか。
動機も息切れも呼吸も瞬きも、うわずる声もつま先も。自覚より無自覚より先に反応している存在の資本が、本当は全部知っているんじゃないかって思う。

話した量はそれほど多くなくとも、
普段の生活で何を思っているのか
自分のことを、どう思っているのか
何をエネルギーに生きているのか
何に悩んでしまうのか
本当はどう思っているのか
ふれる言葉の端々で、生活とどんな風に交わっているのか、その人独特の感触が伝わってくる。
それはやっぱりさくらのように待ち遠しいのにさっさと散ってしまって、
寂しそうなこちらの顔なんてわからず、
気づいたらアスファルトを転がっている花びらみたいな軽やかさがある。


会社の近くの並木道が桜で、
この道はそういえばあの街に繋がっていくんだということがわかって、自分が今どこにいるのかがようやく知れたような、そんな気持ちになる。
フラッシュバック・フィードバック
3.2.1で始まることも、3の前でどんな数字を抱えていたのか、が大事な気もする。

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