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後にも先にも

今日も昨日も、週末は人と桜を見ていた。
いつもは一人で近くの公園やらの桜をスンと見ることのほうが多いが、今年はすこし慌ただしい気持ちで見ている。桜を見るのは、一人で少し寂しいくらいがちょうどいいのかもしれないな、と、いつも寂しいなと思いながら見ているくせに思ってしまう。
でも、今年中に引越す予定があるから、近くの公園の桜を見るのももう今年で終わりなのかもしれないな。引越しても見に来ることはできるかもしれないけど、この街に住んでいる状態で見ることはこの先ないだろう。

親と会うと柔らかな精神になる。柔らか、というのは心穏やかなという意味ではなくて、普段一人暮らしをしていると、自分の心をありったけの好きな音楽や本や漫画アニメ、テレビ、ラジオなんかが原材料のゼラチンで固めた上で何とか会社に行くという感じで生きているが、実家に帰ったり、親と会ったりすると、そういう色んなもので固まった心が液体に戻ってしまうようなイメージだ。固体が強制的に液体に戻る、みたいな。型もないから、元の状態を保ってられない。抗凝固剤てきな。親の年齢も考えると、いつか地元に帰れたらいいな、とは思うけど、次の10年が待ってるのに、なかなかどうしてすぐに帰ることはできないな。その時親は70歳を超えていて、私は40歳も目前なのか。リアリティは湧かなくて、でも今がずっと続くわけでもないのに、私はこのままずっとこんな風に子どものままなのだろうかと思ってしまう。(これは自己否定になってしまうのだろうか)

でも未来を考えすぎてもよくないって身をもって体験したから、今はとりあえず今のことを考えて生きていきたい。目の前のことと、自分がずっと抱えている欲望や思いに気づいて、自分と一緒に生きていきたい。というか生きていくしかない。から、もう少し自分と仲良くなりたい。柔らかな心で思う。でも柔らかになりすぎて音楽を聴いただけでやっぱり泣いてしまった。最近、情緒的なインストにずっとくらっている。いや最近だけの話じゃないか。でも、ヒット率がえぐくて涙にばかり変換される。私自身が'寂しい'とも'切ない'ともnoteでしか言えないから、インストって自分なのかもしれない。

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