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「詩」についての所感など。

今年の春あたりからだろうか、本格的に習慣的に、ポエムをつくるようになったのは。自粛下の日々で多少時間がとれたこともあるけれど、アートのような言葉の断片がふわりと浮いている感覚は、前からとても好きだった。
「ポエム」とか「詩」とか言うと何となく敬遠する人が多いかもしれない。読んでもよくわからないよね、って思うのかなぁ、解説もないし。実際ぼくも詩集を読んで「うーん、わからん!」って思うことなんか日常で。でも詩っていうのはそれでいいんだと思うんだ。今の自分に沁みるもの、今の自分が弾くもの。解釈も感動も感銘もわかるもわからないも好きもそうでもないも、全部自由で。ひとつの詩(このnoteでは「詩」で統一します)のたった一行、一文。それだけがこころにのこる、それでもいいし、何となくの空気感だけ憶えている、それでももちろんOK。つくり手がいて受けとり手がいて、込めたものと受け取ったものの間に差異があってあたりまえで、それでも成立するもの。これは詩にかぎったことじゃなくて、ほかの創作でも同じことだと思うんだけど。

以前、「みんなでポエム書いてみた」という企画を開催した。

詩は「つくる」ことにたいしての抵抗がある(詩をつくることが恥ずかしいと思っている)人が多いのかなって思っていて。でもこの企画でたくさんの人が詩をつくることにチャレンジしてくれた。参加してくれた人がそのあと詩に触れる機会が増えたかどうかわからないけれど、体験をしてくれたことに意味があるのだから、やってみてよかったと思っている。

なんて偉そうに言ったけれど、ぼくだって詩をつくりはじめたのは上にも書いた通り今年の春からで、まだまだ全然ひよっこで。でも何となく、前はどうにかして「人のこころに届ける/のこる」詩をつくりたいと思って張り切っていたのだけど、それがだんだん自分の言葉が「外に出るに任せる」ことができるようになったんじゃないかな、とは思っていて。
「詩」っていう漢字は「言葉のお寺」と書くから、だれかがここに駆け込んでくれる、何かを求めて訪ねてくれる、そんなふうにできたら素敵だなって思っていたのがじつはあまり正しくなくて、「言葉を発することによって自分が安息を得る」こと、つまり「その寺に駆け込んでいるのは自分だった」ってこと。それをふわっと理解しただけでも今年は成長かな、なんて思う。
あたりまえのように承認欲求はあるし、スキがゼロだったらこころが折れるかもしれないけれど、自分のための言葉探し、これからもつづけていたいなと思っている。そう、探すのは未来にのこる言葉。あくまで概念的な話で。

あとは、最近は音声配信をはじめる人も多くて、本当に自分自身や自分の表現を発信する手段が増えたなぁと思う(じつはけっこうstand.fmを聴いている、みんなの声が素敵)。ぼくも新しいことをしようと思ってInstagramのアカウントをつくった。noteに縛られず自分を保つためのひとつの手段というか、気持ち新たにできるところという意味で(noteはちゃんとつづけます)。

すこし時間の空いた夕方、詩というものにたいする所感を書きました。つくったポエムは無料のマガジンにしてあるので、もしよかったら遊びに来てください。

それでは。
冬本番、みんなあったかくしてくださいね。
お付き合いありがとうございました。



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