感動の上限の、さらに上を。
なんでこんなことをするのだろう。
#お手紙note とかね。
手紙なんか、本人たちだけでやり取りすればいいじゃない。
なんでわざわざこんなにまわりを巻き込む必要があるの?
こっちはね、たまらないの。
寝起きとか電車でね、こういうの見せられるとね。
泣いちゃうでしょ。
ほんとうに困るんだよなぁ。
とても感動しました。
ぼくも、しあわせな気持ちになりました。
*
こんなふうにぼくはきっと、ここで眩しいものを見過ぎている。
だからだろう。
ここ以外の場所でも、同じ感動や優しさを求めてしまうことがある。
外を歩いていても、仕事をしていても。
わかってるよ。
そんなことは理想であって、実現の可能性は極めて低いものだということ。
街中でただすれ違う人や、仕事上の付き合いしかない人に、そんなことを求める方が間違っているのだろう。
それでもぼくはどこかでそれを勝手に期待して、裏切られるたびに勝手にすこし落ち込んで、感動と失望のあいだを行ったり来たりする。
気持ちの揺れ幅が大きくなったなぁ。
そんなことを、最近はとくに思う。
ちょっと弱っていると、だったらそんな温かい世界になんか出会わなければよかったとか、知らなければよかったとか、思考はネガティブな方へ向かってしまう。
気持ちの揺れ幅が大きいと、疲れやすいから余計にね。
でも、それはちがうんだ。
これまでの感動の上限の、さらに上を知ることができた。
こんなに素晴らしい輪を、またひとつ見つけてしまった。
これが正しい解釈。
人と人とのつながりはこんなにも美しくて感動的で、もしかしたらこれまでだってそれに気づけるチャンスはあったのかもしれないけれど、ぼくが気づけていなかっただけかもしれなくて。
今のぼくは、それを知っている。
こんなにも素晴らしい、温かい世界が存在することも。
大切な人が、手を伸ばせば触れられる距離にいることも。
でも、だからこそ思うことがある。
ぼくはすこし、恵まれ過ぎているみたいだと。
手放すつもりはないよ。
努力して手に入れたしあわせだから。
でもちょっとね、ぼくは甘えている。
簡単に人を諦め過ぎている気がする。
イヤだったらそこから離れればいい。
思いやりに満ちた世界にいればいい。
間違ってないんだよ。
優しさは有限だから。
優しくない場所で自分の優しさをすり減らすくらいなら、そこから離れた方がいい。
でもその見極めをね。
もうすこし自分に厳しくしなきゃダメなんじゃないかなって思うんだ。
優しさに飛びこんで、その場の優しさの総量を増やせればいいけれど。
その場で優しさを安易に消費してしまったら、きっとダメなんだよね。
もっと外に、優しい世界をつくらなきゃ。
もっと外に、優しい世界を見出さなきゃ。
これまでの感動の上限の、さらに上を知ることができた。
こんなに素晴らしい輪を、またひとつ見つけてしまった。
だからこそ。
同じように、何かに失望している人に、何かを諦めている人に、こんな感動だってあるんだよということを、伝えることさえできるはずなんだ。
人を諦めないで、人に期待して。
それができたらもっと、優しくなれるはずだ。
さいごまで読んでくれて、ありがとう。
あなたのまわりが、いつも優しさに溢れていますように。
いただいたサポートは、ほかの方へのサポートやここで表現できることのためにつかわせていただきます。感謝と敬意の善き循環が、ぼくの目標です。