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ガレージキットの台頭と支持された理由

1980年代のホビーシーンで「空前のガンプラブーム」と並んで影響を与えたムーブメントが「ガレージキット」だ。複製技術と関連マテリアルの広がりとDIYによる流通の変化が、その誕生に影響を及ぼした点は、前回の記事で考察した。

今回は、そのあとの流れを1970年代から1980年代前半までの消費の変化と対比して、整理する。なぜ、ガレージキットがホビーシーンのムーブメントとなったのか、それは世の中の変化とどうリンクしていたのか。生活者の変化とも呼応するガレージキット黎明期を考える。


1980年代は、少量多品種生産の時代

 まずはホビーシーンから少し離れて時代背景に目を向けてみよう。

 高度経済成長期を含む1960年代は、大量生産の時代だった。モノをつくれば売れ、人々はみんな同じものを欲しがった。その象徴はクルマ(Car)・クーラー(Cooler)・カラーテレビ(Color TV)の「三種の神器・3C」だ。流通も百貨店黄金時代である、メーカーがつくったものが百貨店で横並びになる。メーカーによるマスプロダクツが消費の主導権を握っていた。
 1970年代になると様相が変わる。モノが氾濫し、生活者の価値観も変化する。そして二度のオイルショックで高度経済成長が終焉を迎え、消費はモノからスタイルを軸に移行する。雑誌の『anan』『POPEYE』『ぴあ』が注目され、「ライフスタイル」が消費のキーワードとなる。流通で時代をリードしたのは、PARCOや西武など、新たなライフスタイルを発信するスポットだった。
 そして1980年代に入ると、ライフスタイルを重視する生活者が消費の主導権を握る。DIYブームに代表されるように「自分らしさ」「自分好み」が重視される。有名な(そして、80年代を語るときに必ずと言っていいほど例に挙げられる)西武の「おいしい生活」、丸井の「好きだから、あげる」といった広告コピーは、当時の空気をよく表している。モノ離れは進み、「少量多品種生産」の時代へと移行したのだ。
 
 1980年代前半、少量多品種生産の傾向は、ホビーシーンにおいてはガレージキットのムーブメントとして現れる。既存のプラモデル(=マスプロダクツ)にないモノ、自分たちが欲しいモノ、納得できるモノを自らつくって複製する。やがてそれらはガレージキットと名付けられ、模型雑誌で取り上げられ、模型店を通して流通していく。

ガレージキットの萌芽はグレーゾーンから

〈1979年~1980年〉

 1970代後半のガレージキット誕生前夜、その原点となるアイテムを紹介した記事がある。小田雅弘著『ガレージキット誕生物語』(トイズプレス)で紹介されていたものを紹介する。

  • 1/35 ロビー・ザ・ロボット(原型:山野純治)
    (月刊『ホビージャパン』1979年8月号)

  • SFモンスター造型狂の会 大怪獣モスラ(原型:川口哲也、速水仁司)
    (『宇宙船 Vol.4』朝日ソノラマ 1980年)

  前者は国内初といわれる自家製キット、後者は商業キットの体裁で作られた自家製キットである。筆者は、ガレージキットのプリミティブな定義を「大手模型メーカーの製品(マスプロダクツ)に飽き足らず、模型をゼロからつくりあげ、さらに同好の士に頒布するために複製した自家製キット」としているが、この2つがまさにそれである。なお、ロビー・ザ・ロボットの記事は、「君もメーカーになれる」というタイトルだった。
 ロビー・ザ・ロボットとモスラの自家製キットは、1980年代の「自分らしさ」「自分好み」を重視する傾向が、ホビーシーンで形になった記念碑的なアイテムといえるだろう。もちろん、他にも動きがなかったわけではない。のちにガレージキットのムーブメントをけん引する海洋堂は、大阪で別の形でガレージキットにつながる活動をはじめていた。

 1980年、模型店だった海洋堂が手がけていたのが、絶版キットの復刻である。あさのまさひこ著『海洋堂クロニクル』(太田出版)によれば、入手困難となっていた絶版のプラモデルをバキュームフォーム(※1)でコピーして、仲間内で頒布していた。また、前述のモスラも店頭で販売していたという。
 ただ、この時は、あくまでも同人活動の一環であり、当然のことながら正式に版権を取得したモノではなかった。アンダーグラウンドな模型文化であり、インディペンデントなDIYモデリング。ガレージキット誕生の萌芽は、「自分らしい」「自分好み」の造型を個人で楽しむ範囲、いわば限りなく黒に近いグレーゾーンからだった。なお、版権取得の問題については、ガレージキット誕生以降もしばらく続く。
 
※1:加熱して柔らかくなったプラスチックの板を吸引して型に密着させる技法

新たな模型文化発信地に集まる才能

〈1981年〉

 ガレージキットの呼称については、アメリカのガレージロック云々という説もあるが、筆者は、前述『ガレージキット誕生物語』に掲載されていた、月刊HJ 1981年9月号掲載の「ホビーランド広告」が初出という記載を結論とする。その広告は、青銅巨人タロス(原型:川口哲也)の自家製キット紹介とともに「ガレージキット」と書かれている。
 1981年は、ガレージキット誕生年といっていいだろう。呼称以外にもう一つの根拠が、海洋堂が初めてオリジナルのキットを発売したことだ。映画『ルパン三世 カリオストロの城』に登場するオートジャイロをバキュームフォームでキット化。事実上、海洋堂のガレージキット第1弾となる。ただし、まだ版権は取得していない。しかし、ガレージキットが世に出る嚆矢となったのは間違いない。
 
 この時期の海洋堂には、凄腕のモデラーたちが集まっていた。彼らがガレージキットの原型をつくる造型師(海洋堂ではガレージキットの原型師をそう呼ぶ)となった。樫原辰郎著『海洋堂創世記』(白水社)には、以下の記載がある。

ガレージキット前夜ともいうべき時代、常連の少年たちはプラモデルを買う金がないときでも海洋堂にたむろしていた。(中略)修一(筆者注:現・取締役専務 宮脇修一)は、店の一部を使って金を使わない困った客である彼らにフルスクラッチ(筆者注 ※2)をやらせていたという。それが大勢のモデラーが出入りする、造型工房としての海洋堂のルーツだろう。

出典:樫原辰郎著『海洋堂創世記』(白水社)

 そんな彼らを海洋堂・宮脇専務は「造型狂の会」と名付けた。その中にいたのが白井武志 今池芳章、ボーメといった造型師だった。ホビーシーンにガレージキットという新たな文化が発生した場所に、偶然かもしれないが、そういった才能が集まっていたことは重要なファクターだ。
 
 筆者が「造型狂の会」の成り立ちから想起したのが、80年代に東京で新たなカルチャー発信に大きな役割を果たした西武セゾングループだ。文化戦略と流通を結びつけた事業を推進したのが代表・堤清二。西武美術館、シネ・ヴィヴァン六本木(映画館)、WAVE(レコードショップ)などを展開した。広告コピーを糸井重里に依頼して「おいしい生活」を世に出したのも彼である。そして、堤清二のセゾングループが手がけた文化圏には、のちのクリエイター、文化人などが集まっていた。バイト先や就職先として。
 宮沢章夫 編著『NHK ニッポン戦後サブカルチャー史』(NHK出版)によれば、保坂和志(小説家)、常盤響(グラフィックデザイナー、写真家)、佐々木敦(批評家)、永江朗(ライター、編集者)らが、セゾンOBだと紹介されている。
 新たな文化が発生する場所には、感度の高い人、才能の持ち主が集まる。それは海洋堂にも通じる。「金がなくてプラモデルを買えない客」も何も得るものがなければ、そこにとどまらない。彼らの模型に対する感度の高さと才能が、ガレージキット誕生に一役買ったのは間違いない。

ガレージキットのブレーク

〈1982年~1984年〉 

 ガレージキット黎明期、海洋堂のライバルといえば、岡田斗司夫率いるゼネラルプロダクツだ。1982年、ゼネラルプロダクツは『ウルトラマン』のジェットビートルを1/72のバキュームフォームキットでリリースする。円谷プロから版権を取得した、公式のガレージキット登場である。
 同年、海洋堂も映画『海底軍艦』の轟天号を東宝から版権を取得して、バキュームフォームキットとして発売。さらには、『ウルトラマン』のゼットン、ケロニア、ギガスのレジンキットを円谷プロの版権を取得してリリース。
 いよいよ版権を得たガレージキットが、アンダーグラウンドからホビーシーンの表舞台に飛び出す。が、すべてのアイテムがそうだったわけではない。当時の広告を見ると、版権取得のアイテムをメインにすえ、周囲には版権を取得していないキットが並ぶ。まだ、そのあたりが緩やかな時代だった。
 そうした問題を抱えつつ、ガレージキットのムーブメントは加速する。ガレージキットの中心もバキュームフォームからレジンへと移行。アニメのフィギュア、そして怪獣が主たるアイテムとなる。月刊HJも特集「ガレージ&オリジナルキット」 (月刊HJ 1983年10月号)を組み、ガレージキットを正面から取り上げるようになる。

 1983年、海洋堂は「初代ゴジラ」(原型:原詠人)、「1/20トリケラトプス」(原型:荒木一成)をリリース。前者は、これまでにないゴジラ造型で伝説のガレージキットといわれる。後者を手がけた荒木一成は恐竜造型の第一人者として現在も活躍中。こうして「造型狂の会」から作家性の高い造型師が頭角を現す。それらの作風は、大量生産品(=マスプロダクツ)へのカウンターであり、海洋堂は少量多品種生産の時代らしい個性豊かなアイテムを次々と展開することとなる。
 1984年には、海洋堂の「ガラモン」(原型:原詠人)、作品ごとの差異を造型した「GSV(ゴジラスーツバリエーション)」(原型:速水仁司)などが話題となった。さらに、12月にはゼネラルプロダクツが「ワンダーフェスティバルプレイベント」をゼネラルプロダクツ大阪店にて開催、約10のディーラーが出展している。かつてロビー・ザ・ロボットの記事につけられたタイトル「君もメーカーになれる」が、ようやく現実味を帯びてきた。

マスプロダクツへの逆流

〈1983年〉

 1980年代の消費スタイル、「自分らしさ」「自分好み」をホビーシーンで体現したガレージキット。原型師の技術と作家性、マスプロダクツにないアイテムと切り口が魅力だった。当然、マニア向けで購入のハードルは高かったが、筆者を含む当時の年少モデラーたちにとっても憧れのアイテムだった。
 一方、マスプロダクツとしてのキャラクターモデルの状況はどうだっただろうか。空前のガンプラブームが1982年末に終息しつつも、ガンダムは「MSV(モビルスーツバリエーション)」のシリーズ展開、『太陽の牙ダグラム』や『戦闘メカ ザブングル』、『装甲騎兵ボトムズ』など、リアルロボットアニメのプラモデルが模型メディアの誌面を飾っていた。
 
 そんな中、ガレージキット的アプローチが、マスプロダクツに逆流する現象が起きる。1983年、ポピー(現バンダイ)が手がけたリアルホビーシリーズである。特撮の怪獣やヒーローを30センチサイズで立体化したハイエンド向け玩具。原型を担当したのが当時のモデラー、原型師だった。例えば、バルタン星人は「ヒゲのプラモ怪人」として有名な小澤勝三、映画『モスラ対ゴジラ』のゴジラ(通称モスゴジ)は、ガレージキット黎明期から大型怪獣造形を手がけた井上雅夫(イノウエアーツ)といった具合だ。
 また、1983年にバンダイも「The特撮コレクション」と銘打ち、特撮モノのプラモデルを展開。「1/350ペギラ」や「1/250初代ゴジラ」など、原型は海洋堂でGSVを手がけた速水仁司が担当したという。
 すべてのアイテムがユーザーを満足させたわけでないが、ガレージキットが大手メーカーの玩具やプラモデルの造型に影響を与えた点は興味深い。誕生からわずか数年、ガレージキットは大手メーカーも無視できない存在にまで成長していたのだ。

次のステージへの節目

〈1984年~1985年〉

 ガレージキットの誕生につながったシリコーンゴムとレジンを使った複製技術の広がりは、HJと東急ハンズが大きな役目を果たしたと前回の記事でまとめた。それは東京発信によるものだった。しかし、本格的なガレージキットのムーブメントは、関西から立ち上がっている。黎明期を彩ったのは、大阪の海洋堂、ゼネラルプロダクツ、京都のボークスだ。今回、海洋堂以外を詳しく扱っていないので、ゼネラルプロダクツ(DAICONも含めて)、ボークスと造型村については、別の機会に触れたい。

 80年代、関東のガレージキットシーンはどうだったのだろうか。もちろん、何もなかったわけではない。1984年、海洋堂がKAIYODOギャラリーを東京・茅場町にオープン。同じ年、コトブキヤ(壽屋)は、「多摩工房」名義で初のレジンキャストキット「アーマメント(原型:杉田晋)」を発売。その頃、筆者の記憶では、自由が丘の模型店「マミー」でも海洋堂のキャストキットが扱われていた。
 何よりも大きな動きは、ワンダーフェスティバルの開催だろう。1985年1月、「ワンダーフェスティバル1985[冬]」が、東京都立産業貿易センター3Fで開催される。これ以降、夏冬2回、東京で開催されることとなる。主催(当時)のゼネラルプロダクツはもちろん、海洋堂、ボークスをはじめ、プロアマ39のディーラーが出展。コトブキヤは「多摩工房」名義で東宝から版権を取得した「ゴジラ1962」と「ゴジラ1984」を頒布している。
 そして1985年8月、「ワンダーフェスティバル1985[夏]」には、MAX渡辺率いるモデラー集団「マックスファクトリー」が初参加している。なお、翌年にマックスファクトリーは、初のガレージキット、ソフビ「マジンガーZ」発売する。
 1985年は、現在のホビーメーカーの主要ブランドが、ガレージキットとワンダーフェスティバルをきっかけに台頭する節目といえる。西高東低のガレージキット黎明期から一歩進んだタイミングである。必然的にガレージキットの定義も変化する。筆者は「大手模型メーカーの製品(マスプロダクツ)にできないアイテムと造型で、コアな模型ファンに選ばれるキット」と考える。

時代と共鳴したガレージキット

 東急ハンズが10周年に出版した『東急ハンズの本』の中では、1980年代の消費者を「物質的飽和と心理的欠乏の時代 自分と共鳴する物を買う」と定義している。当時のホビーシーンにおいても、店頭にあふれるマスプロダクツのプラモデルに、どこか満たされないものを感じたモデラーたちが少なくなかったと推測する。そこに登場したガレージキットが支持を集めたのは、モデラーたちが「自分と共鳴する何か」「それを選ぶ自分らしさ」を感じ取ったからだろう。
 
 「少量多品種生産」の1980年代はまだ終わっていない。1986年以降の「ガレージキットの歴史と時代性」は、90年代のバブル崩壊を視野に改めて考察する。


〈参考文献〉

  • あさのまさひこ 著『海洋堂クロニクル―「世界最狂造形集団」の過剰で過激な戦闘哲学(オタク学叢書)』(太田出版)

  • 樫原辰郎 著『海洋堂創世記』(白水社)

  • 宮沢章夫、NHK「ニッポン戦後サブカルチャー史」制作班 編著『NHK ニッポン戦後サブカルチャー史』(NHK出版)

  • 東急ハンズ 編 『東急ハンズ』(東急ハンズ)

  • 『マックスファクトリー全仕事』(ホビージャパン)

  • 月刊モデルグラフィックス2023年4月号(大日本絵画)

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