ガンプラが「マス」だった2年間
『機動戦士ガンダム』は、『宇宙戦艦ヤマト』が切り拓いた本格SF路線を継承しつつ、80年代リアルロボットアニメ路線の流れをつくり、キャラクターモデルをホビーシーンのメインストリームに押しあげた。その初期段階で起きたのが「空前のガンプラブーム」。もう40年以上前の話だ。ビートルズ来日時の熱狂と同じぐらいに、「よく知らないけど、なんかすごかった」という“歴史上の出来事”化しているように思う。
筆者自身、ブーム経験者だが当時は年少者。あの頃、知らなかったこともふまえてブームを振り返りたい。メーカー(バンダイ模型)とメディア(月刊ホビージャパン)がどう動いて、何が起きて、いまにどうつながっているのか。時系列で俯瞰して探る。果たして、なにがすごかったのか。
顕在化していた「ガンダム熱」
当時を知る人は「何をいまさら」と思うだろうが、テレビで『機動戦士ガンダム』が放映されていた頃、ガンプラは存在していない。ガンダムの本放送は、1979年4月7日にスタート。最終回・第43話「脱出」の放送が、1980年1月26日である。最初のガンプラ、1/144と1/100のガンダムがバンダイ模型(現・BANDAI SPIRITS)から世に出るのは、その年の7月。放送終了から半年後だ。
バンダイ模型が、ガンダムの存在を認識したのは、放送中盤だったという。ガンダムは玩具市場では苦戦していたが、ホビーシーンでは新たな“うねり”を起こしていた。猪俣謙次・加藤智著『ガンプラ開発戦記』(アスキー新書)によれば、バンダイ模型宛にガンダムのプラモデル商品化を求める投書が日増しに増えたという。同書には、投書に目を通していたバンダイ模型・技術部次長・松本悟のエピソードとして以下のような記述がある。
こうした声をあげていたのは、10代後半から20代前半の学生・若者層だった。当時の筆者は小学1年生、まだガンダムは届いていなかった。
一方、高校生だったMAX渡辺は、友人からガンダムの存在を聞いて衝撃を受けたという。「ロボットでなくモビルスーツ! ザクは量産型! グフは改良型! 鳩が豆鉄砲を食ったというか、青天の霹靂というか」そして、友人に背中を押されて見たのが、第24話「迫撃! トリプル・ドム」とのこと。あの1/60グフの2年前の出来事である。
この話をMAX渡辺から聞いたとき、当時の空気を理解する重要なエピソードだと思った。あのMAX渡辺をしても、本放送時のガンダムを知ったのはクチコミがきっかけ。世の中の認知度としてリアリティを感じる。
学生・若者層の声を受けて、バンダイ模型がガンダムのプラモデル商品化に動きだしたのは、番組も終了が見えてきたころ。そこからの紆余曲折は、前述の『ガンプラ開発戦記』に詳しい。機会があれば、ぜひご一読を。
『スター・ウォーズ』も公開され、『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』が人気を博し、SF・アニメブームが花開いた時期。『機動戦士ガンダム』は、なぜ苦戦したのか。当時のロボットアニメの主たる対象者が年少者だった点は大きいだろう。
でも、SFやアニメのコアなファンはガンダムに反応した。ミリタリー好きな模型愛好家もいただろう。その中からダイカスト玩具ではなく、精緻なプラモデルを求める声があがる。空前のブーム2年前、ホビーシーンではガンプラへのニーズが「顕在化」していた。彼らの声こそ、のちのホビーシーンを変える最初の「トリガー」だったのだ。
専門誌が引き上げた作例のレベル
メーカー(バンダイ模型)が動き出していたころ、メディアもガンダムに反応していた。月刊ホビージャパン(以下、HJ)だ。HJ 1980年8月号では、読者投稿欄に岩瀬昭人・作「ザク」が掲載された。記念すべきHJ初のモビルスーツ造型作品。プラモデル発売前なのでフルスクラッチ(完全自作)である。
HJ 1980年8月号では、満を持してガンダムをフィーチャーした初の特集を組む。「総力特集 スペースワールド」。この特集に掲載されたガンダム関連の作例は、すべてフルスクラッチ。掲載された主要な作例は以下のとおり。
ほかにも読者投稿と思しき全高9㎝というザクの手作りキット(黎明期のガレージキット)や、1/35のガンダム&Gパーツなど、濃い作品が並んでいる。なお、表紙含めて3カット、1/144ガンダムのプラモデルも掲載されているが、作例ではなく広報写真のようだ。
一覧の中で注目は、のちのガンプラブームをけん引する「ストリームベース」の作品。本特集への参加経緯を小田雅弘は著書で以下のようにつづっている。
正式な作例としてHJ誌面に初登場したモビルスーツの造型が、ハイレベルなフルスクラッチ作品だったこと。そして、それらを手がけたのが新進気鋭のストリームベースを含む若手ライターたちだったこと。この2点は、模型メディアがガンプラをどう発信するか、その端緒となる歴史的事実。
その後、いよいよガンダムのプラモデルが市場に出まわり、HJ誌面にも登場する。1980年9月号では、1/144ガンダムをジムに改造した作例を掲載。1980年11月号では、“新製品”1/144 シャア専用ザクを量産型と旧型に改造している。
ガンプラの作例は、最初から改造(もしくは改修)ありき。専門誌として、モデラーたちの手本となるべく、キットを活かしたハイレベルな作例を発表するのは当たり前のこと。結果的にHJはキャラクターモデル作例のレベルをどんどん引き上げていく。
やがて、空前のガンプラブームで年少者たちが、模型専門誌の中にも流れ込んでくる。そして彼ら(筆者も含む)は、HJのガンプラ作例を目にして驚く。塗装を知ったばっかりなところで、改造やスクラッチを知るからだ。これまでモデラー向けにセグメントされていた情報が、マスまで広がり、年少者のプラモデル観を一変させた。
転換点は1981年1月
では、空前のガンプラブーム、そのはじまりと終わりはいつか? まずは前述『ガンプラ開発戦記』の記述をもとに、メーカー(バンダイ模型)の動きを整理する。
バンダイ模型 1980年~1982年
バンダイ模型の視点では、1981年1月から1982年12月までの2年間が空前のガンプラブームとして位置づけられている。映画公開と連動した2年間のマスによる熱狂こそ、ブームの正体だ。
進化するガンプラの作例
一方、2年間にわたるブームの渦中、メディア(ホビージャパン)は、何をしていたのか、特集や別冊の動きから整理する。
月刊ホビージャパン 1980年~1982年
ブームの中で他の追随を許さない、圧倒的なクオリティの作例を発表していたのが、よくわかる。
HJは、ブーム終了後もガンプラを筆頭にキャラクターモデルを取り上げ続けて今に至る。翌1983年には、別冊『HOW TO BUILD GUNDAM2』も色濃く影響を与えたMSV(モビルスーツ・バリエーション)が製品化される。これらもハイレベルな作例でレビューされていくこととなる。
1982年と1983年の差
1982年12月末で空前のガンプラブームの終息を迎えたあとも、ガンプラの新製品が登場する。前述のMSVはファンの間で熱狂的に受け入れられた。それは、もうマスではなく「ファンのもの」だった。誰もがガンプラを求めていた感じではなく、残ったファンが楽しむものに落ち着いた。
筆者の体験とも合致する。空前のガンプラブームの頃、ものを手に入れるのに苦労した。クラスの話題も「どこの店にいつ入る」「あそこの店が穴場」など、誰も彼もがそんな感じで熱狂していた。筆者はガンダム好き、模型好きとして、そのテンションでずっと楽しんでいたが、MSVの頃(小学4年)、クラスメイトの変化を感じる。ガンプラ(あるいはキャラクターモデル)から、去る者と残る者が分かれた。当時はわからなかったが、今ならブームの終息だと理解できる。1982年と1983年の差は、確実にあった。
ガンダムを支持する若者の声がトリガーとなり、メーカー(バンダイ模型)の背中を押して、プラモデル製品化につながった。その人気に反応したメディア(ホビージャパン)が専門誌のクオリティでガンプラ作例のレベルをあげた。そこに映画公開にともなうマスの熱狂がリンクして、2年間にわたる空前のガンプラブームが続いた。この文脈は、「ガンダム」をいまに続くコンテンツにした大きなファクターのひとつであり、“歴史上の出来事”としての意味だと、筆者は考える。
ガンプラをめぐる1982年と1983年の大きな差。そこをふまえて、ガンプラのビジネスモデルとしての変遷、80年代のキャラクターモデルへの影響、コミックボンボンが年少モデラーに与えた影響など、まだまだ探っていくべきことはある。
〈参考文献〉
猪俣謙次・加藤智著『ガンプラ開発戦記』(アスキー新書)
月刊ホビージャパン 1980年8月号・1981年1月号・3月号(ホビージャパン)
月刊ホビージャパン別冊『HOW TO BUILD GUNDAM & HOW TO BUILD GUNDAM2【復刻版】』(ホビージャパン)
柿沼秀樹著『HOW TO BUILDホビージャパン ガンプラブームを作った雑誌ができるまで』(ホビージャパン)
小田雅弘著『ガンダムデイズ』(トイズプレス)
あさのまさひこ、五十嵐浩司著『'80sリアルロボットプラスチックモデル回顧録』(竹書房)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?