見出し画像

超富裕層ということ

この記事はいわゆる「超富裕層」な人たちについての私の「想像」です。私は彼らについてよく知っているわけではないので、その有り様については想像することしかできません。私は無力です。

だけど、そういう無力な「想像力」が色々な物事に手を差し伸べてくれる、あるいはそういう拙い、穴だらけの想像にこそ助けられるものもまたあるかもしれません。

私はいつも、そういう弱さの持つ強さに賭けているのかもしれません。


金銭の持つ一つの特性に交換性があります。それは物であれば、物々交換ということになりますし、最近は電子決済のようなものもあり、そうした「交換」というものが創り出している秩序は急速に複雑化しているものと思います。

複雑性を縮減させて、認識をクリアに保つためにはある程度の知能が必要になってきます。IQには生まれつきの要因も大きいものと一般には考えられてはいますし、それ以外にもそうした遺伝的な物事というのは大なり小なり多くあるようです。

するとお金の流体的な力動を正確に把握できる人とできない人に分かれる契機が生じてきます。カオス理論などに詳しいように、こうした複雑な力動を把握することは必ずしも不可能な場合だけではない……という点は注意が必要なポイントかもしれません。

ドゥルーズやガタリのような哲学者は「流れ」というものの重要性を強調していますが、この概念の裏には、そうした認識自体が困難なものとしてのカオス的な意味合いも潜んでいるように思います。

ロラン・バルトは「意味」を極小の形態素としては想定していませんが、つまりこのことはそれよりも「さらに」細かい微粒子の存在を示唆してもいます。これはライプニッツ的なモナドにも通じる考え方でもあります。

デカルトは物事の極小的な最小単位をそもそも想定していませんでしたし、私の見る限り、それを不可能な現象の一つとして見なしているようです。

以上のことは無限に分割可能な極小の「微粒子」を人間にとってのある種の心的な無限遠点に想定させる力能を持っています。

例えば、現代の物理学において素粒子という概念を提唱しても、その先にさらに細かな微粒子を想定可能である……というような連続的な現象がデカルトの無限的な分割の理念に当たります。

「それ」は「クォーク」とか「超ひも」とか、はたまたカント的なコペルニクス的転回を経て、「クオリア」とか多種多様に呼ばれるかもしれませんね。

そして、そうした多種多様なすべての言語的な指令を巧みに潜り抜けて、どこまでも遠くに飛んでいく、そういう飛来的な微粒子(タキオンのような……)の存在を当然に想定することができるわけです。また、ここで言う「存在」という言葉は多分に比喩的なものです。なぜなら、それらの微粒子は「存在」を構成する概念の組成よりもさらに細かく、つまり、「非存在」としての「無」として立ち現れるという可能性さえあるからです。こうした知見は仏教的な経路には顕著で、その教説によれば、あらゆるものは無であるのだと言います。それと言うのも、あらゆるものは存在よりもさらに「細かい」のです。

こうした微粒子の群れは、ライプニッツ的なモナド論に結び付く時には、特に「予定調和」の現象的な帰結を強く現出させることになります。「神は常に最善であり、その限りで神によって創造されたこの世界は常に最善である」というわけです。

しかし、これは難問を多く含みます。例えば、今病気で苦しんでいる人がいるとします。これは一般常識に照らしてみると、悪いことであり、その人は元気に幸せを謳歌できる方が望ましいはずです。

それなのに予定調和の理念はこうした悲劇的な現象を正当化する方に機能します。つまり、その患者が苦しんでいることは「神にとって」最善であるという主張がこの理論の中核に生じてしまうのです。

さて、これは正しいのでしょうか? 検証してみます。

まず、超富裕層は非常に富裕な人たちです。そして、そこには「格差」がありますが、予定調和説に強くよるなら、それは最善の現象であるということになるでしょう。いわゆる「すべての権威は神によって立てられたものであるから」というわけです。

思うに、確かにこれはその通りなのでしょう。私も強いて預言に逆らおうとは思ってはいませんし、超富裕層の人たちが悪人であるとも思ってはいません。むしろとても勤勉に色々なことを頑張って、その末に富裕の地平にたどり着いたという意味では、とても豊かな実力があって、尊い高貴な人たちなのでしょう。それを否定しようという気は私にはないのです。

一方で私が気になってしまうのは、超富裕層の反対の層、つまり貧困層のことです。彼らの行いが悪いから彼らが苦しんでいるのだ……というのが基本的な因果応報の考えとなります。これは仏教的には正統な教説であるとも言えるでしょう。確かにそういう面もあるのかもしれません。しかし、本当にそれ「だけ」なのでしょうか? 私はその点にいつも疑問を持ってしまうのです。本当に? 本当に貧者は悪人だから、苦しんでいるというだけなのでしょうか?

つまり、私がここで問いたいのは、この点についての詳説なのです。

それと言うのは「貧者はその善性ゆえに、かえって苦しんでいる」ということもあるのではないか……というテーゼです。

なぜなら、因果応報は確かに正統性がある教説の一つではありますが、それと同時に老子の説く「道」までがその正統性を毀損されるというわけでは必ずしも「ない」からです。

つまり、貧者に見えることと本当に貧者であることとは違うように、富者に見えることと本当に富者であることとは違う、ということです。

これは装飾の哲学を提起します。この哲学の様式は「外観」と「内実」を切断し、そのケースを場合分けして整理することで機能します。

確かに、このテーゼは局所的には真善美の一体性という倫理に反します。例えば、真実と美しさが分離されれば、これは「欺き」になるからです。また、周知のとおり、愛は「欺き」を志向するものではありません。

なら、こうした装飾の哲学は結局のところどのような現象を帰結するのでしょうか? それは「端に」欺きなだけなのでしょうか?

思うに、これはそうではないのでしょう。

おそらくある種の芸術のような「虚構」がかえって真理に肉薄するということがあるのだと思います。こうした反転の図式は老子以外の多くの教説にも見られ、つまり過度に至ることで現象は逆転します。

ニーチェ的に言えば、こうした逆張り的な図式はまさにルサンチマンに抵触しているのですが、おそらくそれらもが「予定調和」であるということなのでしょう。

つまり、例えば嫉妬のような七つの大罪にも原理的に何らかの有効性が宿っているはずです。

そして、「それ」こそが格差を生産しているのだろうと私は考えます。

とは言え、それが予定調和であると言えるためには、無限の分析と総合をカント的に繰り返し、その無限遠点に人類が到達する必要があります(さもなくば、残るのはトランスヒューマニズムによる人造人間的な道筋のみとなるでしょう)。

こうした永劫回帰的な演繹は優れてニーチェの唱える「超人」的なニュアンスを湛えていますが、その先にあるものが一体何であるのか?……ということについては未だに、どの学知においても判明してはいないのです。

ここに私の「賭け」があるのですが、それと言うのも、以下のようなことです。

私はすべてのものが愛しいと思います。その限りで、病原菌や兵器、その他の幾多の悪徳さえも本当は救われるべきなのだと強く思うのです。しかし、そのためには力が無限に足りない。ならどうするべきか? 

私はこれにダーウィン的な意味での「適応」と一言答えます。

あるいはベルグソン的に「創造的進化」と言っても大筋では問題ありません。

ジル・ドゥルーズによれば、能力による進化は小さなものです。その裏の闇の中に、その亀裂に、より「大きな進化」があるのだと彼は示唆しています。

私は、そうした超人たちの出現に賭けているのだと思います。なぜなら、彼らなら私に助けられない多くの悪人や義人を助けられるだろうからです。このことは明らかに公益に適います。

だから、ひょっとすると、超富裕層の人たちの中にもそういう「希望」があるのではないか……そのように感じもします。

ある場合には、それは「あなた」なのかもしれません。こうした奇跡的な現象はリゾーム上に広がっていて、常にどこでも「ありえる」ことです。そこに希望が「ある」のだと私は思います。実存主義の道はサルトルの示す契機を出発点にしたとしても、常にそれぞれの固有性を醸すはずだからです。

あなたはどう思いますか?

すべてのものの歌う清らかな想いと、その真実が豊かに成就するように。願わくば、少しでもあなたの「存在」の理由になれるように。祈ります。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?