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「毎日温泉」カワクボカノン個展に寄せて❷

穴に嵌った人間が絵を観ると

 今回の展示開催に到った経緯は萌夏が既に書いているから、短くやろうと思う。カノン氏から本展のキービジュアルがメールで送られてきた当初、画中の不穏さや人物の太そうな神経、頬に兆す陰、ただそこにある円卓、上に下に爛れ伸びる植物、それらが何処かへ連れて行ってくれそうな密議を思わせ、日常にない新鮮さを面白く感じた。
 だが時は進み、展示準備が済んでみるとどうも気が重い。それが一体なんなのか、重い頭を巡らし考えるにこれは、この一連の作品は、あまりにパッとしない我々の現状そのものなのだ。カノン氏の絵にいる人物は概ね皆気怠げで、猜疑の色が目に兆していたりもする。背景はといえば必然性を欠き、たとえ何にすげ替わっても特別な感興は起きそうにない。それであってしかし、画中の風景は人物の衣服や肌に染み出し、それを侵し、隣り合う人間にも色を加えていたりする。
 まさにそれは今日、本を売りたい訳じゃないとか嘯き、だらしなく背骨を曲げて情報を漁り、メシを食い蚊を殺し便所に流す自分の姿なのだ。愚かで図々しい。
 土地の恵みと力動、人の流れや偶然の手引きによって始まった「毎日温泉」の企画だが、いま我々から温泉を取り去ったら何が残るのだろう、というかなり寒々とした空想が表出した。もちろん古来から土地と人間は互いに作用し、切り離して捉えるのは難しい。ただ他から逃げるように越してきた私が、別府の魔法をその身から引き剥がしてしまったのである。月はめぐる。
 
 どこへ越そうが住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。と、漱石の草枕にあるが、今果たして心を寛がす芸術を、身を焦がす作品を、同時代にどれほど持てているだろうか。
 絵の中の人々は「何もやることがない」と、無闇にカラフルな服飾と共にうつろな目をあちこちに投げている。湯に浸かって体を柔らかくしたところで、そのうつろな目までは温泉も引き受けてくれないのだ。

(まわれ虎・和貴)

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