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道州制の導入って?今の47都道府県の県境について知った。

焼肉屋で、タン塩から焼いている友人に、「なんでもマニュアルから入るなっ!」って怒ったら、近くにいた店員さんに「いや、タンから焼いていただいた方がお肉の味楽しめますから。」と横やりが入り、食い気味に“ですよね”と言ったまうりんです。

今回は、知らなかった!驚いた!日本全国「県境」の謎を読んだ。この本を手にとったのは、近い将来に道州制の導入があるかもと取り沙汰されている中で、都道府県境は消滅するかも?につられ、そもそも47都道府県がよいとなっているのはなぜ?と疑問を持ち、読んでみた。へぇ~っと記憶に残っている部分を書いておこうと思う。

👉 四十七都道府県の成立 
- 明治維新が「県」を生んだ -
・県という行政単位が生まれるまでは、天武天皇時代に確立した「五畿七道(ごきしちどう)」という行政区分を千年以上変わらず用いていた。
・五畿七道:畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津の五国)と七道(東山道、東海道、北陸道、山陽道、山陰道、南道、西海道)に分け、さらにれを六十六国二島(対馬、壱岐)に区分した。
・蝦夷地(北海道)や琉球(沖縄)は朝廷の力の及ぶ範囲ではなかった。
・明治維新の「廃藩置県」からすぐに。
・47都道府県が成立したのは戦後。
・1894年の日清戦争で勝利し、正式に琉球諸島全域の日本帰属が確定。

- 歴史の古い奈良県が日本地図から消えた時期があった -
・奈良県は古代から栄えた(古代帝都)地で、歴史ある県。
・1876(明治9)年に隣の堺県に、財政基盤が脆弱を理由に併合される。
・堺県は河内・和泉・大和の三国を担う大県となる。
・1881(明治14)年に、堺県は財政悪化で大阪府と併合される。
・1887(明治20)年に、奈良県が併合されてから11年目にして独立。

- 四国には愛媛と高知の2県しかない時代があった - 
・四国の香川県は合併・分離を2度繰り返している。
・1876年~1880年まで四国には愛媛と高知の2県しか存在しなかった。
・四国は讃岐、阿波、伊予、土佐の構成が、現在の四国構成。
・1871(明治4)年に高松県と丸亀県+倉敷県の一部=香川県誕生。
・1873(明治6)年に香川県が名東(みょうどう:現在の徳島)県に併合。
・讃岐と阿波は仲が悪い、県会でも衝突が多い。
・1875(明治8)年、健全な県政のため、名東県から讃岐独立=香川県誕生。
・1876(明治9)年、しかし県会が大混乱を理由に愛媛県に併合される。同じくして、財政基盤脆弱だった名東県も高知県に併合され、四国2県体制となる。
・1880(明治13)年に高知県から名東県が徳島県として独立。四国3県体制となる。
・讃岐と伊予で風土や慣習、人情が異なるため、分県運動がおこる。
・1888(明治21)年に12年ぶり香川県の分離独立=全国で最後に誕生した県となる。四国4県体制となる。

- 石川県は人口日本一の大県だった - 
・現在の日本の人口は、関東から北九州にかけて太平洋ベルト地帯に人口が集中している。そんな中、かつて日本一人口の多い県が北陸地方にあった。
・1876年に富山(当時:新川)県、福井(当時:敦賀)県を石川県に併合。
・1880(明治13)年の石川県の人口は183万4千人で日本一だった。
・風土や人情、慣習が異なるため、対立が多く、分県運動が盛り上がった。
・1881(明治14)年に石川県から独立し、福井県が誕生。
・税負担の不公平さで富山県が分県運動へと発展。
・1883(明治16)年に石川県から独立し、富山県が誕生。

- 佐賀県が併合されたのは“佐賀の乱”が原因だった? - 
・佐賀県は設置当初から鹿児島県と並んで難治県とされていた。
・1876(明治9)年、佐賀県を三潴(みづま)県に併合させた。
・士族が一緒にやれないと反発したことで、同年に長崎県に併合。
・その後、佐賀の乱などで政府の統制力を強められ、分県運動できず。
・1883(明治16)年に、佐賀県は長崎県からの分離独立を認められる。

- 宮崎県併合は、西南戦争を阻止するためだった? - 
・1873(明治6)年、宮崎県が誕生。
・鹿児島県では、反政府の士族集団の動きがでてくる。
・1876(明治9)年、宮崎県が政治的なトバッチリで鹿児島県に併合。
・宮崎県民の反応が冷静なのは、90%の宮崎県役人が旧鹿児島藩だった。
・1877(明治10)年に西南戦争が勃発。
・戦争後、土地が荒れ、住民の不満が大きくなり、分県運動がおこる。
・1883(明治16)年、政府も分県を容認し、宮崎県は鹿児島県から独立。

👉 県境に秘められた歴史
- 実は淡路島は徳島県だった - 
・淡路島は、沖縄島、佐渡島、奄美大島、対馬に次いで日本で5番目に大きな島で、江戸時代は徳島藩の領地。
・1871(明治4)年の廃藩置県で阿波国と淡路島を領域として徳島県が誕生し、県名も“名東(みょうどう)県”と改名された。
・1873(明治6)年に香川県を併合したが、75年には香川県分離。
・1876(明治9)年に名東県は高知県に併合され、管轄区域が広すぎたために淡路島は切り離されて兵庫県に編入された。

- 静岡県になりたくなかった伊豆 - 
・1871(明治4)年に、伊豆国と相模国を領有する足柄県が成立。
・1876(明治9)年に、行政区分の再編で、相模国は神奈川県へ、伊豆国が静岡県に編入され、足柄県は消滅した。
・九州の分県運動に刺激され、伊豆においても神奈川県への編入運動が発生した。伊豆は昔から相模や武蔵との結びつきが強かったことが要因。
・伊豆に大きな河川がないのに、静岡県での河川の治水費用に納得できずに反発から離脱運動がおこったが、政府から認められなかった。

- 神奈川県だった三多摩が東京に移管された理由 - 
・明治中頃まで東京府は、神奈川県と比べ著しく面積の狭い自治体(現在の東京都の約1/3の広さ)。
・東京府へ三多摩移管を推し進めたのは、政府であり、神奈川県知事であり、警視総監であったところに問題があるとのこと。
・三多摩地区では、東京への移管に反対するものの方がはるかに多かった。
・東京府民の飲料水になっている玉川上水の衛生管理と水源確保の問題は、明治初期から課題であった。玉川上水の水源地と水路の大部分が、隣の神奈川県の行政区になっているため、それを東京府の管轄下に置かなければ衛生的な飲料水の安定供給は図れないとし、東京府知事は、玉川上水流域にある北多摩・西多摩の移管申請を大臣に何度も提出していた。【理由①】
・三多摩は政府と敵対する自由党の勢力が最も強い地域で、神奈川県議会も自由党に牛耳られていた。神奈川県知事にとって厄介な存在だったため、1892(明治25)年の総選挙で、知事は警察と共謀して自由党に圧力を加えたことで、選挙干渉として自由党がそれに強く反発し、知事と警部長の罷免を県議会に提出するという事態がおこった。そこで、知事らは難局を打開する策として三多摩を神奈川県から切り離す作戦に出た。【理由②】
・「東京府及神奈川県境域変更に関する法案」は帝国会議にかけられ、衆議院・貴族院が可決し、93(明治26)年に三多摩の東京府への移管がなされた。
・大正時代になると都制案が浮上するようになり、その間も三多摩の動向が再び議論となり、賛成と反対で対立が続いたが、1943(昭和18)年に都制が施行され、東京府(6郡)と東京市(旧15区)を統合し東京都となった。

👉 なぜそこに県境がある
- 兵庫県は6つの旧国からなる合衆国 - 
・都道府県の領域を旧国でみると、1国あるいは2国で構成されている。
・旧国1国で1つの県:群馬(上野)、栃木(下野)、長野(信濃)、四国四県(讃岐・阿波・伊予・土佐)、熊本(肥後)など。
・旧国2国で1つの県:鹿児島(薩摩・大隅)、山口(周防・長門)、広島(備後・安芸)、愛知(尾張・三河)など。
・旧国3国で1つの県:岡山(備前・備中・美作)など。
・旧国6国で1つの県となるごく稀な兵庫県は、日本海側には但馬国、内陸部には丹波国、瀬戸内海上には淡路国、瀬戸内海沿岸に摂津国と播磨国、赤穂市がある備前国で構成された。

- 利根川を越えて北になぜ千葉県があるか? - 
・茨城県と千葉県はおおむね利根川を県境としている。
・利根川の北川(左岸)に千葉県があり、南側(右岸)に茨城県があったりする。その県域は新治県が1875(明治8)年に廃止され、両県に分割された。しかし、当時は利根川の氾濫に伴う堤防の工事費問題で千葉県は北側地域が重荷となり、茨城県に管轄換えすべきと24年争うことになる。
・1899(明治32)年に、両県の歩み寄りもあり、利根川の北側・西側の地域が茨城県に編入され、利根川の東側地域は千葉県に残ることで決着。

- 最後に - 
 廃藩置県後に県境がいろいろ出来上がったけど、そこから現代まで大きな変化がないことは事実で、戦後47に決まった時から考えて、例えば歩きや馬で移動した明治時代から現代は車や飛行機で移動する時代に変わっているし、ニュース内でも『地方行政の疲労感があり、多重行政の問題発生』や『格差拡大を生む首都圏一極集中(東京や東京周辺に集まる)』、そして昨今の自然災害で浮き彫りになる『防災や行政サービスなど、県や国のしくみが複雑』で国か?県か?市町村か?、窓口や責任の所在が分からない事象などある。
 道州制の導入がいいのかはわかりませんが、議員数にも関連する47都道府県を、現代と未来に向けて何らかの見直しは必要と感じた。

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