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【エッセイ】真夏にイルミネーションと想像力について振り返る

 2年前の12月に友人と江ノ島のイルミネーションを体験した。それまでの私が知っていたイルミネーションはあくまでも豪華な街灯といった趣のもので、島ひとつをイルミネーションワールドにしようという規模のものを鑑賞するのは初めてだった。

 そもそも、わたしはイルミネーションが苦手である。その空間をイマジネーションで満たそうとすればするほど露骨に目立つ、LEDや配線のディテール。特に枯れ木にライトを巻きつけただけのイルミネーションは最悪で、木が1番見窄らしく見える輪郭ががけばけばしいライトによって際立っている。目も当てられない代物である。
 第一、海外の極彩色のキャンディのようにわざとらしく人工的に光るライトが、夢は虚無でしかないという認識を強調してしまっている。イルミネーションの起源はろうそくを星に見立てて並べたところから来ているらしいが、ろうそくの素朴な灯りとギラギラと派手なLEDは全くの別物でしかない。

 なぜ私がここまでイルミネーションに嫌悪感を示しているのかを考えてみたところ、それは私が夢に対して本気すぎるからかもしれない。ここで指す夢とは、世界を侵食するほど強いイマジネーションの力のことである。自分の内面の真実と現実を結び合わせることが可能なほど、本気な想像力である。
 一方、ネットでいくつかのイルミネーション職人の記事を読んだのだが、彼らが鑑賞者に伝えたいことは「ワクワク」「楽しさ」など、かなり曖昧にポジティブな印象である。もちろん、それで職人達を非難する意図はないのだが、わたしの想像力とは食い合わせが悪い。わたしは曖昧にポジティブな夢よりも、真に迫った悲しい夢のほうが魅力的に感じるのだ。

 ここで冒頭の江ノ島のイルミネーションの話に戻るのだか、意外なことにそんなわたしでも想像力を最大限に発揮してその場を楽しむことができた。これは、外的な要因と内的な要因の総合作用によるものだったと考えられる。
 まず、外的な要因としては江ノ島のイルミネーションの規模が類を見ないほど大きかったことが、結果的に良かった。強制的に長時間の視覚的な刺激に晒されることにより、受動的に脳が一種のトランス状態に陥ったのである。これは数になせる技である。
 しかも、先ほども述べたように、基本的にイルミネーションというのは作り手の意図が全くと言っていいほど見えてこない。その結果、わたしの脳内は過度な物理的な刺激に対しての情報量の無さに、情報処理を司る機能が想像力に極振りしたのである。これが、外的要因に伴い生じた内的要因となった。

 わたしにとっての想像力とは、本来なら素朴な日常生活から膨らませていく作業が主になる。逆に、過剰な情報が多い空間は想像力を萎ませるものであり、光れば光るほど嬉しい的な足し算で成り立っているイルミネーションとは相性が悪い。
 しかし、脳に何らかの異常状態が続いている中で、鑑賞者に何を伝えたいのか一切不明瞭な創作物と対峙することは、わたしに新鮮な非日常感をもたらした。多分、不思議の国に迷い込んだアリスと全く同じ精神状況になれたのであろう。

 イルミネーションやディズニーランドなど、向こうから夢を見せに来ている状況下だと想像力が空回りしがちなわたしは、そういった類の空間に苦手意識があった。
 しかし、江ノ島のイルミネーションでの成功体験は、私の想像力と社会に折り合いをつけることを諦めなくて良いのかもしれないという一種の希望である。他にも想像力に関する体験を思い出したら、このようにnoteで振り返ってみようと思う。

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