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まうの物語

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単発の小説のみでまとめています。連載小説は1話だけ。(個別にマガジンがあります) 気になるものを覗いてみてください。
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記事一覧

【小説】ホケミ

 あっ、と声を上げるより先に、目の前が真っ白になった。舞い上がる白、噎せ返る息、微かに広がる甘い香り。銀色のボウルが床に落ち、がんらがんらと場違いな音を立てる。 「あーっ!!」  正面で作業をしていた同じグループの女性は、まず僕自身の惨状を見、それから作業台に広がった雪原を目にして大声を上げた。素っ頓狂な声に全員がこちらを振り向き、即座に状況を察知してどよめきだす。  あーあ、とどこか他人事のように思う。落ちたボウルは幸いこれから使う予定だった空のものなので、大袈裟な音ほど

【小説】熱のたからばこ(1/5)

 みんなそうだ、みんなそう。「こんなに自分のことを受け入れてくれる人はいなかった」って、みんな言う。孵ったばかりの雛が最初に目にした相手じゃないんだから、と思う。その証拠に、彼らはそのうち私が特別な存在でもなんでもないことに気づき、親鳥のようになんでも許してくれる私に甘え、つけ上がり、そして跡を濁さず消えていく。彼女も、その中の一人だった。  彼女が亡くなったと知らされた夜、私は一人ベッドの上で自身を慰めていた。電話の向こうの声は彼女の夫だと言った。知らない、人だった。 「

【連載小説】少女よ、星になれ(1)

「お姉さんは、なんのために生きてるの?」  あの瞳が忘れられない。純真無垢で、それでいて精悍な彼女の目には、世界がどんな色に映っていたのだろう。 ✴︎  自殺を図った子供の話を聞いてやってほしい。そう言われて署のとある一室に呼び出されたのは、木曜日の昼下がりのことだった。  正直この手の業務は気乗りがしない。子供は苦手だし、難しい。それなのに私が配属されてしまったのが、この少年課だ。しかも自殺や非行に走るような子供はなおさら扱いがわからない。大抵そういう子たちは生い立

【小説】はじまりの赤、週末の

 美世ちゃんの部屋からは、週末のお母さんの匂いがした。 「この筆をね、こうやって使って、塗るの」  美世ちゃんが左手に持つ小瓶には、毒々しい赤い液体が詰まっている。蓋をひねってゆっくりと持ち上げると、小瓶の中から蓋につながる真っ赤な筆が顔を出す。 「ああ、垂れちゃう」  言いながら、美世ちゃんは右手でつまんだ筆を左手の親指の、爪に乗せた。どろどろが溢れ、美世ちゃんの爪を越えて指にまで広がり、ぼたりと滴った。美世ちゃんの部屋の白いカーペットが、目を見張るほど鮮やかな赤に染まる。

【小説】寄せては返す、胸

「お願いします、おっぱいを揉んでください」  勢いに任せて頭を下げると、そのまま全身の血がかあっと頭に上ってくるのがわかった。顔や耳までもが熱くなる。視界にあるのは皺ついたシーツと私の寝巻の膝小僧、あとは隣で眠る猫の尻尾。その先にいる相手は見ていられなかった。私はもう一生頭を上げることができないんじゃないだろうか、いっそのこと穴があったら入りたいくらい、今世紀最大の恥晒し。 「いやいやいやちょっと待って。咲優ちゃん、顔を上げて」 「やだ」 「そういうんじゃないから。いいか

【小説】赤鼻未満・イヴ|R-18

 聖なるこの日に中指を立てるような夜だ。  いつもの店の前に行くと、彼はすでにそこにいた。無数の光が灯された並木通りはカップルでごった返していて、嫌でも今日という日を意識させられる。そんな中、軽く片手を上げてわずかに目を細めてみせる姿は相変わらずで安心した。  お待たせしてごめんね、と駆け寄ると、早く来すぎただけだから気にしないで、と肩についた雪を払われる。待ち合わせる瞬間のふわふわとした高揚感には未だに慣れなくて、視線を泳がせていたら笑われた。その目尻の皺だけで胸が締めつ

【ピリカ文庫】さそり座のあなた

 病院へ行くのは面倒だけど、病院そのものは好きだった。特に清潔に整えられた薬品の香りは、いつも私に病院という世界を意識させ、安心を与えた。街の喧騒から一歩距離を置いた人々が行き交い、皺ひとつないナース服を着た看護師さんが健康的な笑顔で私を受け入れる。潔癖な私には申し分ないほど、病院という空間は余計なものから私を守ってくれた。  あの日は確かに晴れだった。朝の白い光が待合スペースの大きな窓から燦々と差し込み、さらに白い床に反射して眩しかったのをよく覚えているから。週に一度、午

【小説】うみをうつす

「ウユニ塩湖に行きたいの」 アイスカフェオレの氷を無意味にかき回しながら、ようやくその一言を口にした。案の定、目の前の彼はきょとんとしている。 「ウユニ塩湖って、あの、日本の裏側にある水たまりのこと?」 「水たまりってなによ。あそこすごいんだから。行ったら絶対感動するんだから」 反応を予想はできていたものの、思わずむきになってインスタの検索画面を見せつける。彼はしばし画面を眺め、ふ、と曖昧な笑顔を漏らした。 「あ、今『また“映え”かよ』って思ったでしょ」 「んー、まあ

【小説】そこは、ミルクでビターなホワイトチョコレート

 別れようって言ったら、ちょっと焦った表情になるあなたが好きだった。驚きと迷いと悲しみと落胆。ルービックキューブの面をかちかちとひっくり返すようなあなたの目まぐるしさを見て、ようやくあたしはまだ愛されていると確信できる。  真夜中のファミレスで、穏やかな春の日の公園のベンチで、車の助手席で、あたしはどうしようもなくその衝動に駆られた。  あれはね、病だったの。  あなたを困らせることでしか、あなたの愛を感じられない病。だってあなたが悪いのよ。いつだってあたしがいなくても

【小説】長い本

男は長い本を読んでいる。 計り知れないほど分厚い本だ。 来る日も来る日も男はページを捲り、 文字の上に視線を走らせ、またページを捲る。 朝の布団の上で、食事のテーブルで、電車の座席で、水面がきらめく河原で、喫茶店で、日曜日の公園で、 男はひたすら本を読む。 昼間には窓辺から差し込む光を頼りに文字を追い、 暗く冷たい夜には手元に小さな明かりを灯す。 そうして男は一日中、本を読んでいた。 男はいつから本を読んでいるのか、とんと覚えていない。 気がついたときには本を読んでい

【小説】胸とホック

 ブラホックが外れた。  ブラインドの隙間から差し込む朝日を背に浴びながら、オフィスの真ん中でうぐぅとか細く声を上げる。ちょうど開放された部分に太陽の熱が触れる。不快だ。外れた瞬間には気づかなかったくせに、いざ外れているとわかった途端不快度数が急激に上がる。  男のそれになぞらえるならば、パイポジとでも言おうか。とにかくそれに匹敵するほど、ホックが外れているかいないかで気分の差は歴然としている。時刻はまだ朝の10時。せっかくの冬の晴れ間だというのに、今日一日がホックひとつ

【小説】-never tied-|13歳の過去作

 今日も相変わらずの天気だった。  窓に力なく跡をつけてゆくそれは、どこかむなしく、切なげに目に映る。  空が泣いている。もっと言うならば、誰にも気づかれないように、教室の隅っこで壁と向かい合いながらすすり泣く少女のようであった。  空は、泣いていた。 「おはよう」  今日も彼女は、サラサラの黒髪をなびかせて隣の席に着く。そのさわやかな笑顔も束の間、彼女の視線は自身の机の上に向けられる。 「……なんなんだろ、おとといからずっと」  いくらどけてもまた乗ってる、と彼女は

【小説】無音の音

 カシュ、とプルタブを開ける音が響き、こっこっこっ、と小気味よい音を立てながら喉仏が上下する。今夜は暑い。暑いくせに窓を閉めきって、エアコンもつけずに僕らは黙々と缶ビールに口をつける。  空間が無音になる瞬間、音はないはずなのに、耳の奥ではみぃんと音が鳴っている。この無音の音が無性に好きで、嫌いだ。皺ひとつない空気が僕らの隙間を満たす。  僕だって、別に好き好んでお通夜みたいな顔をしながらアルコールを摂取しているわけではない。事の発端は絶対にこいつ、薫のせいだ。深夜に突然

明日になったら【1分マガジン】

ねぇ、チサちゃん。 明日になったら、僕らは結婚式を挙げるんだ。 ハワイの大きな、真っ白いチャペルで。 タキシードを着た僕と、純白のウエディングドレスに身を包んだチサちゃん。 僕はタキシードに着られているようにしか見えないけれど、チサちゃんのドレス姿は様になってる。ちょっぴり羨ましいな。世界一ドレスの似合う女だよ、チサちゃんは。 ほら、見える? 青空の下、たくさんの花に囲まれた僕らは幸せそうに笑ってる。あ、チサちゃんがブーケトスをしたよ。チサちゃんの一番の友達が受け