「ブス女ほど性欲が強い(笑)」
第4波のSNSフェミニズムが台頭してから、"男のミソジニー"について議論(もはやただの恨みの発散と化しているが)される土壌はできあがったけれど、"女のミソジニー"について語られる土壌はまだまだ未熟である。
"男のミソジニー"と"女のミソジニー"は構造がまったくちがうとわたしは考えている。
"男のミソジニー"は、家父長制やホモソーシャルによつて「女は抑圧されるべき生き物だ」という価値観が男性間に共有されることで植えつけられてきたところが大きい。
一方で、"女のミソジニー"は、女コミュニティの競争社会の弊害だろう。ほかの女の価値を下げることで、それぞれの女が自身のポジションを再確認しつつそこにしがみつくことができるために、結果として「ブス女ほど性欲が強い(笑)」などの言説が共有されるような現象が起きるのだ。
もちろん"男のミソジニー"と"女のミソジニー"はそれぞれが絡みあっていている側面もあって、「男がミソジニーを抱えているんだから女もミソジニーを抱えてもいい」と「女がミソジニーを抱えているんだから男もミソジニーを抱えてもいい」がそれぞれの関係を補完しながら正当化されてきたわけなので、これを根底から解体することはかなり難しい。どこにメスを入れても複雑に絡みあっているから、片方を解体しようにも、もう片方が残ってしまう。
あくまでもわたしのケースであるが、わたしのミソジニーの起源について述べてみよう。
わたしの母親はまさにヒステリックな女の地を行くような人間だった。かつて「ヒステリーは子宮の病気」と言われていて、それは女性蔑視であるという理由から語られなくなったけれど、やはり女は(生理などによって)ホルモンバランスの変化に振り回されやすいし、わたしが26年間生きてきた中で、ヒステリックだと感じる人は圧倒的に男よりも女のほうが多かった。
そんな母親を反面教師にしてきたけれど、反面教師にする過程でやはり自分も母親と同じようなヒステリー気質をもっていることを自覚したし、それを乗り越える上で発生した自己嫌悪が、またわたしのミソジニーを掻き立てた。
女特有のノリで排他的なコミュニティを形成するところ、自分にとって都合のいいようにしか現実を解釈できずに、同意してくれない人間には攻撃的に接するところ、周囲から自分はどう見られているかを過剰に意識して、表向きだけは無害そうにふるまうところなど、女の嫌いなところはたくさんある。もちろん、こういう感情的な一般化は正しくないのだけれど、母親にかぎらずさまざまな女と接してきた過程で、女にはそういう性質があるとどうしても感じさせられてきたし、新しく出会った女がこの一般化に当てはまる人物であったとき、やはりこの一般化は正しかったのだと、この偏見をさらに強固なものにしてしまう。
他者を偏見によってカテゴライズすることの根底には、おそらく自己防衛的な意識がある。事前に「こういう人間はおそらくこういう言動をするだろう」という予防線を張ることで、想定外に傷つくことを避けるのだ。自己像が脆く傷つきやすい人ほど、こういった偏見をもって他者と関わろうとしてしまう。もれなくわたしもそうである。
しかしそれは言うまでもなく"目の前の他者"との対話から逃げることであり、"自身の妄想から出てきた架空の他者"を想定しているにすぎないし、この癖はけっして正しいものではない。ただの一人相撲だ。
おそらく「ブス女ほど性欲が強い(笑)」という偏見を述べたり、そこに賛同してしまう女たちも、傷つきやすい自己像を抱えているのだろう。「こんな女より自分はよっぽどマシだ」という侮蔑によって、彼女たちは自分が勝ち馬であることを確信する。勝ち馬だとか負け馬だとか、そういう精神的な勝負をしてしまう癖は、競争社会の弊害だ。
人間は動物である以上、競争社会から降りることは難しい。どれだけ「すべての命の価値は等しい」といった綺麗事を述べたところで、命がけで生存競争をする本能に、理性は逆らえない。
ただ、これについての自覚の有無はかなり大きい。競争社会のシステムによって形成された価値観を思考停止で内面化するよりは、その社会に生かされていることで自身の価値観はねじ曲げられているのだという自覚をもって、なるべくそういう状態に陥らないでいようと抵抗するほうがよい。
べつに人間はつねに正しくあることをこころがけなくとも最低限は生きていくことができるし、立憲主義社会においては誰しもに生存権があることが前提とされている。ただわたしが精神的向上を個人的な目標としているだけで、それを他者に投影することは、自他の境界を大幅に超えて相手の領域を侵すことなので、この精神的向上の意識を他者に押しつけるつもりはまったくない。
ただ、それぞれの個人が精神的向上を目指すことに公益性があるかないかと言われれば、まちがいなくあるだろう。
個人が社会を形成している以上は、個人が"よい"人間であろうとすればおのずと"よい"社会に近づいていくし、個人が停滞すればおのずと社会も停滞する。
だからこそ、それぞれが"自発的"に"よい"人間であろうとすることには意義がある。たとえば反出生主義のような、人類の滅亡を目指す思想もあるけれど、人間はいつか死ぬことが決まっているとはいえ、滅びゆく社会に生きることは言うまでもなく苦しい。よっぽどのマゾヒストでなければ、生きているかぎりはなるべく生きやすくヘルシーな社会であったほうがよいとするだろう。
話が大きく逸れてしまったが、つまり"女のミソジニー"は、"よい"社会を実現する上での大きな足枷となる。競争社会の弊害を真に受けている場合ではない。いや、沈みゆく泥舟に乗りつづけたいのであれば勝手にすればよいのだけれど、少なくともわたしは"よい"社会の実現の足を引っ張る人たちと、同じ社会で生きていきたいとは思わない。
だからこそ、"女のミソジニー"について議論しあう土壌が必要だとわたしは考えている。わたしひとりがツイッターでこのお気持ちを提唱したところで、すぐに"よい"社会に近づくとは到底思えないし、むしろそんなことはほとんど不可能だろう。
それでも、声を上げないよりはよっぽどいい。ただのポジショントークではあるが、"よい"社会を目指したいのであれば、"持つ者"は"持たざる者"にそれを与えたほうがよい。"女のミソジニー"に無自覚な人たちにそれを気づかせることには、社会においてきっと大きな意義があると信じている。
どうか、「ブス女ほど性欲が強い(笑)」という偏見のカテゴライズに共感している人たちが、自身の価値観は社会の歪みに洗脳されているから生まれたものであり、しかもそれに加担しているのだと気づける日が来るとよいなと願うばかりだ。
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