『イマジナリー・イン・ザ・1K』

 
 序章
 
 人生は夜から始まる。
 Life begins at night. - Charlaine Harris
 
 
 私は、田舎のネオン街が好きであった。人通りは少ないが、たまに鍔の付いた帽子を逆に被り、酔いながら歩いているような人間とすれ違うこともある。しかし、そのような人間を、私は『人間』とカウントしていない。だから、このネオン街は、常に私一人の空間であった。
 ネオンが照らす光は、私だけを照らしている。いつも騒がしい喧騒の中で、私のみにスポットライトを照らしてくれている。その思考こそが、私の高揚感を高めてくれる一要因となっているのだ。
 こんな田舎のネオン街にも、一応小洒落たバーであったり、女性が男性を所謂『誘惑』する店もありはする。しかし、どれも私は興味はないのだ。私の興味はただ一つ。『担当』に会うことだけだった。
 担当は、自分のことを「マイケル・ジャクソンの生まれ変わり」などと言っているが、マイケル・ジャクソンが死んだ時には担当はもう生を受けているはずなので、そのキャッチコピーを別の女性にも必ず言うというところに、私は少し嫌悪感すら感じていた。でも確かに、髪型は『BAD』のアルバムのジャケット写真みたいに少し長めの髪にパーマをかけているし、私服では鍔の長い黒の帽子を被っているし、マイケル・ジャクソンを意識しているのは何となくではあるが理解は出来た。でもこのご時世に、そんなキング・オブ・ポップを意識したところで『この街のキング』になれそうもないだろうな、というのが率直な意見であった。
 そんな不平不満を抱えながらも、私が担当に何度も会いに行く理由は、私のことを絶対に独りにしない、というところだった。私が担当を指名し、担当が隣に座ると、いつも「今日も素敵なメイクをして会いに来てくれてありがとう」と言ってくれる。私のたわいの無い悩み事に対しても、真剣に考えて回答をしてくれる。担当は私の存在証明をしてくれているのだ。ネオンの光と同じように、私一人だけにスポットライトを当ててくれている。担当とお酒を飲みながら話す時間は、私の中で一番の高揚感を感じさせてくれるのだ。
 だから私は担当に会いにネオン街に夜な夜な通うのだ。自分自身の存在証明の為に。
 
 ✳︎
 
 八月のことだった。昼間は太陽が私の行動範囲を制限していた。読みかけだった先月号のファッション誌も読む気になれず、ゴミ箱に投げ入れた。自分は何の為に生きているのだろう、と考えもした。そうして私のテンションが下がっていくと同時に、部屋の水銀温度計は上がっていくのに気がつく。何という皮肉だろうと私は思った。
 私は家賃が二万円という破格の木造アパートに一人で住んでいる。間取りは1Kである。最初は玄関の狭さやキッチンの水垢であろう汚れに抵抗感を感じていたが、『住めば都』と言うように、慣れてしまってからは不自由は特に無くなった。唯一、担当に会いに行く為の服を仕舞うクローゼットが極端に狭く、それだけは不満を持っていた。担当に会いに行くのには綺麗でエレガントでなければならない。それが自分の決めたルールであった。
 勿論、食費も極端に抑えている。日によっては、近くの格安スーパーで手に入れた一袋五円のもやしだけを口にしていたこともある。しかし、それももう慣れた。全ては担当に会う為。私自身の存在を証明してもらう為。その事しか私の頭には無かった。
 
 ✳︎
 
 その日の夜も、私はネオン街に繰り出した。今日は酷く蒸し暑いと思い、スマートフォンで気温を確認したところ、二十七度であった。熱帯夜である。気温が高いことに関しては別に気にしていないのだが、湿度の高さに関しては執拗に気にしていた。せっかく担当に会う為にセットした髪の毛が広がるのが一番嫌であった為だ。店の前に付き、スマートフォンのインカメラで自分を確認すると、案の定セットした髪が広がっていた。それだけで、私は担当に会いに行くのを躊躇した。しかし、別のお客さんに付いてお見送りしていた担当が、店の外に出てきたので、担当が私に気付き、担当と私は目が合う。私は咄嗟に目を逸らしたのだが、担当は私に対して手招きをして、「おいで」と囁いたのだった。私は綺麗ではない自分を担当に見せたくないと思い、必死に顔と髪の毛を隠した。しかし、担当は何事もなかったかのように、私の手を取り、再度「おいで」と囁くのだった。そうして私は、担当に手を取られながら、店内へ入って行った。その時、私には羞恥心しかなかった。しかし、私を席に連れていった担当は、「今日も可愛いね」と言ってくれたのだった。何という狡い男なのだろうか。一瞬にして、私の気分は晴れやかになったのだ。やはり、担当がいなければ、私は生きていけないのだ。そう確信した。
 そして、担当が隣に付いた。今日は何の話をしようか。何のお酒を入れてあげようか。そう考えていると、担当が先に口を開いた。
「ごめん、先に言ってしまうけど、謝らなきゃいけないことがあるんだ」
 何だろう、と私は思った。髪型が崩れた状態で店に入れたことだろうか。いや、お金のことだろうか。担当は私と同じく、貧相なアパートに住み、お金に困窮していた事は聞いていた。助けてあげなければ、と思った。お金なら、また母親から借りればいい。もしかして、身体を壊してお酒が飲めなくなったのだろうか。少し心配しながら担当の目を見た。そして担当はこう言った。
「実は、今日で会うのが最後かもしれないんだ」
 その言葉で、手に持っていたグラスが落ちて、割れた。パキン、と音がした。担当はそのことに気が付きながらも、言葉を続ける。
「実は、歌舞伎町の店から誘われているんだ、今日でこの店を辞める、だから今日が最後」
 え?という言葉を口にすら出来なかった。
 理解が出来なかった。
 いや、数秒の間、担当の言葉を理解をしようとしなかったのだ。
 多分私はずっと莫迦のように口を開けていたかもしれない。唖然とした。いや違う。愕然だ。実際には私は口を開けていなく、ただ目を泳がすだけだった。自分の状況、行動さえも、把握することが出来なかったのだ。
 担当の言葉を何度も、何度も脳内でリプレイする。
 今日が最後?
 店を辞める?
 もう会えないのか?
 理解しようとすると、不安と、恐怖が急に私を殺そうとする。
 私は担当の言葉を飲み込むのに数十秒かかったが、担当が居なくなる、そんな現実は私にとっては既に現実ではない、ということは思考出来た。
 担当のいなくなる世界?
 そんな世界は嫌だ。
 嫌だ。
 嫌だ。
 嫌だ。
 いや、だ。
 私は咄嗟に担当の手を握り、私も付いていく、だから離れないで、と懇願した。私は泣いていた。言うならば、必死であった。必死という感情は、生死を顧みない、という事であろうが、私は既に生の心地がしなかった。担当の居ない生など、それは私にとって実質的な『死』であったのだ。
 しかし、私の生死を賭けた説得も虚しく、担当の返事はノー、の一点張りであった。
 私は錯乱した。そして、訳も分からず、席を離れ、店を出て、全速力で逃げるように走った。私は何故そういう行動をしたのか分からない。逃げたかったのだ。それは、自分の欲望のまま、行動した結果であった。お酒を入れていないが、席代としてのお金を払っていない事など気付いてはいなかった。実質的には食い逃げである。しかし、そんな事は、私にとってはどうでもよかった。遠くから担当の声、店のボーイらしき男の声が聞こえたが、私は無視をした。いや、無視ではない。担当やボーイの叫ぶ声を、私は自ら遮断したのだ。つまり、聞こえていない。聞こえていない、ということは無視ではない。世界からの逃避であった。
 走っている途中に、ヒールが折れた音がした。スニーカーを履いてる訳ではないのだから、無理に走ったらヒールも折れて当然だろう。そうして、私は走れなくなった。靴を脱ぐと、靴擦れもしていた事に気が付く。私は痛みで座り込んだ。そして座り込んだ場所は、ネオンで照らされた一角であった。そして、私は気付いたのだ。私一人だけを照らしていたネオンが、実は「お前はこの街でも一人であった」と言っていることに。私の存在証明であったネオンは、実は孤独の証明であったのだ。
 私はそこで嘔吐した。感情の整理も付かず、ただ、嘔吐した。折れたヒールの靴が吐瀉物で汚れる。靴擦れの痛さなど忘れた。それよりも、孤独という恐怖が、私を追い詰めるのだった。私は、その場所で、ネオンに照らされながら、二十分の間、嗚咽を繰り返したのだった。その間、人間とすれ違うことはなかった。
 
 ✳︎
 
 気が付いたら、私は自分の部屋の玄関に横たわっていた。記憶はないが、自力で帰ってきたのだろう。吐瀉物で汚れたヒールの折れた靴が隣にあった。そのことよりも、私は担当にまた会いたい、という欲望が浮かんだ。担当にまた会う為には東京に行かなければならない。しかし、私には引っ越す為のお金はない。定職に付かず、中年の男、所謂『おじさん』とご飯を食べ、それで手に入れたお金で生活していたからだ。私はすぐさまスマートフォンを手に取り、母親に電話をかけた。充電が二十パーセントを切っていたが、そんなことは気にもしなかった。まずは、東京へ引っ越す為の資金。そして、担当に会いに行く為の資金。歌舞伎町ということだから、今の店よりも割高になるだろう。もっと資金を調達しなければ。それしか頭になかった。そして、親が電話に出る。私がもしもし、と言った瞬間、母親は何かを察した声で言う。
「貴方に貸すお金は有りません」
 そうして電話が切れる。私は無意識に舌打ちをしてしまった。しかし、私は懇願するのが得意なのである。先程の担当に懇願した時は失敗したが、この技術のお陰で、『おじさん』から中々の額のお金を貰うことが出来ていた。私の唯一の特技と言ってもいい。どうやってお金を得る為に泣き文句を言うか。数分間考えた結果、作戦がまとまり、また母親に電話をかけることにした。そうすると、ワンコールで電話が切られてしまったのだった。私は心の中で、使えねぇ、と呟いた。いつからこんな卑屈な性格になってしまったのか、と私自身で思う。いや、元々そうだったのかもしれない。結局、私はその後三十回以上にもわたり母親に電話をかけたのだが、全てワンコールで切られたのであった。気付くと、夜になっていた。今夜は満月であった。
 
 ✳︎
 
 今日も太陽が私の行動を制限する日だった。唯一の助けであった、母親に裏切られたことを実感するのに数日かかった。そして、存在を肯定してくれた担当さえも裏切った、とも思うようになった。結局、私は孤独なのである。なぜ今まで気づかなかったのであろうか。いや、自分を孤独だと認めたくなかっただけなのだ。それを私は今、認めてしまった。何故か、馬鹿馬鹿しくて笑ってしまった。何が「ネオンは私を照らしてくれる」だ。小さい頃から人間に裏切られ、いずれ母親にも裏切られることを分かっていたから、無機質な物に依存してただけだったのだ。
 私は太陽が出てることを全くと言って良い程気にせず、すぐに近くのホームセンターへ行き、ロープを購入した。もう、母親と担当に裏切られた事、この先の人生の事、全て考えたくなかったのだ。無意識に、私は運良くあった風呂場にある出っ張りにロープをかけ、インターネットで調べながらロープを結んだ。こんなことでさえ、インターネットで調べればすぐに情報は出てくる。さすが情報社会、さすが自殺大国日本、と思った。
 もう私には未練はない。あるとすれば、誰からも本心で私のことを肯定しなかったことだろうか。いや、もう、そんな欲を満たそうとする気は一切無い。
 そんな思考を巡らせながら、私は首にロープを掛けた。何故か泣いていた。しかし、泣いても、私は、一人なのだ。担当に対しても泣き叫んだが、その時も私は一人だったのだ。最期も一人か、という思いが巡ったが、もう考えない事にした。
 心の準備は出来た。
 さよなら。
 そう呟いた瞬間、首が締まり、意識は飛びそうになる。苦しさから、足をバタバタと震わせる。そうしている内に、意識が、飛んだ。
 意識が飛ぶ瞬間、甲高い男の子の声が聞こえたような気がしたが、もう反応するには遅かったのだった。
 今日の部屋の水銀温度計が、無常にも上昇するのを止めなかったのは、誰も知らないことである。
 
 
 
 第一章
 
 孤独なとき、人間はまことの自分自身を感じる。
 When being lonely, man feels true himself. - Lev Nikolayevich Tolstoy
 
 
 目が覚めた時には朝日がカーテンの隙間から顔を覗かせていた。ああ、ここが地獄か、現実世界と変わらないのだな、と思ったが、横に目を向けると、ロープが風呂場の出っ張りから外れているのを見て、ここがまだ現実世界であるということを実感した。
 死ねなかった、という絶望感より、この先どう生きればいいのか分からない、という感情が先に現れた。それは生への恐怖という。絶望とはまた違う。望みが断ち切れることを絶望と呼ぶが、生への恐怖は既に望みなど無いのである。しかし、自殺する原因としては、二つとも当てはまるのである。
 そんな恐怖に怯えながら、ふと反対方向に目を向けると、人影が見えたのだった。泥棒かと思ったが、首を吊る際に早期に見つからないよう、玄関も窓も鍵を閉めてはずなので、泥棒ではないことは確信があった。
 では何者なのだ、と恐る恐るその人影を見ると、その人影の正体は、小学生程の身長しかない。いや、小学生そのものだ。しかし、髪は白髪で、華奢な体型をしており、とても義務教育を受けに小学校へ通う児童には見えなかった。また、身形の整った格好のような印象を受けた。黒のブレザーを着ており、下は短いズボン。そこから、白く細い足が見える。形容するならば『美しい』と感じる姿をしていたのだった。
「おはよう、おねーさん、気分はどう?」
 小学生のような彼は言う。
 理解が出来ないことばかりだ。なぜ小学生が私の部屋にいるのだ。なぜ私に話しかけてきたのだ。なぜ、が沢山出てきた。質問しようにも、質問が多すぎて何から聞けば良いのか分からない。疑問と恐怖で、気分は最悪である。とにかく、貴方は誰だ、と聞くしかなかった。そして彼は答える。
「僕はね、おねーさんの友達だよ」
 私の友達?いや、私には友達がいないはずである。小学生のころからずっとだ。だから、私は一人でずっと絵を描いていた。誰にも見せず、誰にも肯定も否定もされず、絵を描いてきた。それが小さいころの楽しみであった。高校に上がった頃、一人でノートに絵を描いているところをクラスの男子に見られ、ノートを奪われ、私の描いた絵のページを破り、黒板の前に張り出された。そこで初めて、私の描いた絵に批評が付いたのだった。しかし、皆は私の絵を否定した。一人でこんなことしてるの、気持ち悪い、と言う人間もいた。そこで、私は初めて他の人間に否定される感覚を味わったのだった。否定される感覚は言葉では形容出来ない。感情がぐちゃぐちゃになる。そして、吐き気をもよおすものだった。私はすぐさまトイレへと逃げ込み、嘔吐した。それから、私は絵を描いていない。否定されることを、極端に恐れてしまったからだ。その事を思い出し、また吐き気に襲われた。
 しかし、私の気分などは関係ないといった風に、彼は続けて言う。
「お腹減ったなあ、何か作ってよ、おねーさん」
 何を呑気なことを言っているんだこの小学生は。貴方の友達かもしれない女が自殺しようとしていたのに。それを助けずに、ただ見てるだけ。終いには友達が目を覚ましたので、自分がお腹が減ったから何か作れ?理不尽にも程があるのではないか、と思った。腹が立つと同時に、呆れの感情すら湧いた。いや、まあ、いい。気晴らしに何か料理を作って、すぐに部屋から追い出して、また首でも吊ろう。そう考えた。死ぬまでの暇つぶしと考えたら申し分ない。
 私は冷蔵庫から卵と玉ねぎ、そして冷凍庫から冷凍した米を取り出し、慣れない手つきでオムライスを作った。料理は苦手分野であったので、上に乗っている玉子はぐちゃぐちゃである。もしかしたら、自分の心情が玉子に乗り移ったのかもしれない。そう考えたら、自分の感情を客観視出来た。そして勿論、オムライスは一人分である。彼の分しか作っていない。そして何故か律儀にテーブルの前に正座で座っていた彼に作ったオムライスを差し出した。
「ありがとう、オムライスだね、僕好きなんだ、ところで、おねーさんは食べないの?」
 彼は私に質問したが、ノー、と答えた。自殺した後は、排泄物や胃の中の物が全て出る為、特殊清掃の方を困らせる、と聞いたことがあるからだ。他の人間に裏切られて尚、人間を困らせるようなことはしたくなかったのだ。勿論、食欲は一切ないから、自殺しようがしまいが食べる気は一切無かった。ただ、私もオムライスが好きなので、彼に少しの共感を得た。小さい頃、母親の作るオムライスが大好物であったのだ。しかし、もう食べることは出来ない。母親に裏切られたからだ。母親とはもう会話は出来ないだろう。実家にはもう帰れないだろう。しかし、私は母親を会話する気も、実家へ帰る気も、もう既に更々無いのだが。
 彼は美味しそうにオムライスを食べる。この光景は久しぶりであった。私の作った貧相な料理でも、美味しそうに無邪気に食べる姿を見て、少し微笑ましくなった。
 そして、彼は急に私の目を見る。
「一緒に食べよう、食事は一人で食べるより二人で食べた方が美味しいよ」
 彼は食べるのをやめ、スプーンを机の上に置き、この文句をずっと言ってくるのだ。彼の説得は十分近くまで及んだ。本当は食べる気など無かったのだが、早く彼を部屋から追い出そうと思い、私はその説得に折れた。私は、彼の食べかけのオムライスを一口だけ食べることにした。
 これは私にとって、久しぶりの食事であった。担当から逃げてから丸何日間、食べ物を私は口にしてなかったのだ。オムライスを食べた瞬間、猛烈な吐き気に襲われた。久しぶりの食事ならば仕方がない。しかし、私は何故か、自分の作った食事で、涙を流したのだ。特に美味かった訳でもない。ただの貧相なオムライスだ。しかし、私は涙を流しながら、彼に分けてくれてありがとう、と伝えた。何故そんな言葉を見ず知らずの彼に言ったのか分からない。でも、伝えなければ、という思いが溢れてきたのだった。
「おねーさん、君が笑えば、君に関わる皆が笑うんだ、でもね、君が泣いたら、一人で泣くことになるんだ、だから笑って」
 彼は笑ってこう言うのだ。だから、何故か私も笑った。泣く時は一人。確かに、首を吊ろうとした時、担当から逃げた時は一人で泣いていた。しかし、笑う時は周りを巻き込む。彼の笑顔が私を少し笑顔にしたのだ。彼の言う言葉の意味が少しだが、理解出来た気がする。
 私は彼に、名を聞いた。いや、聞きたかった。少しでも私を笑わせてくれた相手の名を知りたかったのだ。
「おねーさんが呼びたい名前でいいよ」
 名前を名乗らないのが不思議に感じたが、そもそも私の部屋に小学生が居ること自体が不思議である。そんな事は、すぐに考えない事にした。私は数十秒悩んだが、私は『白(はく)』と呼ぶことに決めた。理由は単純である。髪が白髪だからだ。それと、私が悩みを『吐く』少年、という意味も込めた。我ながら良いセンスをしている、と少し感動した。
「白か、良い名前だね、ありがと」
 白はまた笑いながら手を合わせて言う。多分オムライスも食べ終えたので、ご馳走様の意味も込められているのだろう。
 白も名前を喜んでいるようで良かった、と思った。私が、こうやって喜びを共有する相手など、人生でいなかったと思う。いや、担当もそうだったであろう。しかし、担当は私を裏切った。喜びではなく、私は担当に対して執念、いや違う、憎悪、そんな感情を抱いていることに気が付いた。
 私が険悪な顔をしていたらしく、白は私の顔を覗いて言う。
「おねーさん、白はずっとおねーさんの友達だよ」
 そうか、友達とは感情を共有できるのだ。だから白は私が憎悪の感情を抱いたことに気づいて、優しい言葉をかけたのだ。
 私は、またありがとうと白に言う。
 白は笑いながらこう返した。
「おねーさん、さっき凄い顔してたよ、誰かを恨んでいるの?怒っているの?あのね、憎悪という感情はね、愛情なんだ、イコールなんだよ、どちらも時に愛情も憎悪も、人を盲目にさせるんだ、面白いよね」
 急に何を言い出したか分からなかった。愛情?私は担当に対しての愛情は消えた。いや、愛情だったのか分からない。ただの憧れ、憧憬の感情なのかもしれない。しかし、確かに担当に対して盲目になっていたのは間違いないだろう。
 憎悪は愛情。愛情は憎悪。自分が今、どちらの感情を担当に抱いているか、考えている内に分からなくなった。
 私は頭が極端に悪い。常に一人で絵を描いているしかいなかったからだ。難しいことを考えると頭が痛くなってくる。しかし今、頭痛の原因くらいは冷静に考えられるようになっていた。ここ数日食事を摂っていないし、今日もオムライスも一口しか食べてないのだから、栄養も満足に摂取していない。しかも、首を吊るまで、私は一睡もしてなかったのだ。それは体調を崩すだろう、と冷静に考察をまとめることが出来た。自分でも変だと思う。先程まで生への恐怖に震えていたのに、今は冷静に自分の体調不良の原因を考察出来るのだから。まずは睡眠を取らなくては、と思い、私は白に少し寝る、と言いふらつきながら布団に入って、横になり、目を瞑った。
「おやすみ、おねーさん、良い夢を」
 白は私の耳元で囁く。私はここ数日の疲れからか、すぐに眠ってしまったのだった。
 今日の気温は、何故か、過ごしやすい気温であった。
 
 ✳︎
 
 その日は、ごみ収集車の流す音楽で目覚めた。まだ寝たい、という欲求があったが、「今日は、プラスチックごみの収集日です」という大音量が鳴り止まない事から、寝ることを諦めた。これは騒音で生活環境が保全されていない、という事で訴えたら勝訴出来るのではないか、と思った。
 ふと時計を確認したら、朝の八時であった。ここで、私は十数時間も寝ていたことに気が付く。普段は市販の睡眠薬を飲んでも四時間経つと起きてしまうので、余程精神的にも肉体的にも疲労が溜まっていたんだろう、と推測出来た。
 私は換気扇の下へ眠気によるふらつきで足をもつらせながらも移動し、煙草に火をつけた。私は普段は煙草は吸わない。過去に、煙草を吸ってから『おじさん』との食事に行った際に、「君、煙草吸ってるでしょ?臭いでわかるよ、女が煙草を吸うのはちょっとなぁ、若い頃から煙草を吸えば依存性がーーー」などと小一時間説教紛いな事を言われた為、それから煙草を吸うのを辞めたのである。しかし、何故か今日は煙草を吸いたい気分なのだ。吸っている煙草はピース・ライトである。これが今まで吸った中で一番美味い。少し甘いのだ。と言っても、チョコレートといった極端に甘い感じでは無く、バニラのお酒のような、芳醇な香りと味が微かに残るのだ。そんなピース・ライトを吸うと、徐々に目が覚め、意識がはっきりとしていく。実はピース・ライトには精神安定剤が含まれているのではないのか、と錯覚した。
 そこで、私はテーブルの上に乗ったお皿をふと見て思い出した。そうだ、白。白はどこだ。叫ぶように呼んでみるも、返答は一切ない。昨日の出来事は夢だったのではないか、とも思ったが、テーブルの上にお皿がある以上、白が『存在していた』ことは確かである。
 私は急いで煙草を吸う。久しぶりの煙草と焦りの感情で少し咽せる。そして直ぐに火を消し、寝た時の格好そのまま、ドン・キホーテで格安で買った偽物のクロックスを履いて、外へ出る。白は遠くへは行ってないはず。何故かそんな確証があった。根拠はない。世の中は根拠のない事実だらけで出来ているのだ。『1+1=2』とは誰が決めたのか。根拠など一切ない。そんな事を小さな頃から教わったせいで、大人になってからも、根拠のない確信が自信となってしまうのだ。
 私は近所の公園、この近辺に唯一存在する小学校の前、閑静な住宅街、考えられる所は全て周った。自動販売機の下、側溝の中さえも確認した。しかし、白は見つからなかった。
 自宅のアパートに戻った頃には、息が切れていた。脳に酸素が回っていない感覚がした。運動不足なのは薄々気付いてはいたが、まさかここまでとは思ってはいなかった。私は疲れからその場に座り込む。そして考える。何故白は居なくなったのか。いや、何故昨日白は私の部屋に居たのか。白は、私を友達と思い、助けに来たのではないのか。一緒に笑おうとさせてくれたのではないか。私を生かしてくれたのではないか。その恩返しは、まだ出来ていない。だから、その恩返しのため、白は何者か、ではなく、白の捜索に意識を向ける事にした。
 そこで私は閃いた。白の絵を描いて、その絵を見せ警察に捜索を手伝って貰おう、と考えた。そちらの方が合理的である。我ながら天才ではないか、と思った。小さい頃描いていた絵が、ここで役に立つとは思わなかった。しかし、警官も私の絵を否定するかもしれない。いや、そのような自己中心的な思考よりも、白を見つけることが優先だ、と思い、すぐに部屋に戻った。
 私はノートとペンを段ボールの中から出し、白の絵を描いた。一心不乱。一意専心。無我夢中。すぐに、ペンは進んだ。そして出来た絵は、白の笑顔の絵であった。
 そして、私はすぐにその絵を持ち、交番へ向かった。そして、座っていた警官の前に白の似顔絵を勢い良く提示し、この子を探してください、と言った。私が鬼の形相だったのだと思う。だから警官は少し驚きながらも、その絵を凝視した。この警官は老眼なのだろう。少し白髪も混じっている。警官は、机の上に置いてあった眼鏡をかけ、数秒間私の描いた白の絵を観察した。
「分かりました、善処しましょう」
 その言葉が、私を少し安堵させた。しかし、警察官は眼鏡を机の上に置き、続けてこう言った。
「この…男の子かな、名前を教えてください、出来れば住所もだね、それと貴方とのこの子の関係性についても教えて下さい、親子…かな?いや、親子にしては、貴方、若いよね?」
 名前は、白です、と言おうとした。しかし、白という名前は私が付けたものだ。本名は知らない。知らなくてもいいと思っていた。素性も、通っている小学校も、親も、趣味も、全部知らない。いや、オムライスが好きということだけは、知っている。しかし、「彼はオムライスが好きで…」と警官に言ったところで、何の情報にもなりはしないことは重々承知していた。だから私は、小さい声でわかりません、と警官に言った。声は震えていた。
 警官は大きな溜息を吐いて、椅子の背もたれによしかかった。そして私を老眼で睨みつけ、こう言う。
「あのねえ、君、名前も知らないんじゃ捜索も、行方不明届も出せないよ、しかも写真じゃなくて似顔絵だし、うーん、分かるかなぁ」
 私の呼び名が『貴方』から『君』に変わった事に対して苛立ちを感じたが、確かにこの警官の言う通りである。こいつは非情だ、とは思ったが、素直に警官の話を受け入れることしか私には出来ないのだ。だから、私は、はい、分かります、と返事をするしか無かった。
 警官は睨みを切らさず、話を続ける。
「あとねえ、この似顔絵見る限り…髪白色だよね、日本人じゃないでしょ、欧米人?それともフィリピン系?どちらにしてもさ…君…捨てられた子を誘拐した…とかじゃないよね?」
 誘拐、という言葉に反応してしまった。このままだと、変な疑惑が掛けられて、話が続いて帰れなくなる。つまり、白を探す時間も無くなる。そう、私には時間が無いのだ。やはり、警察は信用出来ない。私一人で捜索するしかないのだ。
 私は警官に、ありがとうございました、と言い残し、白の似顔絵を握りしめ、その場から逃げるように交番を出た。警官の声が聞こえたが、その言葉を自ら遮断した。同じような事を私は繰り返すのだな、と少し考えてしまったが、すぐにその思考は消した。まずは白。白を探さなければならない、という思考にチェンジした。
 私は確認した場所も何度も見て周った。途中、通りすがりの化粧の濃い女性が、私のことを二度見した。香水の匂いが鼻につく。しかし、二度見する気持ちも分からなくもない。寝巻き姿で安物のクロックスを履き、化粧もしていない女が、息を切らして走っているのだ。不審者のように見えるだろう。しかし、外見ですぐに判断する人間というのは、何と愚かなんだろう、と気が付いた。私は担当に綺麗な姿で会いたかったのは、私自身が外見で全てを判断する人間だったからだ。しかし、それは間違いだった、と思った。外見はいくらでも見繕うことが出来るが、心の中はそう簡単には変えられない。人間の本質は、内面の、更に内面の欲望にあるのだ。では、私の欲望とは何か?愛情?嫉妬?憎悪?多分、そのどれもが混ざり合っているのだろう。例えるなら、ミックスジュースだ。市販のミックスジュースは美味しいが、私のミックスジュースは不味いだろう。どろどろしていて、茶色で、きっと身体には毒だ。そんな毒でも、白は受け入れた。他人に受け入れられたという事実が、喜びという感情に繋がるのだろう。だから、一緒に笑えた。また、私は白と笑いたいのだ。
 私はずっと白の捜索を一人で続けた。
 気付くと、夜になっていた。月は欠けていた。
 
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 スマートフォンの時計を確認すると、午前二時を回っていた。また、スマートフォンの充電が後五パーセントとなっており、これ以上捜索するのは難しいと判断した。時間も確認出来ない、地図も見れない。人間は本当にインターネットに支配されているな、と感じた。
 周りの家の電気は既に消えている。街灯と月明かりのみが、光として残っていた。家のアパートの近くのコンビニエンスストアを通ると、店の前にある蛍光灯に蛾が集まっており、その下には蛾の死骸があった。皮肉だと思った。光を求めていたのに、その光の下で死ぬのだから。人間も、光を求めると死ぬのだろうか。ならば、光を端から求めないことが賢明なのではないか。そうすれば、死ぬ事はない。しかし、光を浴びる事は無くなる。これは、人生を決める、運命の二択である。私はどちらを選ぶだろう?いや、私はそもそも、光も闇も、選ぶ権利を持ち合わせていないのだ。権利を持たず生きることも、結局自由なのだ。自由な世の中も、困ったものである。
 私は家のドアの前に辿り着き、鍵を開けた。一人暮らしの宿命であるが、「ただいま」と言ったところで反応はない。そんな事は分かりきっているのだが、玄関に入った際に、私は無意識に「ただいま」と言ったのだ。
「おかえり、おねーさん、気分はどう?」
 甲高い声が聞こえた。
 私はクロックスを投げ捨て、部屋に一目散に向かった。そして、いたのだ。白が。
「夜遅くまで何してたんだい?気分は…良くないみたいだね、顔色が悪いよ」
 私はすぐに白に駆け寄り、抱きしめた。言いたいことは沢山あった。白こそ何をしていたの?何処にいたの?そんな質問より、私は、馬鹿、と言った。馬鹿という言葉に全ての感情を込めた。
「おねーさん、痛いよ、あと汗臭い」
 私は白を抱き締めるのを止め、うるさい、と笑って言った。もう白を手放さない。そうこの時決めた。私は毒だ。私の毒を受け入れた白は、言わば私の中毒だ。光も闇も選べないのなら、光も闇も要らない。白が居ればいい。白の毒も、私は受け入れよう。そうして、私はもう一回白を抱きしめた。
「なーに、おねーさん、僕に依存してるの?」
 依存か。依存でもいい。白が生きるなら私も生きよう。白がこれ以上消えるなら、私も消えよう。
 そうして、私は、白の質問に頷いた。
「ところでおねーさん、依存と執着の違いって知ってるかい?」
 私は、知らないよ、と答えた。
「依存はね、人を頼らないと生きていけないという身体状態なんだ、執着はね、人を忘れられないという心理状態なんだ、切っても離すことが出来ない関係だね」
 私はまた、知らないよ、と答えた。
「でもね、おねーさん、依存も執着も、核の核は、愛情なんだよ」
 白と出会った時の言う通り、確かに愛情は、人を盲目にさせるのだ。それを私が理解する日は、そう遠くなかった。
 
 
 
 第二章
 
 自分の影の部分を隠蔽したままの私が、どうして真実であり得ようか。 
 How can I be substantial if I do not cast a shadow. - Carl Gustav Jung
 
 
 私と白が再会してから、一週間が経過した。一週間というのは、月火水木金土日の七日間の事であるが、私は何故一週間は七日間であるのか、という事に疑問を感じていた。百歩譲って、一週間を七日間と設定するとしても、では何故、一ヶ月は三十、もしくは三十一日間であるのか。例えば、一ヶ月を二十八日間に設定することで、何日は何曜日、と理解がし易くなる。予定も立て易くなるはずなのだ。そもそも、二月というイレギュラーな存在が有るのだから、別に一ヶ月の日数を変えても何の問題もないのではないか。そうなると、一年は何ヶ月になるのだろう。計算式は『365÷28』となる。しかし、私には三桁と二桁という割り算を暗算で求める事は出来ない。出来るとしたら、せいぜい二桁と一桁の割り算である。私はスマートフォンの電卓機能で計算しようとしたが、面倒なので、その事について考える事を放棄した。
 最近も考えたが、世の中は根拠のない事柄ばかりで出来ている。しかし世界というのは馬鹿なので、根拠が無かろうが、その事柄を完全に受け入れてしまうのだ。それこそが『常識』というものである、と私は結論付けた。常識は根拠が無くても皆が受け入れる。人間は、その常識の中で生きている以上、その常識という理不尽な事柄を受け入れる他無いのだ。そうやって、これまでも生きてきたのだから、仕方がない。今更疑問に感じたところで、無駄であることは、明白であった。
 この私の一週間という不変的な時間の経過の中で、白は私の部屋から居なくなるということは起きなかった。常に、私の部屋の中に住んでいた。
 この一週間で白の事について分かった事がある。まず、白は必ず正座をして過ごしている事である。足が痺れないのか、とも思ったが、気品のある座り方であったので、別に私から指摘する事は無かった。また、白の好物はオムライスだけでは無く、甘口で、人参の入っていないカレーライスも好物だと分かった。私も小さい頃は、辛い食べ物と人参が食べられなかったので、その点については、白に共感を得たのであった。それともう一つ。白の誕生日は、八月十日である事が分かった。何となく白に質問したところ、すんなりと答えてくれたのだ。白は私と出会った当初から、黒のブレザーに黒の短いズボンというスタイルを崩さなかった。その為、誕生日は過ぎてはしまったものの、プレゼントとして、白の新しい服を買ってあげようと決めた。これから秋冬と迎える訳であるから、流石に短いズボンは寒いだろう、と思ったからだ。しかし、私には白の詳細な服のサイズが分からなかった。その為、私はZOZOTOWNで適当に見繕った、黒の小学生用のスーツを購入したのだ。その事を白に伝えると、白は一度は拒否したものの、「でも、せっかくおねーさんが買ってくれたんだもん、大事に着るよ、ありがとう」と言って、受け入れてくれたのだった。何と謙虚な小学生なのだろう、と思った。
 しかし、ここで重大な問題が発生した。私の所持金が底をついたのであった。白の服を買った事もあるだろうが、私の食欲は完全に回復した為、食事は私と白の二人分作る必要があった。白と二人で同じ好物を食べる事に楽しみを感じていた為、それは仕方のない出費である、と考えざるを得なかった。
 さぁ、どうやってお金を稼ごうか、そう考えている時であった。スマートフォンの通知が鳴った。確認すると、久しぶりに『おじさん』からLINEが来たのであった。
 
 さくらちゃん、僕のこと覚えているかな(汗)
 もし良かったら、またご飯でも行かないかい?フレンチのいいお店を見つけたんだ!
 料金は…そうだなあ、これまでもお世話になっているし、十万円でどうかな?
 もしよかったら返信待ってるね(ハート)
 
 何とも時代を感じさせる文章であった。歳を取ると、何故か若い女に対して優しくなるが、タメ口である。これは、一種の矛盾だ。
 勿論、さくらというのは私の偽名である。『おじさん』に私の本名を教えた所で、メリットなど特に無いからであるからだ。しかし、食事を共にするだけで十万円は大きい。私は即座にリプライをした。

 ありがとうございます(ハート)
 では、急ですが、明日でどうでしょう?
 さくら、会えるのが楽しみです!
 沢山、お酒飲んじゃうぞ(笑)
 
 我ながら気持ち悪いリプライを送ってしまった、と後悔した。しかし『おじさん』相手には、この様な文章は効果的なのである。すぐに『おじさん』からリプライが届いた。
 
 分かったよ、さくらちゃん!
 明日の夜七時に、いつもの場所で待ち合わせしよう(笑った絵文字)
 
 私はすぐに、分かりました(ハート)とだけ送り、スマートフォンを手から離した。『おじさん』と連絡を取り合うのは神経を使う。私は大きな溜息をついた。その一連の私の動作を見ていた白は、こう言ったのだ。
「疲れているの、おねーさん?肩でも揉んであげようか?あのさ、そんなおねーさんにクイズ、疲労感と倦怠感、その違いって、分かる?」
 私は確かに疲れていた。頭も上手く働かない。だから私は、白の質問にこう返した。
 平仮名にすると文字数が違う、と。
 
 ✳︎
 
 私は『おじさん』との待ち合わせ時間より、五分早めに待ち合わせ場所に到着した。この様な時は、遅刻は厳禁である。『いい女』を演じなければならない為だ。そうでないと、貰えるお金の額が減る危険性がある。そういった事務所に所属し、お客さんと契約を結んでいる場合は別であるが、私の場合はそういった所に所属している訳ではない。私の場合はSNSを活用した口約束である。
 勿論、白は家で留守番をさせていた。流石に私が猫を被り食事してる所は見られたくないし、急に私が子連れで現れたら『おじさん』も驚くだろう。しかし、白いドレスで着飾った時、白は「おねーさん、お出かけ?白いドレスだね、僕の名前と一緒だ、いいね、綺麗だよ」と言って送り出してくれた。白は何かを察しているのだ、と思った。
 そうすると、二十メートル先くらいから、低い声が聞こえた。大塚明夫の声に似ている。
「おまたせさくらちゃん、待った?いやでも約束の時間より少し早いね、予約した時間より早いかもしれないな…まあ、別に大丈夫か、フレンチはここから歩いて十分くらいだしね、さあ、行こうか」
 約束の時間より少し早めに『おじさん』は現れた。走ってきたのだろうか。髪が薄くなって、後退した広い額に汗をかいている。このような所が『おじさん』の事を信用している所であり、『カモ』として打って付けだ、と感じている所でもあるのだ。『おじさん』は私との口約束は必ず守るし、手を繋いだり、性行為を強要したりはしない。しかし、『おじさん』には妻と娘がおり、その人たちの約束、いや、契約よりも重たいものを破っているのではないか、と私は思っていた。でも、そんな事は、口には出せない。何故なら、私は今『いい女』であるからだ。
 フレンチの店には予想より早く着いた。店名はフランス語で書かれてあるので、読めない。一応、スマートフォンで店名をメモをした。『Le restaurant Géranium』。しかし、店名のフランス語からはかけ離れた様な、ひっそりと佇む日本家屋の様な店構えで、日本とフランスの融合をコンセプトにしているのだろう、と推測出来た。中々いい店知ってるね、と私は『おじさん』に耳打ちした。
 窓際のテーブル席に座り、私たちは二人とも赤ワインを注文した。料理はコースのみだそうだ。
 私は料理やお酒が運ばれて来る際、オーバーなリアクションで全てを褒め称えた。『おじさん』を横目で見ると、どうだ、と言わんばかりの表情をしているので、このリアクションは正解なのだろう。私たち二人とも、飲んだことのない芳醇な香りのする赤ワインでほろ酔いになり、話が弾んだ。と言っても、『おじさん』の家族の話、いわば愚痴を繰り返しているだけだった。私は『いい女』であるので、うんうん、そうだね、と相槌を打ちながら肯定した。そして話は変わり、『おじさん』の仕事の愚痴へとシフトチェンジした。出張が多い、来月は北海道だ、飛行機に乗るのが面倒だ、などと言っていた。
 私は話の流れに添い、私も遠くに行きたいな、北海道もいいけど、沖縄の無人島とかで泳ぎたい、と『おじさん』に提案した。流石に連れて行ってくれるとは思っていない。でも、多少の望みはあるので、一応甘い声で言ってみたのだ。
 そうすると、『おじさん』は急に険悪な顔をして、私にこう言った。
「沖縄の無人島は駄目だ、ほら…何年か前かに英会話教師が殺害された事件があったろ、犯人は、いち…いや、名前はどうでもいい、その犯人は、沖縄の島に潜伏していたそうだ、沖縄の無人島は犯罪者が潜んでいる可能性がある、危険だ」
 私は、そうなんだ、と適当に話を合わせた。『おじさん』の話は続いた。
「あとな、大阪、大阪は危ないぞ、さくらちゃん知ってる?大阪市西成区の『あいりん地区』、あそこは犯罪者や浮浪者の潜伏先として有名なんだ、その、いち…何とかも、何年も潜んでいたらしい」
 私は、詳しいね、何でそんな事知っているの?と会話を続けさせようとした。会話の内容などどうでも良かった。ただ『おじさん』を良い気分にさせる、それが目的だった。
『おじさん』は何かに気付いた様子で、また話を続けた。
「いやぁ…変な事を言ってすまない、でも僕はね、犯罪者や何かから逃避しようとする人の心理状態っていうものを考察するのが好きなんだ、どうしてそんな事をしたのか?目的は?動機は?それを考えるのが、好きなんだなあ、だから、そっち方面の情報には詳しいんだ、うん」
 私は、うんうん、と頷く。一応、肯定した。
「ちょっと話は変わるけど、さくらちゃん、知ってるかい?人間の心には、自分でわかっている『意識』の領域と、自分ではわからない『無意識』の領域がある。僕はその無意識の領域が、人間の行動、つまり犯罪行為や逃避行為を引き起こす第一要因になっていると思うんだ、コンプレックスって言葉は…うん、聞いたことあるよね、それって『無意識の中の観念や記憶の集合体』の事なんだよ、分かるかなあ…でも、日本人はコンプレックスの事を『人より劣っている部分』、つまり意識出来る欠点と捉えがちだけど、実は違う、本当は『意識出来ない苦痛、恐怖』の事を言うんだ、勿論、ポジティブな面のコンプレックスも存在するけどね、それで、僕はその負のコンプレックスを理解する事で、犯罪行為や逃避行動をする人間の目的や動機を考察出来るんじゃないかって思うんだよねえ…いや、ごめんね…難しい話をして」
 私は、いやいや、勉強になります、と反応した。実際は、一文字も理解出来なかった。まだ店名のフランス語の方が理解出来そうだ、と思った。
 時は気付くと二時間を過ぎ、私たちは店を出た。そして『おじさん』から封筒を貰った。では、また、と私が帰ろうとした際、『おじさん』は私を呼び止めた。
「さくらちゃん、さっきの話だけどね…、人は誰しもコンプレックスを抱えているんだ、それを自分自身で意識しようとすると鬱になる可能性だってある、さくらちゃん、何か事情があるように見えるからね…、うん、だからね…僕で良かったら、話し相手になるから、いつでも連絡してね、それじゃ、また会う日まで、アドゥー」
 アドゥー、それは別れの挨拶、というのは知っていた。何語かは分からない。
 それにしても、『おじさん』に、私の無意識、何だっけ、コンプレックスだ、それが分かったかの様で少し怖かった。何だよ、そんな簡単に私の事が分かってたまるか。それが、私の今日の夜に初めて出た本心の感情であった。
 
 ✳︎
 
 帰り道、私は何故か憂鬱だった。先程の『おじさん』の話である。私の無意識の感情とは何なのか、ずっと考えていた。前にも思ったが、人間の本質は、自分の内面の核の核にあると。その核の核が、コンプレックスの事なのではないか。つまり、人間の本質とは、無意識の中の観念なのではないか。では私の本質とは何だ?私の無意識にある物とは何だ?そんなことばかり考えていた。
 そんな時、急にスマートフォンが鳴った。電話だ。知らない番号であった。電話に出るのが面倒であったが、多分何かのセールスや勧誘だろう。適当に反応して、適当に電話を切ってやろう。私はそう思いながら、はい、もしもし、と言った。すると、もしもし、と返事をする女の声が聞こえた。やはり、セールスか?と思ったが、実際には違った。
「私、一ノ瀬探偵事務所の鈴木、と申します、急にお電話して申し訳ありません」
 探偵?探偵が私に何の用だ。そもそも、探偵という職業は、ドラマか小説にしか存在しないのではないのか。しかも、何故私の電話番号まで知っているのだ。
 疑問が沢山残るまま、何の用でしょう、と鈴木という女に聞いた。
「あの、簡略に申し上げますと…貴方の母親が、行方不明になりました、それをお伝えする為に、今回お電話させて頂きました」
 私は、え?と答えた。いや、答えた、というより、反応した、という方が正しい。酔いが一気に冷めた感覚がした。そんな私の反応にも気にせず、鈴木という女は冷静に話を続けた。
「貴方の母親の知人からの依頼です、電話番号もその方から聞きました、なので…いや、もう夜も遅いので…詳しいことは明日、会って話したいですね、駅前の喫茶店に…そうですね、十時でどうでしょう?」
 私は、はい、分かりました、とすぐに答えた。そして、鈴木は「よろしくお願い致します」と言って電話を切った。
 母親が行方不明?何故?
 いや、私は母親に裏切られたのだ。もう会わないと心の中で誓ったのだ。しかし、何故か、母親を探さなければならない、という思いが生まれたのであった。
 この感情も、『おじさん』の若い女に対する反応と同じく、一種の矛盾だ。
 私はその感情の矛盾に、葛藤した。
 私は、母親を憎悪している。
 しかし、そこで私は白の言った言葉を思い出した。
 憎悪と愛情はイコールである。
 愛情?
 私は、裏切られても尚、愛情を持つ?
 頭の整理が出来なくなった。
 私の夜は、いつもこうだ。
 他人に簡単に裏切られるが、その時の自分の感情が本当に憎んでいる感情、つまり負の感情なのか、はたまた、それでも愛している、という正の感情なのか、分からず葛藤する。
 いや、今は私には白が居る。白が待っている。私の感情や心情を唯一理解してくれる白が居るのだ。そもそも、白は私を裏切ったりはしない。そんな感情の葛藤を、白に抱いたりはしない。持つべきものは、友達なのだ。
 そうだ、今日行ったフレンチに、白も連れて行ってあげよう。きっと喜ぶに違いない。私はスマートフォンにメモをした店名を検索した。食べログで調べてみると、評価は星四つと高かった。ほら見ろ、お酒も料理も雰囲気も良かった。一緒に行った時は、白にちなんで、今度は白ワインを飲もう。そうしよう。
 そう思いながら、私は帰路についたのであった。
 
 
 
 第三章
 
 弱い者ほど相手を許すことができない。許すということは、強さの証だ。
 The weak can never forgive. Forgiveness is the attribute of the strong. - Mahatma Gandhi 
 
 
 私は予定の時刻よりも五分早く着いた。今回は『いい女』を偽装する必要は全くと言っていい程無かったのだが、『おじさん』と頻繁に関わっていたせいで、予定よりも早く現地に到着する、という癖が身に付いてしまっていた。しかし、それは遅刻癖の人間よりも大層立派な癖である、という事は自覚している。お陰でコーヒーがゆっくりと、美味しく飲めるからだ。多分、探偵の鈴木という女と会話をしていたら、折角のコーヒーが冷めてしまうだろう。というのも、今回は本物の探偵と『母親が行方不明』という議題で話し合うのだから、ゆっくりとコーヒーを飲んでいる暇がないのは、確実に目に見えていた。私はコーヒーを飲みながら、昨日の出来事を思い出していた。
 
 ✳︎
 
 私は昨日家に帰った後、白に母親が行方不明になったという電話が探偵からかかってきたのだ、と打ち明けた。すると、白は珍しく動揺した。
「大丈夫なの?どうして行方不明になったの?早く探す事が先決だよ」
 白は早口で私に訴えた。しかし、私はその時、母親に対する感情が、愛情なのか、憎悪なのか、理解出来ないでいた。もしこの感情が憎悪ならば、私は母親を見つけたところで、必ず酷い言葉を浴びせるだろう。そうなるのが、一番怖かった。だから、探偵に会いに行くのを躊躇していた。
 無言の私に対し、白は自分の顔をゆっくりと私の顔に近づけ、覗く様に私を見た。白い顔、白い髪が美しい。
「あのね、おねーさんの母親はおねーさんを必ず愛しているんだ、母親の愛というのはね、この世界の中で最も利己心のない愛なんだよ」
 嘘だ。母親は、私よりも自分自身を優先して、私にお金を貸す事を拒んだのだ。何が利己心のない愛だ。ただ、自分勝手ではないのか。私を勝手に生み、勝手に育て、勝手に手放す。これのどこに愛を感じるのだろうか。
 白は言葉を続けた。
「もし、母親がおねーさんを愛してなかったとしよう、でもね、母親はしっかりおねーさんに衣食住を提供して、育てたんだ、だからおねーさんはここに存在しているんだ、その恩くらいは、今返しても、いいんじゃないのかい?」
 ふと、その白の言葉で、小さい頃の記憶を思い出した。
 私の父親の職業は、IT関係の会社の事務であった。昇進も出来ず、歳下の上司に命令された業務をこなすだけの人間であった。昇進が出来ないのは、父親が他の同僚よりも業務をこなすスピードが極端に遅かったのが原因である。ミスを何度も犯し、仕事のスピードが遅いと歳下の上司に怒られ、毎日平謝りするばかり。そんな印象であったと、かつての父親の同僚が、母親と話をしていたのを聞いたことがあった。
 そんな父親は、家の中では職場とは違った。俺が王だ、と言わんばかりに母親に暴力を振るっていたのだ。幸運にも、父親の暴力が私に向けられる事は無かったのだが、その母親に対しての家庭内暴力により、二人は離婚。その後は、母親の希望により唯一の子供であった私を引き取り、一人で子育てを行ったのだった。
 私はその一部始終をずっと見ていたし、小さいながらも、二人が離婚した原因を把握していた。
 いや待て。
 もしかしたら。
 もしかしたら、母親が父親の暴力から、私を守っていたのではないのか?
 もしかしたら、離婚した際に私を引き取ったのは、父親から私を守る為だったのではないのか?
 つまり。
 母親は、私を、愛していた?
 では、何故だ。
 何故なんだ。
 母親が、私を裏切ったのは。
 その疑問の解答が、どうしても知りたくなった。
 そこで、私は決心した。
 私は探偵に会いに行かなければならない。
 母親が、私にお金を貸さなくなった原因を知る為に。
 白はまだ私の顔を覗き込んでいた。そして、突然、笑うのだった。それにつられて、私も笑った。そして白に、心配かけてごめん、ありがとう、と伝えた。
 私が持っていた疑問の解答がすぐに明日明らかになるとは、その時の私は思ってもいなかった。
 
 ✳︎
 
 私が窓の外を見ながら、昨日の出来事を思い出している最中に、店内にスーツ姿の女性が入ってきた。すると、私を見つけるやいなや、早歩きで私に近づき、軽くお辞儀をした後、名刺を差し出した。
「初めまして、先日お電話しました、一ノ瀬探偵事務所の鈴木と申します、今日は色々とお話を聞かせていただきます、よろしくお願いします」
 何とも礼儀正しい女性なのか。見た目からも、礼儀やマナーが身についている女性というのが分かる。丸眼鏡をかけ、前髪はセンターできっちりと分けており、後ろ髪は束ねている。この女性なら、どこの企業に面接を受けても、採用されるだろう。そんな印象を受けた。しかし、見た目とは裏腹、名刺には大きく『探偵』の文字が刻まれていた。何故、この女性は探偵という職業を選んだのだろうか。その点が一番気にはなったが、場違いの質問ということは分かり切っているので、私はその思考は排除した。
 私も鈴木を見習い、簡単な自己紹介をした。
 しかし、私が自己紹介をしている途中で、鈴木は口を開いた。
「ええ、大丈夫です、知っていますから、こちらで貴方の情報は調べ上げております」
 成る程。素性も全てお見通しな訳か。探偵というのは仕事が早い。
 鈴木はこの会話は業務の一環である、という風に、淡々と言葉を続けた。
「早速本題へ入りますが、電話でも申し上げた通り、貴方の母親が行方不明になりました、依頼人は…菊池日奈子様と申します、貴方の電話番号も菊池様から情報を提供させて頂きました、いや、本来は依頼人の情報を伝えるのはタブーなのですが…、菊池様から、娘様ならば、私の本名を言っても構わない、本当に貴方の母親は行方不明になったのだ、と信頼して頂きたい、と仰っておりました」
 菊池おばさん。私の実家の隣に住んでいた人である。私が小さい頃から、よく遊んで貰っていた。しかも、菊池おばさんも夫と離婚し、一人暮らしをしていたので、母親を馬が合ったのか、頻繁に母親と料理の交換も行っていた。そして、お互いの家の合鍵を交換までしていた。実際にあった話だが、私や母親が留守にしていた際、菊池おばさんは台所にカレーの入った鍋を置き、その隣には『美味しく食べてください 菊池』とメモを残していた、という事もしばしばあったのだ。多分、菊池おばさんは、その交換した合鍵を使い、何回も母親のもとを訪ねたが、何回も連続して母親がいない事に不信感を持ち、行方不明だ、失踪した、と思ったのだろう。しかし、何故、探偵に依頼したのだろうか。警察に行方不明届を出せば良いではないか。
 そんな思考を見破ったのか、鈴木は言葉を続けた。
「本来ならば警察に届け出を出すべきです、菊池様もそうした様です、しかし、警察は親族からの行方不明届でないと動きません、ただのお隣さんの届け出では警察は積極的に捜索を行わないのです、だからこそ、我々探偵が動くのです、そして今回は、ただの行方不明者の捜索、とはいかないかと思われます」
 成る程、警察は信用ならないという事だ。私も身を持って体験したので、その点については理解が出来た。しかし、ただの行方不明者の捜索とはいかない、というのは理解が出来なかった。予想すら、出来なかった。
「あの、貴方の母親の気配を何日も感じなかった、もしくは、何度も尋ねたが留守が続いた、その為、菊池様は貴方の母親が行方不明になったと考え、我々に依頼をした、と思うのが普通だと思われます、あの、率直に申し上げますと…、その考えは少し違うのです」
 え?いや、もうその時点から違うのか。では何故、菊池おばさんは母親が行方不明になった、と思ったのか。私には更に理解が出来ない点が増えていた。何故、が沢山出てきたが、鈴木が私に話している中で、疑問を質問に変換する事は、到底出来なかった。
 鈴木は少し沈黙を続けた。そして、意を決した表情を浮かべ、言葉を続けた。
「落ち着いて聞いてくださいね、実は、貴方の実家に…言葉を選びますが、借金取りが、度々出入りするのを菊池様は目撃していました、そして、貴方の実家の中から、怒号も聞こえていたと…」
 母親が借金?しかも、鈴木は言葉を選び、借金取り、と言っていたが、怒号がしたという事は、まさか、闇金業者?母親は闇金業者から借金をしていたのか?ギャンブルもしなかった、いやむしろ、ギャンブルやパチンコに嫌悪感を感じていた母親が、闇金業者から借金?
 意味が分からない。理解が出来ない事ばかりだ。私は文字通り、頭を抱えた。その様子を見た鈴木は、私を慰める様に口を開いた。
「困惑するのは分かります…でも、これが事実です、そして、借金取りが貴方の実家の玄関で叫び、そのまま帰る様子を何度も菊池様は見ておられました、いつもは借金取りが家の中まで入るのに、ある日を境に玄関で叫び、帰るようになった、それを不審に思った菊池様は、借金取りが来ない時間を見計らい、貴方の家へ合鍵を使って入りました、そこで、貴方の母親が行方不明になった、失踪した事に気が付きました」
 いや、待て、またまた母親が出かけている可能性だってあるじゃないか。お金がない、という事なら、たまたま菊池おばさんが家を訪れた時間に母親は仕事をしていた、という可能性だってあるじゃないか。その考えを、私は鈴木に伝えた。物凄く早口であった。母親が行方不明になっている事を、受け入れたくなかったのだ。一筋の光に縋りたかったのだ。しかし、鈴木の次の言葉で、私のその僅かな希望は、崩れ去った。
「ええ、私もそう思いました、しかし、リビングの机の上に残されていた、この様なメモが、我々が、貴方の母親が失踪した、と確信した証拠なのです」
 鈴木は、私の前に一枚の紙を差し出した。
 その紙には、こう書かれてあった。
 
 わたしはもうここでいきることができない
 だからとおくへにげる
 あなたは
 しあわせになってね
 
 私はこのメモを見た瞬間、震えた。身震いした。この感情を恐怖、いや、戦慄と呼ぶのだろう。一瞬、これは他人が残した偽物のメッセージではないか、と思ったが、母親の筆跡で書かれたものである、と私は確信出来た。それは、母親の書いた文字は、異常な程『はね』をしっかり書く為だ。『い』や『に』のはねの部分が、そのメモの文字にしっかりと現れていた。
 母親は、絶対に弱みを他人に見せない人間であった。人に心配をかけたくない、そういった思考の持ち主だったからである。しかし、その弱みをわざわざメモに残し、伝えようとした。それは、私の知っている母親像から、一番かけ離れた行動であり、文章であった。そして最後の『あなたは しあわせになってね』という文章。これは、確実に私に向けたメッセージ、というのが直感で理解出来た。私はこのメッセージで既に、少し何かを察してしまった。
 鈴木は言葉を続けた。
「そして、このメモの隣には通帳が置いてありました、菊池様が確認したところ…、残金は、五十八円であったと証言しています、また、近日中に引き下ろした形跡はなかった事から、かなり前よりお金に困っていた、と推測出来ます、それが、貴方の母親が借金をした理由かと思われるのです、あの、つかぬ事をお聞きしますが、他人との間で…もしくは…言い辛いのですが、貴方との間で…そういった金銭トラブルなどは、ありませんでしたか?」
 私との金銭トラブル?
 私は鈴木の言葉で、全てを察した。
 全てが、確信に変わった。
 母親の行方不明の原因の全ては、私のせいだ、という事に。
 母親は自分を犠牲にして、私にお金を貸していたのだ。
 自分が持っているお金が尽きて、闇金業者からお金を借りるというリスクを背負ってでも、私を助けようとしたのだ。
 しかし、私はそのお金を、生活費では無く、担当に、お酒に使った。
 私は、私利私欲の為、お金を使っていた。
 母親はその事に、最初から気付いていたのかもしれない。
 しかし、何度も私の為と、お金を貸してくれていた。
 最後に母親が私にお金を貸してくれなかったのは、遂に返済能力も無くなり、闇金業者からも、お金を借りる事が出来なくなったからであった。
 母親は。
 母親は、私を裏切ったのではなかった。
 私が、母親を裏切り続けていたのだ。
 それでも、母親は唯一の子である私を守ろうとした。
 その母親の感情を、私は踏み躙ったのだ。
 母親が行方不明になったのは。
 闇金業者に追われるようになったのは。
 私のせい?
 わたしの、せい?
 私は、叫び泣いた。自責の念が私を追い詰める。喫茶店のお客さん達が、変な人がいるぞ、という目で私を見ていたが、私は周りの目など気にせず、叫び泣いた。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 何度もこの言葉を繰り返した。
 さすがに鈴木も予想外の事態に困惑していた様子で、すぐに鈴木はお会計を支払い、私と外へ連れ出してくれたのだった。
 それでも、私はずっと叫び泣いた。
 ずっと、謝った。
 謝って済む事ではない事というのは分かっている。
 しかし、今私には、ひたすらに謝る事しか出来ないのだ。
 鈴木は、叫び泣く私と正反対に、冷静さを取り戻した様で、適切に私を対応してくれた。
「話は、事務所で聞きますから…、ここから近いので…、あの…、歩けますか…?」
 私は頷いた。しかし、私はその場に座り込み、一歩も自分で歩くことが出来なかった。全身に力が一切入らなくなった為である。
 その様子を見た鈴木はタクシーを止めた。
「一ノ瀬探偵事務所まで」
 鈴木は冷静に運転手に言った。
 自分が情けなかった。
 自分は愚かだった。
 私はタクシーに乗っている間もずっと泣いていた。
 泣く時は、一人なんだ。
 白の言葉が脳裏に蘇る。
 母親は私を一人にしようとはしなかった。
 でも、私は自ら、一人になったのだ。
 それを理解するのは、もう遅かった。
 
 ✳︎
 
 一ノ瀬探偵事務所は、駅前から少し離れた雑居ビルの二階にあった。しかも、その一室という事なので、事務所は極端に狭い。事務所と言うより面談室と言った方が相応しいのではないか、一ノ瀬探偵面談室と名前を変えた方がいいのではないか。そんなジョークを披露していたのは、この事務所の所長、一ノ瀬という男である。一ノ瀬は、極端に白髪染めしたであろう、不自然なくらいの黒色の髪色をしており、七三分けの髪型をしていた。顎髭も蓄えていた。そして、体格はかなり良く、俺は元柔道選手でインターハイにも出たのだ、と見ず知らずの私にも自慢してきた。
 多分、一ノ瀬のジョークも、インターハイの話も、私を励ます為だと推測出来た。しかし、それでも私は自責の念に囚われ続けたまま、事務所の角にあるソファーに下を向いて座っていた。
 そして、私はおもむろにリュックサックからピース・ライトを出し、吸い始めた。煙草を吸う手は震えていた。
「あの、ここ一応、禁煙…」
 鈴木が私を注意するが、一ノ瀬は鈴木を太い腕で制して、無言で首を振った。
 ピース・ライトを、私は三本連続で吸った。一本二本では、精神安定剤としての役割を果たせなかった為である。これは、一種のオーバー・ドーズ。私は精神を病んでいたとしても、リストカットなどの自傷行為は一切しない、と決めている。しかし、私が今、自傷行為と同等の行為をしていることに、気付いてはいなかった。
 四本目を吸おうとしたところで、対面のソファーに鈴木と一ノ瀬が座りだした。俺たちにそろそろ話を聞かせろ、という様な圧力があった。その為、私は四本目を吸う事を諦め、これまでの出来事を話す事にした。ピース・ライトのオーバー・ドーズのお陰で、少し冷静に話すことが出来た。
 私は担当にお金を貢いでいた事。
 その間、私は母親から多額の借金をしていた事。
 担当が東京へ行ってしまった事。
 東京へ行く為の資金をまた母親に強請った事。
 その時、母親は私にお金を貸さなかった事。
 母親に裏切られた、と思った事。
 そして。
 実はずっと、私が母親を裏切り続けていた、という事。
 母親に関してのエピソードは、全部一ノ瀬らに話した。
「成る程…」
 一ノ瀬は顎髭を触りながら呟いた。
 鈴木は静かに私の話を聞いていたが、口をようやく開いた。
「貴方の母親が失踪したのは、貴方だけの責任ではありません、違法な金取りヤクザが一番の原因かと思われます、だから、貴方が全て責任を負う事はありません」
 鈴木は喫茶店では言葉を選んで、借金取り、と言っていたが、急に、違法な金取りヤクザ、と言った事に気が付いた。やはり鈴木も猫を被った女なんだ、と何故か安心した。
 鈴木の発言の後、一ノ瀬は急に立ち上がって、私にこう言った。
「俺たち一ノ瀬探偵事務所は、正式に依頼を受け、前金も依頼者から受け取っている、つまり、君の母親を捜索する義務がある、という事だ、安心してくれ、君の母親は俺たちが必ず見つける」
 一ノ瀬のその言葉一つ一つに、本気である、といったメッセージが込められているのが分かった。言霊、という言葉は良く聞くが、一ノ瀬の言葉には、必ず良い方向へ導く何かを、私は感じたのだった。
 一ノ瀬は、自分のデスクに移動し、日本地図を取り出した。そして、私の前にそれを広げた。よく見ると、日本地図には沢山の赤いバツ印が刻まれている。これは、一ノ瀬探偵事務所の実績の証だ、と思った。
 一ノ瀬は、そんな日本地図を指でなぞりながら、私に質問した。
「それで、捜索範囲なんだが…、『とおくへにげる』とメモには書いてあったね、遠くとは何処だ?君の母親が行きそうなところに、何か心当たりはあるかい?」
 とおくへにげる。逃げる。つまり、身を隠す。言葉を言い換えると、潜伏する。
 いや待て。
 潜伏…?
 それで私は思い出したのだ。『おじさん』との話を。
 私は脳を回転させる。大脳皮質から、曖昧であった記憶を取り出す。
 確か…。
 大阪市、西成区、ありいん地区。
 私は呟くように言った。
 その私の呟きに、一ノ瀬は反応して頷いた。
「うん、あいりん地区ね、成る程、そこなら潜伏するにはもってこいの場所かも知れない、ここから少し遠いしね、星の場所の一つかもしれない、でもな、そこを捜索するという事は、必ず危険が伴うんだ、分かるか?あそこは今でこそ少しずつ治安は良くなっているが、未だに無法地帯の様な地域もある」
 私と一ノ瀬の目が合った。そして、目を合わせたまま、私は咄嗟に言ったのだ。私も行く、捜索に協力させて欲しい、と。
 しかし、一ノ瀬の返事は、ノーであった。
「危険を伴うとさっき言っただろう、しかも今回のケースは事件性を伴う可能性だってあるんだ、俺たち探偵は、危険を掻い潜りながら、行方不明者を捜索する技術は持っていると自負している、しかし君は素人だ、技術がない、ここは、俺たちプロに全てを任せろ」 
 私は鈴木も見た。鈴木の意見はどうなんだ、という風に見た。しかし、鈴木も無言で首を横に振るのであった。
 私はその時、決意した。
 ならば、私一人でもいい。事件に巻き込まれたっていい。母親を探し出し、母親…いや、お母さんに、直接、今まで本当にごめんなさい、と言わなければならない、と。
 私は、一ノ瀬らを信頼していない訳ではない。逆に、必ず見つけてくれるだろう、という確信さえある。しかし、私がお母さんを見つけなければならない、という感情が生まれていた。自暴自棄の感情ではない。これは、一念発起の感情であった。
 探偵事務所には、ではお願いします、と言い残し、連絡先を交換し、その場を去った。
 帰り際、私は白の事を思い出した。しかし、白を危険な現場に連れていく事は出来ない。何かあった時、真っ先に狙われるのは、多分子供である白だ。家に置いていくのは心許ないが、私が『おじさん』から稼いだ十万円がある。その半分、五万円を白に残し、私の家で安全に生活して貰おう。五万円あれば、最低一、二ヶ月は過ごせるだろう。そう私は思った。
 これは、私にとって、苦渋の決断であった。白は、友達であるからだ。白は、唯一の私の理解者であるからだ。しかし、きっと白なら私の事を理解してくれる。待っててくれる。そう私は信じていた。
 私は玄関のドアを開け、ただいま、と言った。白が家に来てから、帰る時は「ただいま」と言う事が習慣になっていたからだ。しかし、白からの返事はない。いつもなら、「おかえり、おねーさん、気分はどう?」と返事をしてくれる筈なのに。もしかしたら寝てるのかな。私はそう思い、部屋に入った。
 しかし、部屋の中に、白の姿は無かった。
 郵便受けには、ZOZOTOWNで買った黒のスーツの不在通知表が挟まっていた。
 
 
 
 第四章
 
 まだ笑うことができる限り彼はまだ貧乏ではない。
 He's not poor yet as long as he can still laugh. - Alfred Hitchcock
 
 
 私は今、大阪駅行きの夜行バスに揺られていた。夜行バスの車内は、カーテンが全て閉められており、電気も消灯していた。言うなれば、夜行バスの車内は闇の中である。闇の中に居れば、あの時の蛾の様に、光を求めて死ぬ事はない。いや、私は別の意味の、夜行バスの車内よりもっと深い、闇の中へ突入する途中なのである。闇を求める事は、最終的に光を求める為だ。私は、道中の闇の中で死ぬ事すら、覚悟している。最終的に光を求めようが、闇を求めようが、その行動は全て、死に急ぐ事に直結する。この世の生物は全て死に向かっている事は小学生でも知っているが、小学生が死に急ぐと知っていながら、何かを求めようとする事は、ほぼ無いだろう。しかし、何故か大人になるにつれて、何かを求め、死に急ぐのだ。小学生と大人の思想の違いは、結果的に死ぬのが早いか、遅いかの些細な違いである。
 前に、私は光も闇も求める権利はない、と思っていた。しかし、私は今、光も闇も、同時に求めてしまっている。これを、成長と呼ぶのだろうか。私には判断出来ない。成長している事を決めるのは、客観的に見た他人のみだ。お母さん、私、成長しているかな?
 
 ✳︎
 
 私はいつの間にか、全面真っ白の空間にいた。そして、私の目の前で、私の前から消えたはずの白が笑っていた。
 私は、白!と呼びかけた。
 白は笑ったまま、こう言った。
「ほら、やっぱり、おかーさんはおねーさんを愛していたんだ、でも、それはね、おねーさんの希望なんだ、そうあって欲しい、という感情だ、本当のところは、おかーさんに聞かないと、分からない事なんだ」
 希望で何が悪い。私は、お母さんを、今、この時、愛している。愛している人間に、愛されていない、と考える方がおかしいじゃないか。
「でもさ、担当…さんだっけ、おねーさんは担当さんを愛していたんでしょ?」
 そうだ。過去、私は担当を愛していた。
「でも、裏切られたよね、自分を愛してくれている、と思う人に裏切られたよね」
 そうだ。私は担当に裏切られた。私を愛してくれていると思った。存在を肯定してくれていると思った。でも違った。事実、私を突き放したのだ。つまり、私を愛してくれてはいなかったのだ。
「前にも言ったよね?愛情イコール憎悪だって、おねーさんがおかーさんに抱いていた憎悪は愛情に変わり、おねーさんが担当さんに抱いていた愛情は憎悪に変わった」
 そうだ。その通りだ。理解している。それがどうした。
「僕がもう一つ、言ったこと、覚えてる?」
 愛情も、憎悪も、人を盲目にさせる。
「そう、盲目って意味、ちゃんと知ってる?」
 目が見えなくなる事、つまり、分別が付かない状態になる事だ。それくらいは知っている。
「分別が付かない、じゃあ、盲目の状態では無い時、つまり通常状態の時、おねーさんは普段、何を分別しているのかな?」
 何を分別?分からない。私は普段、何を分けているのだ。分ける事柄を考える。人種差別、障害差別、男女差別。いや、私はどれも分けて考えたりはしていない。
「ぶっぶー、時間切れだね、おねーさん、正解はね」
 
 ✳︎
 
「大阪駅、大阪駅到着です」
 私は運転手のアナウンスで目が覚めた。知らぬ間に寝ていたのだ。しかし、先程の夢は何だったのだ。私は、夢の内容を鮮明に覚えていた。白は私に何を伝えたかったのだろう。私は何を分けて考えていたのだろう。いや、そもそも白は何処に行ってしまったのだろう。
「あのー、お客さん、終点だよ、降りないのかい?」
 私は、あっ、すみません、と言いながら、荷物をまとめてバスを出た。
 大阪駅から、あいりん地区最寄りの新今宮駅までは、JR大阪環状線で一本である。私は徐々に、闇への階段を一段一段登っているのだ。
 今なら引き返せる。
 元の生活に戻れる。
 引き返す?[#「?」は縦中横]
 戻る?
 私は馬鹿馬鹿しくて笑った。
 そう、私はお母さんを探しに来たのだ。お母さんを見つけるまでは、帰らない。そう誓ったのではないか。決心したのではないか。
 私は意気込んでJRに乗り込む。闇への階段をまた一段、登った。
 
 ✳︎
 
 新今宮駅までは、二十分程で到着した。この南側が、あいりん地区。お母さんがいるかも知れない場所。意を決して、私はあいりん地区に踏み込んだ。
 しかし、あいりん地区は、私の予想とは違った。高架下には飲食店はあるし、少し歩くと、一泊千円ではあるが、中々モダンなホテルもある。しかも、人通りは予想以上に多く、大きなリュックサックを背負ったバックパッカーらしき男の人もいた。
 何だ、何が危険な場所だ。犯罪者の潜伏場所?笑えてくる。こんな場所にいたところで、すぐに見つかるに決まっているじゃないか。そう思い、私は公園を見つけ、ベンチに腰掛けた。長旅で少し疲れたのだ。ふー、と息を吐き、少し目を瞑った。
 数分間、目を瞑っていると、誰かに肩を叩かれたので、目を開けて確認した。肩を叩いた人物は、黒い帽子を被り、もう数ヶ月洗っていないだろうと思われるヨレヨレの白いシャツを着て、黒の作業着の下だけを履いている、そんな格好をした男であった。
「ハハッ、若いねえちゃんよぅ、そんなところで寝たら、バックの中身、全部取られるぜ」
 わざわざ私に忠告しに来てくれたのか。しかし、ホームレスの人間には間違いない。私に話しかけたのは、何か目的があるはずだ。そう疑念を持ちながら、とりあえず私は、ありがとうございます、と礼を言った。すると、男は手のひらを上に向け、私の前に差し出した。何だろう、と思った。
「注意代だよ、百円だ」
 注意代?なんだそれ。やはり、私に声をかけたのは、お金目的だったのだ。ホームレスの連中は、こんな人間ばかりなのだろうか。こんな性根が曲がったホームレスのいるところに、お母さんがいるはずがない。お母さんはこんなホームレスの事を信用し、身を置くはずがない。お母さんは、もっと謙虚なのである。こんなところに居ても、無駄なだけだ。
 そう思い、私はベンチから立ち上がり、そそくさと男から逃げるように歩いた。
 ホームレスの男は、私を追いかける様に近寄り、呼び止めた。
「おい、おいおいおい、ねえちゃん、嘘だよ、嘘、今時の若い子はジョークってのを知らねぇから困るんだ、ハハッ」
 私は男を睨んだ。この男の笑う基準が分からない。
 男は動じずに、話を続けた。
「ねえちゃん、あんたさぁ、観光客…、って訳じゃあねぇよなぁ、冷やかしで俺たちホームレスを見とこうぜ、みたいな感じじゃあねぇ、どっから逃げてきたんだ?それとも…、もしかして、やったのか?」
 やった、の意味を理解するのに数秒かかったが、恐らく犯罪、その中でも殺人、ということだろう。私がそんな風に見えるのか。少し腹が立ったが、私は、今人を探している最中です、と丁寧に答えた。
「ハハッ、人探しかい、いいね、ねえちゃん」
 私には何がいいのかさっぱり分からない。私はなるべく上品に、そうなんです、と答えた。私はお前ら性根の曲がったホームレスとは違うのだ。私も貧乏だが、性根の曲がったホームレスの人間達が持ち合わせていないものを、私は持っている。それは、愛情と、覚悟である。やはり、この様な人間とは相入れない。そう思った。
 その私な思考が伝わったのか、男は笑いながら、細い目で私の顔を見てこう言った。
「その反抗的なツラァ、やっぱりねえちゃんはいい、俺たちとは違う、探している人とも違う、お前らなんかと一緒にするな、ってツラァしてるぜ、俺にはぜぇーんぶお見通しだ、でもな、ねえちゃんが持っていないが、俺たちだからこそ持っているものもあるんだぜぇ、ハハッ」
 私が持たず、ホームレスの男が持っているもの?数秒考えたが、分からない。初めて突入した世界の事など、何も知らない。しかも、相手は、若い女にまでお金をもぎ取ろうとしたホームレスだ。ジョークと男は言ったが、それが本当にジョークなのか、本心なのか、私にはまだ理解出来ずにいた。そんな人間の思考など、私には想像する事すら出来ないでいた。いや、想像するのも無駄である。そう思った。私は、分かりません、それは何ですか、と男に一応質問を投げかけた。
 男はニヤついた顔を止めないまま、私の質問に答えた。
「ねえちゃんだから特別に教えてやろう、それはなぁ、明日も必ず生きるっていう欲だよ、生存欲っていうやつだ、ねえちゃん、多分きっと、こんな危険だ、なんて言われている場所まで人探しに来てるんだ、きっとよぅ、死ぬ覚悟、なんてもん持ってんだろ、ハハッ、この街にそんな覚悟持ってる奴はいねぇよ」
 その言葉と笑い声で、私の覚悟を踏み躙られた感覚がして、不快感を感じた。
 そんな私の気持ちなど関係無しに、男は話を続けた。
「俺たちはなぁ、今日を生きるのが精一杯なんだ、だから、実は明日なんて来ないかもしれねぇ、でもなぁ、明日を生きる欲がねぇ奴にゃあ、この街では本当に死んでいくんだぜぇ、ここはそんな街なんだよ、だから、明日も生きる欲ってのが必要だ、この街ではなぁ」
 若干不快感は残るが、この男の言う事は一理ある、そう私は思ってしまった。実際、私には生きる欲など無かった。この危険と呼ばれているあいりん地区で、死ぬ事も覚悟していた。しかし、この街の人間は、皆、今日、明日、生きることを望んでる。明日になれば、明日、明後日、生きることを望んでいる。そのループで何年もこの街で生きているのだろう。そういう生き方もあるのだ、とこのホームレスの男に気付かされた。若干私の心の中には、このホームレスの男を下に見ている感情は残っていたが、元々持っていたイメージよりも、今は多少なりプラスになっていた。
 貴重な意見、ありがとうございます、と私は男に言った。
 そして、男のニヤついた顔が、本物の笑い顔になり、私の感謝の言葉にこう反応した。
「ハハッ、人に褒められるなんて何年振りだぁ、闇麻雀で大勝ちした時以来だぜぇ、気分がいい、そうだねえちゃん、人探ししてるんだろ?それなら俺が手伝ってやるよ、久しぶりに、しかもタダで若いねえちゃんと話せた礼だ」
 手伝ってくれる?このホームレスの男が?少し嫌悪感は残っているし、信用は出来ない。しかし、現地の事を知り尽くしている協力者がいる事に越した事はない。
 私は、ありがとうございます、と言って頭を下げた。闇麻雀の事は無視をした。
 男は、私の感謝の意に対して、そんなのいいって、という風に手を払っていた。
 男は、あぁ、と呟きながら、何かに気付いた様子で私に言った。
「そうだねえちゃん…、まずはなぁ…、ちょっと待ってろ…」
 男はブルーシートで作られたテントの中へ入っていった。そこが男の家なのだろうか。私は律儀に言われた通りそこで待った。そして二分後、男は出てきた。
「ほら、簡易住居、ドヤ街バージョン、初心者制作セットだ、これやるよ」
 男から貰ったのは、ブルーシートと段ボールとナイフであった。これで家を作れというのか。いや、そもそも私はこの公園に住む気は更々無かった。見かけた格安ホテルにでも泊まる予定だった。しかし、どうせお母さん探しの為にこの公園に集まるんだ、ここに少し居てもいいのではないか、そう思った。
 でも、私の住居は後でいい。まずはお母さん探しの準備をしなくては。そう思って、ナイフはリュックサックに仕舞い、段ボールとブルーシートは、私の簡易住居の建設予定地に置くことにした。
 私は男の元へ戻り、捜索に必要な母親の情報を伝えようとした瞬間、男は何か閃いたような表情を浮かべて、こう言った。
「そうだ、一応伝えるんだが、この地区の中でもこの公園内は特殊でなぁ、本当に身分を隠したい奴、人をやりそうになって逃げてる奴、そんな奴らが特に集まってるんだ、だから、俺たちはこの公園に住んでいる奴らの本名を知らねぇ、素性も、出身も、犯した犯罪の詳細も、何も知らねぇ、金欲しさにチクられたら困るからなぁ、だからなぁ、ねえちゃんもこの公園に通うっていうなら、あだ名を付けなきゃいけねぇんだ、俺たちは勝手にドヤ街ネーム、って言ってるがな、ハハッ、ちなみに、俺のドヤ街ネームは『半兵衛』だ」
 ドヤ街ネームというセンスの無さと、半兵衛という謎のあだ名に笑いそうになったが、確かに身分を隠して捜索出来ることにメリットはあった。私がお母さんを追っているということが分かりづらいことである。もし、私がお母さんを追っていると気付かれたら、お母さんは必ず場所を移動してしまうはずである。他人に迷惑をかけたくない、心配されたくない、お母さんはそんな性格であるからだ。
 半兵衛はまたニヤニヤしている。私のドヤ街ネームで笑おうとしてるのだ。それを今日の酒のつまみにしようとしているのだ。絶対そうだ。
「どうだぃ、ドヤ街ネーム、決まったかぃ、ハハッ、いやぁすまねえ、さあ、ねえちゃんの名は、何だ?」
 私は、完全に無意識だった。何も考えていなかった。
 その時、咄嗟に出た名前が、白、白です、と半兵衛に言ったのだ。
「ふーん、白ねぇ…何色にも染まっちゃう色だ、いいね、ねえちゃん、ねえちゃんにピッタリかもしれねぇ、いや、白ちゃん」
 何故、半兵衛に白と名乗ったのか分からない。私は白ではないのだから。白は、白だ。私の友達、白だ。
 そこで、私は急な頭痛に襲われた。そして、甲高い男の子の声が、聞こえた。
「白は、おねーさんだ、おねーさんは、白なんだよ」
 白は、私?
 白は…。
 白は、私ではない。
 白は、私の友達だ。
 白は、私の唯一の理解者だ。
 白は、白なのだ。
 そうして、私はその場に倒れてしまった。
 すぐに半兵衛が近寄った。
「おぃ、どうした!ねえ…じゃねえ、白ちゃん、白ちゃん!死ぬんじゃねえぞ!明日も生きる!欲を持て!白ちゃん!」
 そうだ、私は、明日も生きるのだ。使命があるのだ。それを叶えるまで、死ねるもんか。
 そんな事を考えている内に、無常にも、私の意識は、飛んだ。
 
 ✳︎
 
 また私は白い空間にいた。同じように、白は笑って私を見ていた。そしてこう言った。
「おねーさん、僕はね、白だよ」
 それは知っている。君は白だ。
「おねーさん、君も、白だよ」
 私のドヤ街ネームは白だ。白の言う通りだ。私はその時無意識に発言したが、私は白になったのだ。
「うーん、おねーさん、本質が違うよ」
 本質?
 何の本質?
「分からない?じゃあ、別の言葉、そうだね、根本的に認識が間違っているんだ」
 認識が間違っている?
 私は何を何と認識している?
「うーん、まあ、いいや、おねーさんは理解するのが人より少し遅いからね、いずれおねーさんが分かる時が必ず来る、それまで僕は気長に待つことにするよ」
 いずれ分かる?
 何が分かるというのだ?
 白は笑っていた。
 そして、白は何かを考えている、いや、思い出している様に、頭に白い手を添え、左上の方向を見ながら、こう言った。
「えーと、何だっけ、別れの挨拶、こういう時って、格好良く去った方が、男らしいよね、この気持ち、分かる?おねーさん」
 別れの挨拶?
 白ともう会えないという事?
 白は、私の友達だ。
 白は、私の唯一の理解者だ。
 もう、白を手放せない。
 私は必死に手を伸ばした。
 しかし、白には届かない。
「そうだ、別れの挨拶の言葉、思い出したよ、やっと思い出せたよ、だってさあ、おねーさんが曖昧に覚えてるんだもん、僕が簡単に思い出せるはずがないよね」
 白は手を合わせ、目を見開き、私を見た。
「心配しないで、おねーさん、僕とおねーさんは、友達だからね、また必ず会う時が来るよ、必ずね」
 私は白がいるから、私がいるんだ。
 白がいないなら、私もいなくなる。
 そう決めたではないか。
 でも、白は言った。
 必ず会う、と。
 白に会う日まで、また私は生きよう。
 そう私は決意したのだった。
 白は私に向かって手を振った。
「それじゃ、おねーさん、アドゥー」
 
 ✳︎
 
 目を開けると、視界は真っ青であった。これは何だ?と、思ったが、すぐに分かった。この青色はブルーシートの色だ。そして、周りから「おおー」という歓声が聞こえた。
「白ちゃん、無事か?」
 半兵衛の声であった。他にも、「生きてるべ、神に感謝を」と言って数珠を擦る男や、「えがった、えがった」と言っている男も見えた。
 ああ、私は生きているのだ。
 生きていて良かった。
 これで明日も生きる事が出来る。
 私はいつの間にか、生に対する欲求が生まれたのだ、という事に気付いたのだった。それは、半兵衛の言葉のお陰であり、お母さんからの愛情のお陰であり、白に会いたいという欲望のお陰であった。
 半兵衛は大きく息を吐いた。
「いやぁ、良かった良かった、人間が死ぬ姿は何度となく見てるがなぁ、こんな若いねえ…白ちゃんが死ぬところなんて見たくねぇもんなぁ、ハハッ」
 私は起き上がった。身体には毛布がかけられていたことに今気付いた。そうか、私は半兵衛たちに助けられたのだ、守られていたのだ、と理解した。
 やはり、人間は外見で判断してはいけない、そう改めて気付かされた。ホームレスだからといって、皆が危険であるという訳ではないのだ。『おじさん』の言っていた通り、人間の本質は、無意識の中の概念なのである。この人たちは、犯罪を犯しているかも知れない。何かから逃げているのかもしれない。しかし、この人たちは、無意識の中に肯定的な側面を有しているのだ。簡単に言えば、内面的な核に、優しさ、を持っているのだ。その優しさ故、犯罪を犯したり、何かから逃げざるを得ない状況になったのだ。きっとそうに違いない。私のお母さんも、そうだ。私に対する優しさ故、逃げざるを得ない状況になってしまったのだ。だから、私はお母さんを助ける義務がある。探偵の一ノ瀬は「前金を依頼者から貰っているから、母親を探す義務がある」と言っていたが、私の場合は金銭による契約で発生した義務ではない。自分の犯した行動によって生まれた義務だ。その義務を『責任』と呼ぶのだ。
 半兵衛たち男三人はワンカップを開けて「今日は祝い酒だ」と言いながら飲んでいた。私が目覚めた事による祝いだとしたら、まず初めに私にお酒を飲ませるべきなのではないのか。そう思ったが、言わない事にした。
 半兵衛たちはお酒を飲んで酔っているので、この男たちはもう使い物にならないだろう。お母さんの捜索は、明日から本格的に再開しよう。そう思い、私はブルーシートのテントの中で一夜を過ごした。

 ✳︎
 
 私が目を覚ました時、もう周りには人はいなかった。ブルーシートのテントの中は熱がこもり、更には毛布も身体にかけていたので、私は大量の汗をかいていた。私は新陳代謝が良すぎるせいで、少し動いただけでもすぐに汗をかく。私はこの体質が嫌いだし、何より汗をすぐかく夏が嫌いであった。花火大会や夏祭りなどの夏のイベントなど、一回も行った事はないし、行きたいとも思わない。行ったところで、周りには高校生が仲間とたむろしている姿や、男女が浴衣を着て手を繋いでいる姿を見ると、結局私は一人なのだ、という思考に至り、すぐに帰りたくなるに決まっている。結論が既に見えている事をするのは、完全に無駄な時間の消費の仕方である。結論が見えない事こそ、何の結果が生まれるのだろう、という期待が持てて面白いのだ。
 私はブルーシートのテントから出た。すると、半兵衛や他のホームレスたちが、大量のアルミ缶が入った、五十リットルはあると思われる大きな袋を抱えて、公園に帰ってきた時であった。
 半兵衛が「よう、よく眠れたかい、白ちゃん」と言うので、私は大きく頷いた。それよりも、私はそのアルミ缶を集めてどうするつもりであろう、と思った。私はその事を率直に質問した。
「白ちゃん、知らねぇのかい、あらら、やっぱり若い女の子は無知だし、ジョークも知らねぇっていうんだ、これも時代の流れかねぇ」
 私は全ての原因を『時代のせい』にするのが物凄く嫌いであった。昔は良かったのに、とか、昔はこれが普通で、とか、昔と今を比べようとする姿勢がそもそも嫌いなのだ。時代は移り変わるものなのだ。その様な事を言う人間は、ただ時代に追いつけなくなっただけなのではないのか。それを時代のせいにするのは、責任転嫁であり、自分は今を生きれません、と堂々と表明している事と同じではないのか。
 私が少し険悪な表情を見せると、半兵衛は焦った様子で、私にこう言った。
「ハハッ、いや、ジョークの一環だよ、ジョーク、そう怒るなや、まぁそりゃ、今時の女の子からしたら、ただのゴミ拾いのボランティアしてるみてぇに見えるよな」
 半兵衛は多分内面的には優しい人間なんだと思う。しかし、ジョークのセンスはかなり悪い、と思った。人を不快にさせるジョークはジョークではない、ただの不快な悪口である。
 半兵衛は、やっと手に持っているアルミ缶の説明をした。
「白ちゃん、これはなぁ、お金になるんだよ、一キロあたり、百五十円、安いだろう?でもな、俺たちにはそれっぽっちのお金すら、渇望するって訳だ、ハハッ、白ちゃんはどう思うかは分からねぇが、これは俺たちからしたら、立派な仕事だ」
 成る程、アルミ缶を回収し、それを業者に売るっていう訳か。しかし、ホームレスでも仕事、いやお金稼ぎはちゃんと行うんだな、と思った。よく考えれば、ホームレスだって食べていかなければ生きていけないのだ。無料で食料を手に入れるにも、限界はある。半兵衛たちも、一日を生きる為にちゃんと活動しているのだな、と思った。しかし、ふと昨日のワンカップを飲んでいる半兵衛たちの姿を思い出し、お酒を飲むなら食料を買った方が良いのではないか。と思ったが、口には出さなかった。
 過去を思い出すと、実際、私も同じであった。食料や家賃を最低まで抑え、余ったお金は担当に貢ぐ。担当に貢がなければ、生活水準を上げられたはずだ。しかし、それをしなかったのは、担当への愛情によるものであった。これは、他人には言えない感情なのだ。多分、半兵衛たちも、路上生活ではなく、古いが家賃は安いアパートか共同住宅に住もうと思えば住めるはず。しかし、それをしないのは、私と同じく、他人には言えない何かを必ず抱えているはずなのだ。だから、ドヤ街ネーム、なるものを使っているのだろう。半兵衛は「チクられたら困る」と言っていたが、本当は、ただ自分の抱えている何かを、他人に知られたくないからなのだ。私はそう推測した。
 半兵衛は少し悩んでいた様子で、腕組みをしながら、私にこう言った。
「そうだ白ちゃん、人探しの件なんだがなぁ…、一応朝に皆に声かけたんだが…、結局集まらなかった、わりぃな」
 半兵衛は私の為に、人を集めようとしてくれたのか。私の為に。久しぶりに、他人の本心の優しさに触れた気がした。私は半兵衛に、ありがとうございます、と何度も言った。
 半兵衛は手を払うような動作をした。これは、私に二回目の動作だ。
「俺はこれから、こいつを換金に出してくる、白ちゃんの人探しはそれからだ、そうだなぁ、今のうちに一応、名前と顔を教えてくれ」
 私は半兵衛に、お母さんの名前と、スマートフォンで私と撮った唯一のツーショット写真を見せた。
「へぇ…お袋探しって訳かい、おもしれぇ」
 半兵衛はすぐに事情を把握した。地頭は良いのであろう。そして、何故、という風な理由については聞かなかった。そういったところが、この事情の多い公園に住む人間ならではだな、と思った。しかし、やっぱり半兵衛の面白いの基準は、相変わらずズレている。
「それじゃ、お袋探し、頑張ろうぜぇ、じゃーじゃじゃじゃーじゃーじゃじゃじゃじゃ、れっつごー」
 半兵衛が急に歌い出したが、私には身の覚えの無い曲であった。私は何ですかその曲、と半兵衛に聞いた。
「ルーターズだよ、ルーターズ、あぁ、やっぱり若い女の子は知らねぇよなぁ、時代だ、時代」
 私はまた険悪な表情をした。
 そして半兵衛は笑って言った。
「ハハッ、白ちゃん、今のは狙った、揶揄だ」
 
 ✳︎
 
 私と半兵衛がお母さんを探してから、五日が経った。私は捜索初日にコンビニへ行き、スマートフォンに入っていたお母さんの写真を二枚プリントアウトした。その内一枚を半兵衛に渡し、各々お母さんの捜索に出かけたのであった。私は主に比較的安全だと思われる宿泊施設や飲食店を巡った。これは、半兵衛の気遣いでもあった。私を危険な目に合わせたくなかったのだろう。それに反して、半兵衛は主にホームレスや、自称『あいりん地区の情報屋』と呼ばれる人物にも声をかけてくれていたらしい。これは捜索後の半兵衛との情報共有をしている時に分かったのだが、半兵衛はこのあいりん地区の中でも有名な人物であり、顔が広かったのだ。半兵衛は「別に知り合いが多い事は、正直正体がバレる可能性が高まるから好きじゃねえんだが、こんなところでそれが役立つとはなぁ」と言っていた。半兵衛の交友関係の広さの理由は、私にも何となくであるが理解出来た。私は半兵衛に、一番ビックな知り合いは誰ですか、と聞いてみたところ、「クリストファー・ロビンだよ、ハハッ」と答えた。これまで聞いた半兵衛のジョークの中では、マシなジョークであった。
 私も、半兵衛も、このあいりん地区の中では出来る事は全てやったつもりであった。しかし、この五日間、私と半兵衛どちらとも、お母さんの手掛かりも、目撃情報も、手に入れる事は出来なかった。
 五日目の夜、日課となった半兵衛との情報共有の時間であった。半兵衛は、うーん、と悩みながら、私にこう言った。
「白ちゃんよぅ、この五日、俺たちゃ最大限の手を尽くした、でも白ちゃんのお袋の情報は一切ねぇ、こんな事を言うのは酷だが…、この地区には、多分だが、白ちゃんのお袋はいねぇ、俺はそう思うぜぇ」
 確かにその通りだと思った。一つでも目撃情報があれば、お母さんがこの場所にいた可能性はあるが、それも一切無い。確かに『おじさん』の言っていた通り、この地区には逃げ隠れして生活している人間は多い。その事は、お母さんを捜索している時に分かった。だが他にも、そういった地域は必ずあるはずだ。しかし、私はそういった情報は知らない。私はダメ元で半兵衛に、他に行方不明の人が行きそうな地域はありますか、と尋ねた。
 すると、半兵衛は悩まず答えた。
「日本だったら大阪が一番ホームレスの数は多いはずだぁ、でも白ちゃんの母親は『遠くに行く』って言ってたんだろ?もしかしたらだが、海外に行ってる可能性も無くはねぇ、例えば、輸送船に乗り込んで密出国、なんて事も考えられる、でもなぁ、リスクは高いし、海外の方がホームレスに対しての迫害っちゅーのは物凄いんだ、だからそれを知ってりゃ無理して海外逃亡なんてしねぇが、多分白ちゃんのお袋さんはそんな知識はねぇだろうよ、ま、可能性の話だかな」
 海外に逃げた。確かにその可能性は無くもない。しかし、海外まで手を広げた場合、どれだけ時間を費やしても、お母さんを見つけることは不可能に近いだろう。
 この先私はどうしたら良い。
 どうしたらお母さんを見つけられる。
 どうやったら。
 ねえ、白。
 教えて、白。
 ねぇ、近くにいるんでしょ、白。
 出てきてさ、また私に教えてよ。
 私がお母さんへの気持ちを思い出した時みたいに。
 私にヒントを頂戴よ。
 ねえ、白…。
「おい白ちゃん、どうしたんだ、何下向いてぶつぶつ喋ってんだぁ、大丈夫か?疲れてんなら、一日休みでも取るかい?」
 半兵衛の声で私は顔を上げた。
 いや、休んでなど居られない。私は覚悟を決めたのだから。私は半兵衛に、いや、明日も探します、だから手伝ってください、と頭を下げた。
 半兵衛は手を払い、私にこう言った。
「いや、探すのは手伝う、そう白ちゃんと約束したからなぁ、でも、何事も少しのリフレッシュっていうのは必要だ、どうだい白ちゃん、俺のツテでタダでコーヒーが飲める所があるんだ、是非、一緒に行かねえかい?」
 確かに、リフレッシュは必要かもしれない。コーヒーか、その言葉を聞いた時、無性にコーヒーを飲みたくなった。しかし、タダ、という言葉が気になった。違法に格安で輸入したコーヒー豆でも使ってるのではないか。そう思ったが、半兵衛が、是非、と言ってくれているのだ。行かない訳にはいかないだろう。
 私は半兵衛に、そんな場所あるんですか、行きたいです、と言った。
 半兵衛はニヤニヤしながら、こう言った。
「まあ、ビルの一角にある『喫茶マーガレット』っていう所なんだけどなぁ、俺たちホームレスが知る人ぞ知る、穴場だ、白ちゃん、携帯で調べてみろ、絶対検索に引っかからないからなぁ、ハハッ」
 私は持っていたスマートフォンを取り出し、『喫茶マーガレット』と調べてみようとした。しかし、電源が付かない。多分、充電が切れたのだろう。スマートフォンを最後に触ったのが、お母さんの写真をプリントアウトする時だ。それ以来使ってない。という事は、五日間もスマートフォンの充電がゼロパーセントだったのだ。もしかしたら、誰かから連絡が来ているかもしれない。いや、そんな事はないだろう。私の連絡先を知っている人など数知れている。しかも、わざわざ私に連絡する用事など無いだろう。そう、楽観視していた。
 私のスマートフォンの充電が無い事を知った半兵衛は、私にこう言った。
「携帯の充電が無いのかぃ、それじゃ、携帯でどエロいビデオも見れねぇな、ハハッ」
 私はこれまでの半兵衛のジョークの中で、一番最低だと思った。
 
 ✳︎
 
 喫茶マーガレットは、人通りが全くない通りにある、ビルの二階にあった。多分、廃ビルなのだろう。廃ビルを使い、格安でコーヒーを出して稼ぎを得ている、という訳か。ホームレスも生活する為に色々考えているのだろう。
 半兵衛は『きっ茶マーガレット』と書かれた紙が貼ってあるドアを開け、入るや否や、こう大声で叫んだ。
「マーガレット!いるかい!今日も一杯、よろしく頼むよ!」
 そう半兵衛が叫ぶと、暗い部屋の隅でパイプ椅子に座ったエプロン姿の老婆が立ち上がり、こちらに近寄ってきた。
「そんな大きな声出さなくても聞こえるよ、まだ耳は聞こえるよ、半兵衛…、おや、その女の子は誰だい?新入りかい?」
 私は、はじめまして、と言ってマーガレットと呼ばれる老婆に頭を下げた。多分、マーガレット、というのはドヤ街ネームだろう。
 半兵衛が言葉を続けた。
「この若いねえちゃんは、白、白ちゃんっていうんだ、色々あってなぁ、今一緒にいるって訳だ、マーガレット、白ちゃんにもコーヒー頼むよ、あ、あと電気貸してくれ、白ちゃんの携帯の充電がねぇんだ」
 マーガレットは、はいよ、と言って私に手のひらを上にし、私の前に差し出した。
「コーヒーは無料だよ、でも電気代は、五百万円だ」
 デジャヴだ。この街の人間は皆こうなのか。しかし、一回経験した事があるジョークであったので、私は冷静に愛想笑いする事が出来た。
 その反面、私の隣で半兵衛が大爆笑していた。
「そりゃねぇぜマーガレット、ハハッ、ハハハハハッ、白ちゃん、ジョークだジョーク、好きに使いな」
 やはりこの街の人間とは馬が合わなそうだ。そう確信した。
 私はコンセントに、持っていたリュックサックの中から充電器を取り出し、スマートフォンに充電を始めた。すると、画面がついたと同時に、大量の着信履歴が表示された。それは、一ノ瀬からであった。一番最近で三十分前、一番初めは三日前から、計二十三件、一ノ瀬からの着信があったのだ。私は急いで、一ノ瀬に電話をかけた。すると、一ノ瀬はワンコールで電話に出た。
 私が、もしもし、と言うと、一ノ瀬は怒った声で話し始めた。
「もしもしじゃないだろう!心配したんだ!君も行方不明になったと思ったんだ!何をしていた!いや、今どこにいた!」
 私は少し言う事を躊躇したが、本当の事を一ノ瀬に言った。お母さんを探しに、今あいりん地区にいる事。半兵衛という男が捜索に協力してくれている事。そして、五日間捜索したが、手掛かりは何もなかった事。
 一ノ瀬は、私の言葉を聞いて、はぁ、と溜息を付いた。そして私にこう言った。
「まぁ…そうだと思ったよ、でも俺は危険を伴う、と言ったはずた、いや…、君はそれを覚悟の上で行ったんだろう、母親を捜索するのは君の自由だ、俺たちに止める権利も、契約もないからな、先程は少し俺も感情的になってしまったが…、いや、それはすまなかった、だが、その行動で他人に迷惑や心配をかけてはいけない、次からはすぐに電話に出れる様な環境にする事、分かったね?」
 私は一ノ瀬に、はい、すみませんでした、とその場に一ノ瀬がいないにも関わらず、頭を下げて謝った。他人に心配をかけてはいけない、その言葉でお母さんを思い出した。お母さんが、私が他人に迷惑をかけた、と知ったら、きっと怒るだろう。叱るだろう。それは憎悪による怒りではなく、愛情の怒りだ。
 一ノ瀬は言葉を続けた。
「分かってくれたら良かった、うん、良かった、そうだ、実はな、こんなに君に電話をかけたのは、君が心配だった事もあるんだが…、本来は違う、君に伝えなければならない事があったからだ」
 伝えなければならない事?もしかして、お母さんの手掛かりが見つかった?私は少し期待をした。しかし、その期待はすぐに壊れる事になった。
「実はな、依頼者…菊池日奈子から、週一回の調査料の支払いがされてなかった、そして、菊池日奈子本人から、捜索を打ち切るように、と俺たちのパソコンにメールが届いたんだ」
 え?と咄嗟に私から言葉が生まれた。
 菊池おばさんが、あの優しい菊池おばさんが、お母さんの捜索をキャンセルした?何故?何の為?
「詳しい事は直接話したい、出来れば早い方がいい、明日こちらへ戻り、事務所に来てくれないか?」
 私は、はい、分かりました、と即答した。
 半兵衛が遠くから私を呼んだ。
「白ちゃん、コーヒーが冷めるぜぇ」
 
 
 
 第五章
 
 100万の言葉ではあなたを呼び戻せない。もう試したから知ってる。100万の涙でもあなたを呼び戻せない。もう泣いたから知ってる。
 A million words would not bring you back, I know because I tried, neither would a million tears, I know because I cried. - Unknown
 
 
 私は朝早く、早足で、一ノ瀬探偵事務所へと向かっていた。実を言うと、大阪を離れたくはなかった。たかが五日間にしか満たない時間ではあったが、久し振りに人の優しさに触れた時間であったからだ。半兵衛に、私は帰らなければならなくなった、と伝えると、「そうかい、白ちゃん、俺は白ちゃんと話せて楽しかったぜぇ、今度は余裕が出来たら一緒に酒でも飲もうぜぇ、勿論、白ちゃんの奢りだ、若い女とドンペリでも飲みてぇな、ハハッ」とお得意の面白くないジョークを交えながら言った。しかし、私は初めて半兵衛のジョークで笑い、分かりました、それまで死なないで下さいね、と返事をした。半兵衛は大爆笑していた。
 私は一ノ瀬探偵事務所の前に到着した。一応、一ノ瀬には電話上では謝り、何とか許してもらえたが、一番気にかかるのは、鈴木の反応である。あの性格からして「何で大阪に行ったんですか、命を落とす可能性だってあったんですよ、大人として、社会のマナーと常識を守ってーーー」と言ってくるに違いない。そもそも、私は大人だが、マナーと常識は理不尽だ、と思っている中学二年生の様な思考の持ち主だ。煙草の煙を肺に入れず、口に入れて煙を吹かしただけで気分が高揚している中学生を度々見かける事はあるが、私はそれと同レベルだ。違うのは、社会のルールに不満を持つ、もしくはそれに反する行動をする事で、気分が高揚するか、低迷するか、という些細な事であった。
 私は一ノ瀬探偵事務所のドアを開けた。少し、ゆっくりと、慎重に開けた。私が、お邪魔します、と言ったその瞬間、鈴木は私を見るや否や、私に向かって全力で走り、私を抱きしめた。そして、小さく鈴木が呟いた。
「本当に、貴方は馬鹿ですね」
 私が白に言った言葉と同じだ。『馬鹿』という言葉に、全ての感情を集約したのだ。私は鈴木に、私は馬鹿でした、ごめんなさい、と小さく呟いた。鈴木は私を抱きしめるのを止め、私の目を見てこう言った。
「やっぱり、一発殴ってもいいですか」
 私は流石に、それを拒否をした。
 一ノ瀬の方を見ると、一ノ瀬は頬杖をつきながら、パソコンに向かって「うーん…」と唸っていた。多分、菊池おばさんからのメールを何度もチェックし、お母さんの捜索を菊池おばさんが取り消した、という原因を考えているのだろう。私は一ノ瀬のもとへ向かい、今回は本当にすみませんでした、と改めて謝罪した。すると、一ノ瀬は「あ、ああ…来たのか、今気付いたよ、別に大丈夫だよ、うん」と言った。鈴木の全力ダッシュの足音で私の存在に気付かなかったのだから、余程集中していたんだろう。
 一ノ瀬は私を手招きし、私にパソコンの画面を見せながら、こう言った。
「ちょっと君に見て欲しい、まずこのメールを見てくれ」
 一ノ瀬が私に見せたのは、一番最初、つまりお母さんの捜索を依頼する件についてのメールであった。
 
 件名:御依頼の件
 
 私、菊池日奈子と申します。
 この近辺に探偵事務所があると、インターネットで御拝見させて頂き、メールさせて頂きました。突然で申し訳ありません。
 御依頼したい件なのですが、行方不明者の捜索です。詳細は直接話したいと思いますので、御予定が合う日にちと時間を指定して頂けると幸いです。
 御検討の程、宜しくお願い致します。
 
 菊池日奈子
 
 私がこのメールを一通り読んだ後、一ノ瀬は「次は、このメールだ」と言って、違うメールを見せてきた。これは、菊池おばさんがお母さんの捜索を取り消す為に送ったメールだ。
 
 件名:non title
 
 今回のご依頼の件でご連絡させて頂きました。突然ですが、今回のご依頼はキャンセルという事で、よろしくお願いします。
 
 iPhoneから送信

 私がこのメールを一通り読んだ後、一ノ瀬は私にこう言った。
「最初の依頼を俺たちに頼んだメールと、依頼のキャンセルのメールを比べると、件名も無い、改行もしていない、『御連絡』が『ご連絡』に変わった、メールの最後に名前を書いていない、他にも沢山違いがある」
 確かに。普通に考えると、依頼をキャンセルするメールこそ、件名を付け、『申し訳無いのですが』などと文章に付け加える筈である。それが、私の嫌いな常識というやつだ。
 一ノ瀬は言葉を続けた。
「俺たちは菊池日奈子とも会ったが、マナーが良い女性という印象を持った、最初のメールにもその印象が現れていた、しかし、このキャンセルのメールには、その印象は一切見受けられない」
 菊池おばさんは、優しい人間であった。合鍵を使い勝手に私たちの家に入る事はあるが、そういった場合は必ずメモを残すような、マメな人間だ。捜索のキャンセルを伝えるメールには、その菊池おばさんの印象は無い。私も一ノ瀬と同意見であった。
 そして、一ノ瀬は少し考えた様子で、私を見ながらこう言葉を続けた。
「まるで、別人が文章を作成した様だ、いや…これは、別人が文章を作成した、そう断言出来る、しかし、菊池日奈子は一人暮らしだ、つまり…君には言い難いのだが…、菊池日奈子の家に、他の人物が侵入し、捜索を打ち切る様メールを作成した、と考えられる、多分だが…、君の母親の捜索を嫌う人間からな」
 お母さんの捜索を嫌う人間?
 まさか。
 闇金業者?
 闇金業者が、菊池おばさんの家に侵入した?
 何故、菊池おばさんが探偵にお母さんの捜索を依頼している事を知った?
 私は脳を回転させる。
 足りない想像力のせいで、脳が熱くなる。
 いや待て。
 もしかして。
 そんな事が、あるのか。
 だとしたら。
 菊池おばさん達が危ない。
 一ノ瀬は、カバンを持ち、鈴木に向かってこう言った。
「俺たちは今から菊池日奈子の家へ向かう、事件性がある可能性があるからな、これは契約としての調査じゃない、一人の人間としての行動だ、鈴木ちゃん、行くぞ」
 私は外に出ようとした一ノ瀬と鈴木の前に立ち、私も行く、行かせてください、私も確かめる権利があります、と言った。そう、これは私の想像でしかないが、もし、そうだった場合、私が確かめなければならないのだ。これは、責任だ。
 私の想像が本当だった場合、どうする?
 私は、どうなる?
 考えただけで足が震えた。
 握りしめた拳に大量の汗をかいていた。
 一ノ瀬は私を睨む様に見つめ、溜息をついた。そしてこう言った。
「事件性がある、と言った筈だ、これは危険すぎる…、と言っても、君はどうせ行くんだろうな、うん…、まあいい、だが一つ、必ず俺から離れない事だ、分かったか?」
 私は、はい、宜しくお願いします、と言って、一ノ瀬と鈴木に頭を下げた。
 一ノ瀬と鈴木は、これからの現実を、現実ではない、と否定する事になる。しかし、私は既に、この現実を、現実とは思っていなかった。
 
 ✳︎
 
 私たち三人は、菊池おばさんの家の前に到着した。私自身としたら、何年か振りの帰省であった。まだ、私が菊池おばさんの家の塀に絵の具で書いた、菊池おばさんの似顔絵が薄らとだが残っている。いや、今は昔を懐かしむ場ではない。そんな事は、今考えている場合ではないのだから。私はまだ、自分の想像で恐怖を感じ、足が震えていた。私は自分で太腿を殴る。止まれ、震え、止まれ。
 菊池おばさんの家は、窓が大きく、外から家の中がよく見える構造になっている。しかし、その窓越しからも、菊池おばさんの姿、そして、気配さえも感じなかった。その光景に、鈴木は「妙に静かですね」と感想を呟いた。
 一ノ瀬は、菊池おばさんの家のドアノブに手をかけた。そして、一ノ瀬は気付いた。そして、呟いた。
「ドアが、開いている」
 一ノ瀬はすぐに玄関に勢いよく入った。私も鈴木も、それに続いた。しかし、一ノ瀬は玄関の中で止まっていたのだ。私は玄関の先を覗き込もうとした。その瞬間だった。一ノ瀬は、私の視界を太い腕で制限し、叫んだ。
「見るな!絶対に!見るんじゃない!」
 しかし、私には確かめなければならないのだ。私の想像通りなら。想像、通りなら。私はその光景をイメージしただけで、恐怖の感情により、全身の力がスッと抜け、その場に座り込んでしまった。そのせいで、一ノ瀬の太い腕で制限されていた視界が、はっきりと見えてしまったのだ。
 その視界の先には。
 玄関の先のリビングで、手足を縛られ、目を黒いガムテープで覆われ、白いシャツの胸の辺りが赤黒く円形に染まり、倒れていた、菊池おばさんの姿。
 そして、隣には。
 菊池おばさんと同じ状況で、赤黒いシャツ、いや、白の花柄のシャツの全体が赤黒く染まり、倒れていた、お母さんの姿であった。
 
 ✳︎
 
 私は夕方に、警察署へ呼ばれ、刑事と一対一で話す事になった。刑事はスポーツ刈りで体格も良く、いかにも、といった雰囲気を醸し出していた。
 刑事は、立ち上がり、私に握手を求め、こう言った。
「捜査一課の黒川だ、宜しく」
 宜しく?何が宜しくだ。菊池おばさんがお母さんを探そうとしても、積極的に動かなかったくせに。私が白を探そうとしても、邪険に扱ったくせに。それを、菊池おばさんが、そして、お母さんが、こ、殺されたから、話を聞きます、はい宜しく?ふざけるんじゃない。私は左手の拳を目一杯に握りしめ、下を見たまま、黒川という刑事に八つ当たりする事を耐えていた。左手の指が手のひらを貫通しそうな程、拳を握りしめていた。
 私が握手を拒否した為、黒川刑事は何事も無かった様にパイプ椅子に座った。
 黒川刑事は背もたれによしかかり、こう私に言った。
「話を聞かせて貰う…と言いたいところだが、実際には探偵の一ノ瀬と言う男と、鈴木という女から、大体聞いている、二人の同じ証言があるし、探偵という職業という事もあるから、大体は信用している、まあ、君は…、最初の感じでは、正確な話を聞ける状況でもなかったからね」
 そうだ。私は、菊池おばさんとお母さんの姿を見た時、文字通り『発狂』した。叫びながら、その場に座り込み、床を拳で、全力で殴っていた。それは、私の想像通りであったこと、そして、自らの過ちに気付いたからであった。
 まず、お母さんの失踪した時のメモ。『とおくへにげる』という言葉。これは、フェイクだった。闇金業者が無理矢理家の中に入って来た際、この言葉を見たら、遠くに探しに行く筈だ。これは、単純に『ここでいきることができない』という言葉から、闇金業者に見つかったら、確実に何らかの被害を受ける事を知っており、それを恐れ、フェイクとして書いたのだ。そして、もう一つの理由。私たちに、見つからない為だ。これも、私たちを遠くへ行かせる為のフェイクである。しかし、このフェイクは、お母さん自身の被害を恐れた訳ではない。一緒にいたら、私たちまでも被害を受ける事になってしまう、という、お母さんの『他人に迷惑はかけない』という心情から生まれたものであった。
 諺で言うならば、実は『灯台下暗し』であったのだ。
『とおくへにげる』とフェイクを使ったお母さんは、最初は近くの何処かで身を隠していた。菊池おばさんは、多分その時点で、お母さんのメモを発見し、警察や探偵に捜索を依頼していたのだろう。しかし、知識も何も無い女性が、一人で路上生活で過ごすのは限界がある。半兵衛も言っていた。そこで、お母さんは長年信頼していた、隣の菊池おばさんに事情を全て話し、家に匿って貰う事にした。ここでお母さんは、菊池おばさんから、探偵に自分の捜索を依頼している、という事を知った。これはお母さんにとっては、ラッキーだった。まさか依頼者である菊池おばさんが、捜索対象である自分を匿っているとは思わないだろう、そう思った。菊池おばさんには協力して貰い、調査料の支払いや報告を受ける際には、必ず探偵事務所へ出向くか、メールでやり取りを行い、探偵に菊池おばさんの家に来ない様にした。これで、闇金業者からも、私たちからも、逃げる事に成功した、当分の間は見つからないだろう、と確信した。そして、その後の状況を見計らい、熱りが冷めた後、本当に何処かへ逃げる。これで、お母さんの逃走計画は、完成したのである。しかし、その目論見と計画は、残念ながら、失敗した。菊池おばさんの家は窓が大きく、家の中の様子が見て取れる。その環境が、お母さんにとって、唯一の考えが及ばなかった点であったのだ。闇金業者は、いつもの様に私たちの家に集金に訪れ、玄関前で叫び、帰ろうとした。その時ふと、菊池おばさんの家の大きな窓から、お母さんの姿が偶然にも見えたのだ。その為、闇金業者は、何らかの方法で菊池おばさんの家に侵入した。多分、セールスか何かを装ったのだろう。しかも、菊池おばさんは闇金業者の顔をよく観察などしていなかった筈だ。『触らぬ神に祟りなし』とは良く言うが、隣の家で叫んでいるヤクザの様な人間とは、本来関わりたくは無い。そして、闇金業者は、菊池おばさんとお母さんの手足を縛り、視界を隠し、金銭を渡す様、恐喝した。それでも、一人暮らしで細々と生活していた二人に、渡すお金は無い。それに腹が立った闇金業者は、二人を包丁か何かで刺し殺したのだ。しかし、そこで闇金業者にイレギュラーが発生した。闇金業者は、菊池おばさんのスマートフォンに、一ノ瀬探偵事務所からのメールか電話の通知があった事に気が付いた。その通知で、探偵がお母さんを捜索している、という事を知り、焦った。そうして、一ノ瀬探偵事務所宛に捜索をキャンセルするよう、メールを打ち、送信したのだ。メールの件名が無かったのも、本来の菊池おばさんの文章と違ったのも、そのせいである。
 これが私の想像であった。しかし、私が発狂したのは、これだけの理由ではない。もし、私が大阪にいた際、最初の一ノ瀬の電話に気付き、捜索キャンセルのメールが変だ、という事実を知っていたら?手足を縛られ、包丁で刺されても尚、菊池おばさんとお母さんが即死していなかったら?私が一ノ瀬の電話に気付いたのは、最初の電話から三日後である。最初に電話に気付いていたら、もしかしたら、もしかしたらの可能性ではあるが、菊池おばさんとお母さんは、一命を取り留めていたかもしれない。しかし、三日という時間は、無常ではあるが、出血によって人間が死に至るに、充分な時間である。つまり、どういう事か。私が、菊池おばさんと、お母さんを、見殺しにしたのだ。私はそれに気付いてしまったのだ。自責の念、いや、もっと強い。人を、愛した人を、私自ら死に至らせたという、言葉では表現出来ない感情。私はそれによって、発狂したのだ。
 私は全力で床を殴ったせいで、私の右手の人差し指、中指、薬指の基節骨にヒビが入っていた。今は緊急処置として固定してある。痛みは感じる。しかし、この骨のヒビの痛みよりも、心の痛みの方が、もっと痛い。痛くて、痛くて、痛い。
 黒川刑事は、下を向いた私を見ながら、こう言った。
「実はね、君をここに呼んだのは、事情を聞く為でもあるんだが、君に、見せなければならない物があってね」
 そう言うと、黒川刑事は、A3サイズはあろうかという、大きな封筒を取り出した。そこには、私の名前と、『大事なもの』と書かれていた。
 黒川刑事は話を続けた。
「この封筒は、君の母親のカバンの中に入っていたんだ、君の名前が入っていたからね、しかも『大事なもの』なんて書かれてある、これは君に中身を確認させなければ、と思った、こう言ったら酷だが、遺言の可能性もある、一応、これは証拠品として残るから、今しか見せれないし、指紋が付かない様に手袋をして貰うけどね」
 私は黒川刑事から渡された白い手袋をし、封筒の中身を確認した。二枚の紙が入ってあった。まず、一枚目を確認した。それは、私が書いた、お母さんの似顔絵であった。私は絵を描く時、必ず日付を残している。確認すると、日付は、五月八日。それは、母の日である。私はその日付で、思い出した。このお母さんの似顔絵は、離婚し、消沈しているお母さんに、お母さんは一人じゃないよ、私がいるよ、という意味を込めた、唯一母の日に渡したプレゼントであったのだ。
 お母さんは、闇金業者から逃げていても尚、私が書いた似顔絵を、大切に保管していた。
 つまり、どういう事か。
 お母さんは、私を大切にしていたのだ。
 お母さんは、私の愚弄さに気付いていたが、ずっと、私を愛していたのだ。
 お母さん、ごめんなさい。
 気付かなくて、ごめんなさい。
 助けてあげられなくて、ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 ごめん、なさ、い。
 涙で視界がボヤけていた。その涙は、愛情の涙であり、謝罪の涙であった。しかし、泣いたところで、お母さんは、戻ってこないのだ。それを実感した瞬間、また涙が溢れてきた。
 私は視界をボヤかせながら、二枚目の紙を見た。そこには、『わたしのともだち』と書かれた、子供の絵であった。日付は、八月十日である。お母さんは、私に友達が居ない事を知っていた。だから、お母さんは『わたしのともだち』の絵を大事に取っておいたのだろう。やはり、お母さんは私を大切にしていたのだ、そう感じた。
 そして、その子供の絵をちゃんと見ると、白髪に、黒いブレザー、黒い短パン、手足は細く、白い。そんな男の子の絵であった。
 私は、動揺した。
 え?
 これは?
 白?
 これは、白?
 数秒、私は脳を回転させた。
 そして、気付いた。
 そうか。
 白は。
 私は全てを、理解した。
 急に私の頭の中から、声が聞こえた。
「ようやく気付いた?おねーさん」
 うん、気付いたよ、白。
「おねーさんは理解するのが人より遅いからね、待ち詫びたよ、本当に」
 うるさい。
 でも、本当に待たせたね、白。
「僕とおねーさんは、友達だよ」
 そうだ。
 私と白は友達だ。
 ずっと、前から。
「そして言ったでしょ?僕は、白だ、そして、おねーさんも、白だ」
 ようやく分かったよ、白。
 白は、私なんだね。
「ピンポン、正解だよ、おねーさん、僕が出したクイズに、初めて正解したんじゃない?」
 そうだね、白。
 ごめんね、白。
「その正解のご褒美なんだけどさ…、考えたんだ、僕なりにね、そして閃いたんだ、僕は、おねーさんとこれからもずっと一緒にいる事にしよう、とね、どう?嬉しいでしょ?」
 うん、嬉しいよ。
 ずっと一緒だ。
 もう、離れたり、消えたりしない。
 私と白は、友達、だから。
「おねーさん、これはさ、依存かな、執着かな、どっちだと思う?」
 ううん、依存でも、執着でもないよ。
 これはね。
 本当に、『愛情』って言うんだよ、白。
「ふふっ、そうだね、僕も、おねーさんを、愛してるよ」
 これは、本当の、愛の話。
 ではない。
 脳を回転して欲しい。
 『白』は言ったのだ。
 愛情とは、憎悪である、と。
 そして、それは、人間を盲目にさせる、と。
 そんな話であるのを理解するのは、少し、先の出来事によるものである。
 
 
 
 第六章
 
 私達は、何らの理由もないのに、人を愛し、また、何らの理由もないのに、人を憎む。
 We love without reason, and without reason we hate. - Jean Francois Regnard
 
 
 事件は、私の想像通りの結末を迎えた。闇金業者は焦り、菊池おばさんのスマートフォンでメールを送信したせいで、スマートフォンの画面には、菊池おばさんのものでは無い指紋が検出されたのだった。それにより、すぐに容疑者は特定された。その特定から三日後。防犯カメラの映像や、多数の目撃者の証言から、容疑者は逮捕された。名は、平林洋。三十二歳。自称、元暴力団員。俺は金が欲しかった。暴力団を抜けてから長い間金貸しをしていたが、貸した金を全く返済しない事に腹が立った。だから殺した。そこにいたもう一人の女は、口封じの為に殺した。しかし、俺は金を貸していたのだから、返す義務がある。それを怠ったのは、その女が悪い。と一部容疑を否認していた。しかし、私の嫌いな常識で考えれば、利息制限法及び、出資法の上限金利を越えた貸付は違法であるので、お母さんにはお金を返済する義務は発生していない。当たり前である。よって、平林という男は、二人を殺害した殺人、恐喝、監禁、住居侵入、犯罪収益等隠匿の容疑で、身柄を検察庁に送られた。平林がお金を得る事に協力した仲間を自白すれば、更に逮捕者は現れるだろう。これで、この事件は一先ず、解決したのであった。
 平林が逮捕されるまでの三日間、私は自分の部屋に閉じこもり、その事件のニュースばかり見ていた。その間、私は黒川刑事から呼び出しを受け警察署に向かうと、黒川刑事は私を確認した後すぐに駆け寄り、「ああ、今回君を呼び出したのは、謝りたかったからだ、今時の闇金の奴らは、返済しない人間を殺さない筈なんだ、高金利の貸付は違法だって分かってるし、それを安易に見つかりたくはないからな、それが、普通なんだが…、今回の事件は、本当にアンラッキーだった、その闇金の実態を見つけていなかった警察サイドにも非はある、大変申し訳なかった」と言った。また、私の家にも一ノ瀬と鈴木が訪れ、「最初に異変に気付いた時に、すぐに俺たちだけでも、菊池日奈子の家に向かうべきだった、これは俺たちの落ち度でもある、すまない」と言って、菓子折りを持ってきてくれた。黒川刑事も、一ノ瀬や鈴木も、私に謝罪してくれたのだが、謝るべきは私の筈なのだ。そもそもの原因は、私がお母さんに多額の借金をした事であり、そのせいで皆を巻き込んでしまったのだ。私は、他人に、迷惑をかけたのだ。お母さんは、きっと私の姿を見て、怒るだろう。でも、そんな愛情の言葉は、二度と、聞けないのだ。
 
 ✳︎
 
 私は白と会話していた。
 ねえ、今日の晩御飯、何食べたい?
「そうだね、やっぱり…オムライスだね」
 私も同じ。
 やっぱり白は、友達だ。
 やっぱり白は、私だ。
 そうして、冷蔵庫の中身を見ると、卵を切らしている事に気が付いた。
 卵、買いに行かなきゃね。
 一緒に行こう、白。
「そうだね、一緒に行こう、お腹減ったよ」
 私もお腹減っているよ。
 聞いて、お腹、鳴ってるよ。
 白の笑い声が聞こえた。
 私はリュックサックを背負い、外へ出た。
 スーパーへの道のりは少し遠い。街灯も、人通りも少ない道を通らなければならないのだ。
 私は、歩いている途中で白に話しかける。
 そうだ、いつもはケチャップだから、デミグラスソースにしよう。どう?白?
「いいね、デミグラスソース、僕も好きだよ」
 デミグラスソースを作るには、赤ワイン、ケチャップ、中濃ソース、醤油、砂糖…など、色々必要だ。もう夜だ。時間も無いし、市販のデミグラスソースを買おう。そう思った。
 人通りの少ない道であったが、向かいから二人組の人間が歩いてきた。多分、手を繋いでいるし、カップルだろう。お盛んだこと。私はそのカップルとすれ違った。私は、そのカップルの後ろ姿を二度見した。それは、そのカップルの人間を、見た事があったからだ。
 黒い、鍔の長い帽子。
 長髪にパーマをかけ、後ろに流している髪型。
 それは他でも無い。
 担当であった。
 いや、何故ここにいる?
 上京した筈じゃなかったのか?
 しかも、担当と手を繋いでいた女は、店で見た事がある。同じく、担当を指名していた、女であった。別に私には店に通っていた時、同担拒否、という感情は無かったので、別にその女の事を何とも思ってはいなかった。
 しかし、私は今、その女に、嫉妬している。
 何故だ?
 白が、私に話しかけた。
「おねーさん、嫉妬はね、愛しているからこそ生まれる感情だ、どうでもいいという人間には、嫉妬という感情は生まれないんだよ」
 私が、担当を愛している?
 上京すると嘘を吐き私を捨て、更には別の女、いや、私以外の客の女とセックスしてるかもしれない。それでも、私は担当を愛している?
「そうだよ、おねーさん、おねーさんはね、担当さんを愛しているんだ」
 白は私。
 白が言うのなら、それは私の言葉だ。
 だから。
 分かった。
 私は、担当を、愛しているのだ。
「でもさ、担当さんには、別の女がいるよね?その女に、おねーさんは嫉妬したよね?」
 そうだ。
 私は、その女に嫉妬している。
「愛する人が、別の人を愛しているんだ、辛いよね、憎いよね」
 うん。
 辛い。
 憎い。
「だったらさ、担当さんを、奪えば良いよね」
 奪えばいい。
 そうだ。
 愛する人に愛して貰う為には、奪うしかない。
 でも、どうやって?
 教えて、白。
「それは、おねーさんが一番分かってるんじゃない?」
 分かっている。
 分かっているが、分かりたくない。
「じゃあ、僕が、おねーさんを分からせてあげるよ」
 うん。白。
 私を分からせて。
「その女をさ」
 うん。
「殺せば、いいよね」
 そうだね、白。
 あの女を殺せば、担当は私のものだよね。
 私は、ふと、思い出した。
 リュックサックの中を漁った。
 そこには、半兵衛から家を作る為にと貰った、ナイフがあった。
 私は、ナイフを握りしめる。
 骨のヒビによる痛みなど、忘れた。
 私は、担当と女に向かって走る。
 そして。
 女の背中に、ナイフを、思い切り、刺す。
 何回も。
 何回も。
 何回も。
 何回も。
 何回も。
 女は、声もあげる事も無く、その場に倒れた。
 それでも、私は女の背中にナイフを刺す。
 何回も。
 何回も。
 何回も。
 何回も。
 何回も。
 私は担当へと目を向けた。担当は、その場に座り込んでいた。失禁していた。しかし、しっかりと、私を見ていた。
 私はそんな担当に向かい、こう言った。
 久しぶりだね。
 私の目を見てるね。
 もっと、ちゃんと、見て。
 私の気持ち、分かる?
 ねえ。
 私はね。
 愛しているんだ。
 だからさ。
 これから、一緒に居よう。
 担当は全速力で、日本語とは思えない言葉を叫びながら、私から逃げた。
 え?
 何故?
 私は担当を愛しているのに。
 担当は私を愛してはくれないの。
 何故?
 白は私に話しかけた。
「ねえ、おねーさん、僕が質問した事、覚えてる?」
 質問?
 何の質問?
 今はそれどころじゃないよ、白。
 私を愛してくれる為に。
 担当を追わなきゃ。
 私のものにしなくちゃ。
「ふふっ、盲目の意味だよ、もしかして、忘れちゃった?」
 そうだ。
 思い出したよ、白。
 私が答えられなかった、白の質問。
 愛情と憎悪はイコール。
 そして、それは、人間を盲目にさせる。
 盲目とは、物事を分別出来なくなる事だ。
 私は、普段、何を分別している?
「正解を教えるね」
 早く教えて、白。
 担当を追わなきゃいけないから。
「そう焦らなくて良いよ、おねーさん」
 焦っていないよ。
 早く正解を教えて。
「ふふっ、正解はね、『命の分別』だよ」
 命の分別?
 どういう事?
 教えて、白。
「いいよ、おねーさん、普通はね、人間は人間を殺す事を『やってはいけない行為』だと分けるんだ、でもさ、植物とか、豚さんとか、牛さんも、生きてるのに、人間は簡単に殺すでしょ?つまり、人間は植物や動物を殺す事を『やってもいい行為』だと分けているんだ、自分自身が生きるという、勝手な欲望の為にね」
 なるほどね。
 でもさ、私たちが生きる為にはさ。
 必要不可欠な命の分別も必要だよ。
「そこだよ、おねーさん、その普通の人間が持つ必要不可欠であった命の分別の思想を、愛情と憎悪という感情は、ぐちゃぐちゃにしちゃうんだ、分かるかい?」
 うん、分かるよ。
 …。
 ん?
 命の分別を、ぐちゃぐちゃにさせる?
 ぐちゃぐちゃ?
 ぐちゃ、ぐちゃ?
 そして、私は目の前の現状に、気付いた。
「おねーさんが分かって無さそうだから、例を出すとしよう、例えばね、おねーさんが、この女を」
 止めて、白。
 言わないで。
 絶対に、言わないで。
「殺した、みたいにね」
 私は、理解した。
 私は、人を、殺した。
 愛情の為に。
 憎悪の為に。
 私は、盲目に、なっていた?
 白の笑い声が聞こえた。そして、私にこう言った。
「大丈夫だよ、おねーさん、おねーさんと僕は友達だからね、何があっても、ずっと、一緒だよ」
 
 ✳︎
 
 『イマジナリー・イン・ザ・1K』。
 これは、1Kという小さな部屋の中での、人物、思想、感情の話である。
 そして、もう一つの意味。
 『1K』は、『One Killer』の略である。
 つまり、どういう事か。
 これは、一人の殺人者の中での、人物、思想、感情の話である。
 殺人者である女の、この先の未来がどうなったかは、誰も知らない。

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