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「世界精神型の悪役」とは何か?【定義編】/伊藤計劃研究

 前回の原稿 では「世界精神型の悪役として、作家はどんなキャラクターを挙げていたか?」を取り上げた。
 今回は「世界精神型の悪役として、作家はどんな定義を考えていたか?」を引用する。

 あくまでも提唱者の定義ではあるが、作家が当初どう考えていたのか/どう微妙に変化して行ったのかを押さえてみるのも興味深いはずだ。たとえば、中途からは「映画での」との限定が取り払われ、広くフィクション全般に拡張される概念となっている。

「世界精神(ヴェルト・ガイスト)としての/または映画をアウトラインする演出家の劇内における審級としての/悪役」の系譜  

https://projectitoh.hatenadiary.org/entry/20070630/p2

 世界精神型の悪役とは何か。世界、とは我々の世界でもあり、また映画の説話全体でもある。そして映画を監督が支配する(ということにしておいてください)以上、世界精神型の悪役という言葉は、監督が創造した世界の代弁者もしくは映画そのものの演出家という審級を与えられることになる。映画そのものを演出する映画内キャラクター。つまりは映画内における監督のキャラクター化だ。 

https://projectitoh.hatenadiary.org/entry/20070702/p1

 世界に認識の変革を迫るヴィジョンを演出することで、ある事物の本質を抉り出すことそのものを目的とし、どんな現世利益的な欲も動機や目的にはしない、そんな悪役。世界を支配するのでもなく、政治的な目標を達成するのでもなく、金をもうけるのでもなく、ただある世界観を「われわれ」の世界観に暴力的に上書きする時間を演出する、それだけを目的とした悪役たち。それが「世界精神(ヴェルト・ガイスト)型」の悪役(というか、敵役、と言ったほうがいいのかもね)だ。(中略)ぶっちゃけて言うなら「この人が言っていることは作品の作り手が言いたいこと(の一部)なんだろうな」と思えるような悪役であれば、大体このタイプだ。
ある物事を主人公たちに見せつけることそのものを目的とし、その見せ付ける過程が映画になってゆく、そんな悪役を「世界精神型」と呼ぶ

https://projectitoh.hatenadiary.org/entry/20070702/p1

この映画のジョーカーは悪意そのもの、人間の心理のどぶ底を浚ってくるクズ拾いのような世界精神(ヴェルト・ガイスト)型ヴィラン、金や権力など目もくれず、ある世界に人々を誘うことそれ自体を目的とするタイプの観念型悪役

 https://projectitoh.hatenadiary.org/entry/20080723/p1


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