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生きることの色々が嫌になったので、海辺でパンを食べた

あー、海行きたい。

嫌な教科の試験日、面倒な講義がある日、とにかく生きることに付随する面倒な諸々から逃げたくなった時。
生粋の盆地育ちのはずなのに、私はなぜか海が見たくなる。生き物の祖をはるか辿れば、やがて大海へ繋がるからだろうか。それとも前世がエラ呼吸の生き物かなんかだったのだろうか。

就職活動で苦しんでいた時も、リクルートスーツで涙を流しながら「海行きてぇ」と切実に思っていた。笑顔のお面を張り付けては面接に挑み、神のごとく祈られ続けたあの日々のことはもう思い出したくない。今思えば、私は何者にもなれない自分自身から逃げたかったのだ。社会性動物は向いていないことが22年の人生で分かってしまったので、来世はクラゲになって、ふやふやと深海を孤独に泳ぎたい。

10月20日(水)。大学が休みだったので布団を被り鬱々としていたが、午後から晴れてきた。家に籠るにはあまりにもったいないピクニック日和だ。私は電車に飛び乗り、鮭のごとく本能の流れに身を任せて海を目指した。

電車の中では吉村昭の「羆嵐」を読んだ。日本最悪の獣害事件である三毛別羆事件をモデルにしたドキュメンタリー小説である。6人もの人間を食い散らかし、それでもなお、肉を求めて本能のままに彷徨い続ける羆の姿。そしてその幻影に怯え、土地を捨てざるを得ない村人の無力さ。途方もなく広がる白銀の世界は不安定で、読後の眼前には幻の雪がちらつく。そして、恐ろしい羆を孤独に追いかける「銀オヤジ」がたまらなくかっこいい。これからの季節に似合う本だと思うのでおすすめしておく。(ただし山登りやキャンプのお供にするとおちおち休んでいられなくなるため注意)

おっ、私が羆の恐ろしさに震えているうちにあっという間に海辺の駅にたどり着いた。駅前のセブンイレブンで熱々のカフェオレを購入し、いざ海へ!!!

海とパン1

わーーーーーーー海だ!

眼前に広がる青い空、海、白い砂浜。10月も半ばを過ぎて風が少し冷たいが、まごう事なきブルーオーシャン。
良さげな席を確保し、カフェオレを一口…うん、美味しい。近所のおシャいパン屋で買ったパンを取り出し、遅めの昼食としよう。

1つ目:サーモンとアボカドのクロックムッシュ
クロックムッシュとは、本来パンにハムとチーズを挟み、そこにベシャメルソースを塗って焼いたフランス生まれのトーストらしい。サーモンにチーズ、アボカド、ベシャメルソースとは、すきっ腹には少々重そうに思えるが、果たして。

…うまーーーーーーーー!

肉厚のスモークサーモンには程よく火が通っており、とろとろのチーズに濃厚なベシャメルソースとよく合う。そこに顔を出すのがアボカド。結構な量が挟まっているのにしつこくないのは…レモンだ。遠くの方から香るレモンが、一見重たそうに見えるこの組み合わせをまとめ上げている。このクロックムッシュがオーケストラだとしたら、このレモンが指揮者。舌の上で素晴らしい音楽を奏でては滑り落ちていく。うま、うま。あっという間に胃に消えてしまった。右から刺す日差しがじりじりと暑い。

2つ目:シナモントースト
ううむ、クロックムッシュでまあまぁお腹がいっぱいになってしまった。こんな分厚さのパン食べられるのか?
真ん中に乗っている白いクリームは何だろう。透明のフィルムをはがすと、シナモンが海風に乗ってそっと香る。…ザクリ。

いや、うまッッ!!!!!!!

端のシナモンシュガーがザクザクカリカリで、そっと歯を立てるとじゅわっとバターがあふれ出る。耳まで美味しいのか。真ん中にいくにつれて、白いクリームの正体が分かった。…チーズだ。これまた重そうに思えるバターとシナモンシュガーの組み合わせをまとめるのは、さっぱりとしたチーズクリームなのだ。いいトリオだ。この調子ならM-1にだって決勝進出できるだろう。あれだけお腹いっぱいだと思っていたのに、チーズとシナモンの魔法にかかった私の手はどんどん止まらなくなる。助けて。


そんなこんなで、自分の掌にずっしりと乗るほどのパンが胃袋に消えてしまった。最近季節の変わり目で小食ぎみだった自分にはありえない量だ。これも海マジックか。それにしてもサーモンにシナモンという組み合わせは神チョイスだった。目の前の風景が、ぼんやりとフィンランドの海辺に見えてくる。フィンランド、行ってみたい。私はフィンランドを舞台にした映画「かもめ食堂」が好きなのだ。もたいまさこが着ていたマリメッコのセットアップがとても素敵だったなぁ。石川に高知、ニューヨーク、マチュピチュを見にペルーだって。コロナが収束すれば行ってみたい土地が沢山あるなぁ。

と。

隣で海に向けてカメラを向けるおばあ様が。上半身はピンクのニット、そこにペールグリーンのパンツを合わせたファッショナブルなスタイル…何かに似ている。そうだ、さっき胃袋に収めたサーモンとアボカド。
サーモンアボカドのマダムはパシャパシャとシャッターを切り続ける。一眼レフだろうか。スマートフォンなどではなく、ずっしり黒々とした立派なカメラだ。そのいで立ちはたまらなく様になっている。

(かっこいい…)

よく見れば小脇に挟んでいるのは、透明のプラスチック容器に入ったパニーニのようなもの。恰好つけてうきうきおシャいパンを買い込んでしまう私とは格が違う。いい具合に気が抜けていて、さりとて軽くない。そしてマダムの目線の先には飛行機。30分近く座り込んでいる私が気づかなかったものをさらりと捉えて、マダムは遊歩道を歩いて行った。

(負けた…)

完敗だよ…。あんたの勝ちだぜ…マダム。私の中のジョーがリングで真っ白に燃え尽きている。私は後何年したらあの風格を身に着けられるのだろうか。後からマダムのマネをして飛行機の写真を撮ってみたけれど、きっとあのレンズがとらえた景色の美しさには敵わないだろう。また一人、人生の師匠が増えてしまった。

海とパン2

せっかくなので少しだけ砂浜を歩いてみる。

ザザーン…ザザーン

寄せては返す波の音が耳に心地良い。
砂浜で貝殻かシーグラスでも拾えるかと思っていたが、目につくのはプラスチックのごみや焚火の後の燃えカスなど。思わず地球環境に想いを馳せざるを得ない。北極の氷は今、どれくらい溶けているのだろうか。オゾン層の薄さは。PM2.5って最近聞かないがどうなっているのか。海を見ているとそんな壮大な考えも湧いてくる。


飽きるほど歩いて、いろんなことを考えた…つもりだったが、砂浜を歩き終えて時計を見てみれば、滞在時間はたったの1時間半ほどだった。海という壮大な景色を前にすれば、時間の感覚すら形を変えてしまうのかもしれない。あー楽しかった。


秋の匂いをたっぷりと吸った服は重く、身体は満足感に満ちていた。苦しいことがあれば、私はまた、ここに逃げに来るだろう。晩秋の海辺は、そんな切ない予感に満ちている。

もしもあなたが人生に疲れているなら。毎日やらなければならないことを淡々とこなす日々に嫌気がさしたなら。是非、数千円握りしめて近所のパン屋へ。そのまま海へ。この際仕事も学校も家事も休みだ。
もしも傍にいてくれる誰かが欲しいなら、私に声をかけて欲しい。私も全てを放り投げて、貴方と海に行きたい。

「生きるのってしんどいことばっかだよねぇ」

私達はぐだぐだと管を巻きながら美味しいパンを食べる。
そして飽きゆくまで、目の前の美しい風景を眺め続けるのだ。



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