劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン もしくは 沈黙に語らしむと言うこと(たぶんネタバレになってると思います(,,゚Д゚))

本当は、MXで再放送したテレビ版の録画があるので、それを見てからの方がいいはずなんだけど、油断をしていたら、今週末封切りの「鬼滅の刃 無限列車編」がものすごくて、土日はあちこちのシネコンの全スクリーンでこれしか上映しない、というとんでもないことが判明して(実際、近所のシネコンもそうだった)、とりあえず大慌てで見に行ったので、テレビ版とかで前提になっていることがあるかもしれないけど、まぁ、見てる分にはたぶん最低限の設定が分かるようには作られていたと思うので、どっちかというとエンドロール前のあのシーンはなんなのかなとか、そういうのが逆に気になってしまった。うん、いい作品だと思うし、Netflixが京アニでこれだけ独占契約したという話をTwitterで見かけたので、これをもう一度ハリウッドで実写映画化とかがあるかもしれないかなーとは思った。郵便社の面子がいろんな人種が混じったりするのかもとかはいささか思うところはあるけど(,,゚Д゚)

なもんで、以下はあくまで「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のみの感想です。TV版で自明のこともあるかもしれないけど、TV版見てから書くよりは今の感想で。
以下。たぶん直接には言及しないけど、たぶん「ネタバレ」に類することにはなると思うので、そのつもりで。さっきも書いた「鬼滅の刃」旋風で、一番館的には上映終了になりそうな感じでもあるし。

この脚本が上手いなーと思ったのは、んまぁ、男女で上官と部下で、というのが一番しっくりとはくるんだけど、ここで出てくる「あいしてる」は、オーソドックスな男女の恋愛でなくても成立するようになっていたことかな。孤児を引き取って「道具」として育ててきた上官と、それを是として受け取ってきた部下。でもそこに信頼と愛情が生まれて、決戦の時の負傷で引き裂かれるときに残された「あいしてる」という「呪いの言葉」。
うん、愛することと愛されること。それって、一種の「呪い」なんだよね。この物語の中では直接相手への愛情が憎悪に変わることはなかったけど、でもその代わりに、その愛情が変わった憎悪の矛先は、自分自身に向かうことになる。特にギルベルトはそれが顕著で、島のシーンがまさに憎悪が自罰的に頂点に達した瞬間でもある。自分が「道具」として育てたが故に、もっといきいきとしていてもよかったはずの少女が、「愛する」という感情もよく理解できていない「道具」で、でもその「道具」が、いや、「道具」だった少女が「あいしてる」の意味を求めて自分を慕ってくる。ギルベルトはそれが耐えられないし許せないし、しかもそういう状況を作ったのは間違いなく自分だ。ヴァイオレットがここまで自分を想い追ってきてくれたことが、その自分の過ちを責めさいなんでくる。もしかしたらあの時「あいしてる」と言わなかったら。
で、それはヴァイオレットも同じで、ジルベルトが「あいしてる」という言葉を与えてくれたこと。そして、今度は自分が他人に言葉を与える役割になりたいと自動手記人形になる。そしてそれは、ジルベルトにもらったのと同じように、言葉が必要な人たちに伝えるため。スピーチライター的な代筆はしても、それは依頼主の伝えたい気持ちを拾い綴るだけの役割。だから、あれほど賞賛された筆力を持ってしても、ジルベルトへの最後の手紙は、ただただ「ありがとうございました」を連ねるだけのものになってしまったし、二人が海岸で再会する(島の部屋では結局直接対面してないしね)場面では、まともな言葉すら紡ぎ出せなくなってしまっている。言葉を綴ってきたヴァイオレットが、いざその場面になったときには言葉にならない、結局は二人抱き合うだけの「沈黙」に全てを語らせることになる。
与えられた「あいしてる」という言葉をたどるうちに、ようやくたどり着いたその意味は「沈黙」であったという、逆説的であるけど普遍である、そして、そこには実は明示的な性愛がない(少なくとも描かれていない)ので、ジェンダーや性的指向から切り離された物語になっている。
この「沈黙」に語らしむ、というのは、映画の演出の中でもたびたび見られる「顔の見えないアングル」の多用にも見られるかなー。その場面のキャラクターの顔を描かずに、わざと顔の部分をフレームの外に出したカットで物語を薦めて、肝心な場面でだけ出す、という感じ。なんというか、「何を語ったのか」でなく「何を語らなかったか」で描いているように思えた、脚本も演出も。

おそらく、ヴァイオレットの中にはただ、自分を受け入れ育ててくれて長い間離ればなれになっていたジルベルトへの、言葉にできない気持ちだけしかなかった。本当にそれは愛情だけなのか。いろんな感情が交じっていたものを、決戦の際のジルベルトの「あいしてる」の一言で、結晶化したのではなかったのか。ヴァイオレットがずっとつけているブローチのように。
二人とも「あいしてる」のは間違いないと思うし、おそらく生涯連れ添ってあの島で仲良く暮らしたんだとは思うんだけど、ジルベルトの「あいしてる」も、ヴァイオレットの「あいしてる」も、なんか純粋な愛情とは少し違っている(別に打算という意味合いではない)気がするんだよね。まぁ、世の中、純粋な愛情だけで結ばれなきゃいけないなんてもんじゃないし、そういう方が却って「情」として人として本当に愛することができるとも思うけど。
ただ。ちょっと思うんだよね。決戦の時に、ジルベルトがただ乱暴に「俺にかまうな。とっとと逃げろ」で押し通していたら、その後のヴァイオレットはどうなっていたのかな、と。おそらく自動手記人形にはなってなかったろうし、ジルベルトの母の墓参もしていたのかなー、とか。ジルベルトも、ヴァイオレットへの罪の意識(と、そこに繋がることになったブーゲンビリア家への抵抗感)がなかったら、ヴァイオレットと同じ技術レベルの義手もつけずにここまで隠遁生活はしてなかったろうしねぇ。
あの「あいしてる」って、やっぱり、運命的な一言であったと同時に、ものすごい「呪い」の一言でもあったわけで、ねぇ(,,゚Д゚)

うん。確かにハッピーエンドではあるんだよね。エンドロール後の静止画の1カットに集約されるように。そして、そのハッピーエンドは、うーん、サイドストーリーでヴァイオレットの生涯を追いかけてきた少女のおかげで生涯ずっと続いたことがわかるんだけどね。でも、島の教師と郵便業務という平凡な夫婦の生涯を送れたのは、ジルベルトのにーちゃんが「ブーゲンビリア家は自分が継ぐから、自由に生きろ」と言ってくれたからだし(ところで、あのにーちゃん、どこから島に現れて状況把握したんだ?w)、そう言ったのはおそらく、軍人の家に生まれた自分が軍の道に進むのを嫌がったせいでジルベルトが軍の道を選び、その結果が今の隠遁している弟と、両腕を失ったヴァイオレットだという罪の意識もあるだろうし。で、島でそのまま生活できたのも、あの島の爺さんのように敵方であっても同じように傷ついていたんだと理解をしてくれたからだろうし。
なんか、そうやって見ていくと、少なくともこの劇場版では、様々な人たちの「謝罪と贖罪と許し」の物語でもあるのかなぁ。あの少年がヴァイオレットに依頼した手紙も、弟と友達に関してはまさに「謝罪」であったし、「他人は、本当の気持ちと言うことが違っていることはよくある」からこそ、ただの手紙でなく自動書記人形が代筆をする意味があるんだろうしねぇ。

後は落ち穂拾い。途中の挿入歌、エンドロール見ると茅原実里みたいだけど、いや、元々似てる声ではあるんだけど、映画見ている間中、初音ミクに歌わせていて、合成した歌声でこれだけエモーショナルな場面の挿入歌として起用する演出すごいなー、と一人勘違いしていたりしたのでありました(,,゚Д゚) あんなに合成っぽい歌い方じゃなかったんだけどなー昔は(,,゚Д゚)
しかし、この映画のデータがあの時消失していたら、もっと完成は遅れていただろうし、そうしたら「戦争」が違う意味の隠喩と誤解されてそうな気もするから、そういう意味でも遅れながらもなんとかこの時期に公開ができて、本当によかったとおもいます、うん。

うん、多少ベタなところはあるかもしれないし、総じてあまあまな仕上がりな気はするけど、この作品はこれでよかったんじゃないかなー(,,゚Д゚)


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