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自分から生まれた "作品" に、自分が驚くことが出来るのか。

"作品" なるものを創るようになり、初めて体験したことがある。

それは、"作品" なるものは、意図を持って創るけれど、結局何が生まれてくるのかは生まれてくるまで分からない、ということだ。あなたが創っているんでしょう?とよく言われるのだが、何かが生まれる瞬間というのは、本当に不思議な体感覚に包まれてしまう。

単純に、喜びを感じるとか、わくわくするとか、達成感や安堵感を感じるのとは、近いようで、大きく異なる体感覚なのだ。あの言葉を超えた感覚は、一体どうしたら伝えることができるのだろうか。

言葉には出来ないけれど、思い出すのは、妻が息子を出産した時のことだ。周りからのパパたちからは事前に、出産は凄い神秘的だったよ!と聞いていて、とても楽しみにしていた。しかし、一切神秘さを感じなかった。むしろ、とても不思議な気分になった。理解できない現象すぎて、脳がフリーズしたのか、何も感じることができないような状態になっていた。

だって、不思議ではないだろうか。人の体から、人が生まれてくるのだ。頭がヒョイって出てきて。生まれたときには、五体満足で、その瞬間大声で泣く。呼吸も肺呼吸に変わる。そして生まれでた瞬間、母親のおっぱいを探して、おっぱいを見つけると、そこから母乳が出るなんて知らないのに、チュパチュパ吸い始める。

身体の中でだって、ある瞬間、手が生え、足が生え、心臓が鼓動し始め、すくすくと成長していく。そしてトツキトオカというほぼ不変の期間を経て、生まれでてくる。

これを、不思議と言わないで一体何と表現できるのだろう。そして一番不思議なのは、母親も、生まれるまで、子どもがどんな顔をしていて、声をしていて、性格なのか、全く知らないということだ。産んだお母さん自身が、自分から子どもが生まれたことに驚いているのだ。

僕は、この営みが、人類が始まるときから、いや哺乳類、更に前の、ひとつの細胞が細胞分裂を始めたときから連綿と続いていることを想像してしまう。すると、生命とは、そういうものなのであり、システムであり、ある種機械的にその営みをしてしまう生き物なのだ、という事実に直面する。

そして言葉を失い、思考を失う。

話を戻そう。作品が生まれるときの感覚というのも、これに近い。作品というと、何かを作っているし、創造的に生み出しているんだ、ゼロからイチを生み出すなんてかっこいい、と聞こえるかもしれないが、僕の場合においては、何かが生まれる度、生まれるように出来ているんだな、という感覚に陥る。

徹底的に作り込んで作っているはずなのに、生まれてしまった瞬間、自分は何も作っていないんだ、ということを思い知る。何かを特別にしたわけでもないし、もう、そういう生き物なのだと思う。人間は。人間が、人間を産み、育むことが出来るように、人間は何かを創造することができる。

人間が人間を生むという生命的な営みと、作品を創るという人工的な営みを並列して語っているが、僕は多くの人が思っているよりも、生命と非生命の境界はないのだろうと思う。概念的な違いでしかないのかもしれない。

そうして、自分たちから生まれた "作品" のはずなのに、それが何なのか生まれてみないとわからないし、生まれたものをみて、驚く、ということが起こる。

創造とはかくも不思議な現象だと常々感じる。人間の意識的な営みというよりも、生き物が、その中でも特に人間が持ってしまっている特性のようなものなのであろう。もう、人間は、そう出来てしまっている、そう感じざるをえない。

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芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…

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