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祈りには意味があるのか。

僕は、ふと祈ってしまうことがある。

友人の相談を聞いていて、人生の大切な局面ということで、その場で、目をつぶって祈ったら、人生で初めて祈られてびっくりした、と驚かれたことがある。

祈るという行為は、日本人にとってはとても自然な営みだ。いつ覚えるのかわからないが、神社にいくと、日本人はみな、自然と手をあわせて祈ってしまう。

しかし、祈られる、という体験はどうだろうか。記憶が正しければ、僕は人生で2度ほど、周りの人に、"祈ってほしい" とお願いをしたことがある。

どうしても叶えたい何かがあって、それに対してやれることすべてをやりきったとき。もう何もやれることは何もない、祈るしかない、そういった最後の局面で、祈りをお願いする。

僕は昔、祈りなんて何の意味もないと主張していた。祈る暇があったら何かの行動に移したほうがいい、そう考えていた。でも東日本大震災の現場に身を置き、世界には、人間にはどうしようもない現実が存在することを学んだ。

家族をなくした人、家族が津波で流されたけれども遺体が見つからない人。何をしようと、生きていた人は戻ってこない。もう、できることはない。そんなとき、意味があろうとなかろうと、人は祈ってしまう、祈らざるをえない、そんな事実に直面した経験だった。

先日、僕はたくさんの人に祈りをお願いした。以前住んでいた葉山のおうちの件だ。たくさんの人が、「祈っておきました」「祈りました」というコメントをくれた。

その度に、目をつぶってそれを感じるようにしているのだけれども、不思議と、身体があったかくなった感じがする。論理的には説明できないけれど、祈りが届いた、という体感覚が間違いなく存在している。温かい気持ちになり、嬉しさと同時に勇気が湧いてきて、もっと頑張ろうと思えてくる。もう少し正確に言うと、世界に身を委ねる勇気をもらった感覚と表現したらいいだろうか。

これらの自分の体験を振り返ると、祈りそれ自体に意味があるかなんて分からないし、分かる必要もないと思う。けれど、その人が、自身の大切な時間の一部を、自分たちのために使ってくれた、想いを馳せてくれた、その事実だけでいいのではないかと思う。

同時に、祈るという体験は、祈りが終わった後、清々しい気持ちになることがある。神社で手を合わせた後、誰かに祈りを届けた後、なにか、自分が一瞬空っぽになって、静寂が訪れる感覚。この時、祈るという誰かのための行為でありながら、実は自分自身がその静寂に癒やされているのかもしれない。少なくとも、僕はそうだ。

改めて、表題に戻る。

祈りには意味があるのか。

僕は客観的な効能という観点では分からないし、極論どうでもいいと思う。でも祈りには、祈る側にとって、祈られる側にとって、祈りそれ自体の意味ではなく、その営みの周りに、意味が生まれてしまう体験なのかもしれない。

皆さんは、祈りには意味があるのか、これにどんな回答をもつだろうか。たくさんの声を聞いてみたい。

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