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創る喜びと、受け取られる喜び。

作品を創る、という行為には、2つの喜びがある。

一つは、生まれてくる作品と出会える喜びだ。産みの苦しみの渦中でもう無理かもと思いながらも進み続け、それが生まれてきてくれる瞬間。あの喜びは言葉にし難い。とにかく、喜びとしか表現しようのないものだ。

もう一つある。それは、受け取ってもらえる喜びだ。僕は元々芸術分野には関わずに生きてきたので、歴史的な議論の変遷を一切知らずに書く。体感覚としての "作品とは何か" という話についてだ。

"作品" とは、基本的に、人が見て、触れられるものである。絵も彫刻も、映画も、すべて。しかし、"作品とは何なのか" という問いを出すと、よく分からなくなる。

"作品" を創り、人に、触れ、見てもらっていると、作品とは何なのかを決めるのは、受け取った人ではないか、という感覚がある。特に僕の関わる作品は、何か新しいものを作っているのではなく、世界にあるものを別の「メガネ」で見るような作品だし、もっというと「鏡」としての役割を担う作品でしかない。何かの強烈な世界観や感情を伝えるものではない。

ある意味、何者でもない作品なのだ。でもだからこそ、体験した人が意味を見出し、付加していく、そういった体験が起こる。

そうしたときに、作品とは何なのかを考えると、作品とは、1) 作品、2) 作品を体験する場、3) 体験する人、4) 3 の状態、の組み合わせの中で、その瞬間における "作品" が生まれるのではないだろうか。

つまり、作品は二度生まれるのかもしれない。一度目は、形としてこの世界に顕れる瞬間に。そして二度目は、人が触れ、受け取り、意味が見いだされた瞬間に。そして、このそれぞれに、"作品を創る" ことの本質的な喜びが存在する。だから、こんなに大変な営みをしてしまうのかもしれない。

喜びから始まったのに、作品とは何か、作品の誕生の話になってしまった。

何が言いたいのか。作品はそれ自体があってもしょうがなく、「受け取ってくれる人」が存在することで作品は存在するし、「受け取って」もらうことで作品に意味が生まれ、いのちが吹き込まれるのかもしれない。

こう考えると、作品の "作り手" と "受け手" の関係は非常に曖昧なものだということに気付く。詩を書いている時も、何かを受け取った時に、詩を書いている、という感覚がある。

そう思うと、何かのインスピレーションを受けて衝動的に作品を作ってしまうのも、"作り手" でありながら "受け手" でもある。同時に、作品を体験した "受け手" も作品にいのちを吹き込む "作り手" でもある。そう、こういった「概念」は人間の整理のために過ぎなくて、もっと真実はすべてが混ざり合っているし、混沌としているのかもしれない。

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芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…

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