人生で初めて、"描きたい絵"を描けた気がします。

僕は、
何を描こうとしたんだろう。
なぜこれを描いてしまったんだろう。

この絵を見て、何が見えますか?

僕は、数ヶ月前に、チームラボ出身で、生命の音色を描き出すアーティストとして活動している、中村しゅんすけくんと出会い、絵を描き始めました。

小さい頃は、嫌いで嫌いでしょうがなかった絵。真っ白なキャンバスを渡され自由に描きなさい、と言われるのが本当に嫌でした。それが教室に貼り出され、銀賞・金賞とかつけられて、コメントすらされない絵を描くことが本当に嫌でした。

でも、32歳にして…、しゅんくんと出会い、絵を描くってこんなに楽しいんだ!と、描く楽しさに気付かせてもらっています。今まで合計3回のセッションを受けていますが、1回目はスケッチブックに描きたい枚数だけ描き、2回目からキャンバスに描き始め、3回目に、1つ目の作品を描ききりました。

思考的には、今回の絵は、見た目としてかっこよくないなとか、美しくないなと思ってしまう自分がいる一方で、直感的に、今この瞬間に描きたいもの、描かなきゃいけないものを描けた気がするという、ある種の開放感と悦びの感覚がありました。

白いキャンバスに描き始めた2回目のセッションでは、瞬間のインスピレーションで好きなように描けたのですが、キャンバスに上書きをする3回目のセッションでは、はじめ手が止まってしまいました。

だから途中で、何を作るか、何を描くか、きれいなもの、かっこいいものじゃないといけないという思考を手放して、アクリル絵の具を塗り始めました。それでも、正直、なんか頭で考えちゃっている感じとか、きれいに絵をコントロールしようとしている感じに、ずっと違和感を抱えていました。

でも、ふと、しゅんくんが、一言、二言、ちょっとだけアドバイスをくれて、自分の手を動かしてみたら、あ、これかも!という直感が働き、そこからは一気に描ききることができました。

単に一枚の絵を描いたに過ぎませんが、僕にとっては大きな一歩です。

小さい頃は学校で、大人になってからは何かのワークショップで、形あるものを描くということを学んだことはありましたが、それは自分が描きたいものではなかった気がしています。その意味で、自分が描きたいものをただ描く、という行為は、この絵が初めてのことな気がするのです。

今は、創りたいものが創れたという喜びと、一方でもっと美しくできたはず、僕が描きたかったのはこんなもんじゃないという悔しさと、両方の感情が湧き上がってきました。

その後、この営みが終わった瞬間に、しゅんくんが僕に伝えてくれた言葉が本当に印象的でした。

「絵を描く上では、器を最初に作ることが大事。器がないのに、技術という重いものを先にのせてしまうと、器自体が歪んだり、壊れてしまったり。だから、描きたいものがあるという器があって初めて、技術に入るのが大事なんです。」

絵を描くという行為を通して、人が何かを学ぶ、という行為の本質を学ばせてもらっている気がします。また、こんな言葉ももらいました。

「いま、こうすけに絵を描くことをサポートしているのは、いうならば、今までは、A→B→C→...→Zと連続的に思考的に考えていた脳内のパスがあるとすると、直感的に A → Z に到達してしまうような、そんなパスの構築を手伝っているんだと思うんだよね。シナプスの新しい直感的繋がりを作っているとも言えると思う。」

また、更に一番初めのセッションで、彼が絵を描くって何かということを説明してくれたときの言葉がとっても響きました。

「絵を描くって、玉ねぎを剥くような行為だと思っているんだよね。玉ねぎって、一枚一枚剥いていくと、最後は中に何もないでしょ。絵も一緒。絵を一枚一枚描いていくと、色んな感情や記憶、思考といったものが出てくるんだけど、それを全部描ききった後、何もなくなったときに、何を描いてしまうのか。そこに本質があると思うんだよね。」

これまで通り、詩を書いたり、新しい作品を作りながら、新しく絵を描いていこうと思います。なるべく早く、絵の個展も開けるようになりたいです。絵と詩をセットにしたような展示もしたいです。

このしゅんくんのセッションは、僕の大切な友人・知人みんなに受けてほしいなと思います。絵がうまくなりたい、きれいな絵を描きたいではなく、人生において大切な一歩を、絵を通じて歩むこと、彼はきっとそれを横に居ながらサポートしてくれると思います。

さて、これから、僕は何を描いていくんだろう。
これから描く絵も、ぜひ楽しみにしていてください。

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