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生まれてしまう瞬間。

久々に、しびれる日々を送っている。

芸術家として生き始めて、何度か印象に残っているシーンがある。恐らく、多くのアーティストの方が聞いたら、アホか、と思うと思うのだが、僕は、展示やインスタレーションの1週間前まで、ひどい時は、数日前、いや朝まで最終的な作品と体験が決まっていない場合がある。

一番初めに行った、「地球、この孤独な生命展」は1週間前まで、何をするかまったく決まっていなかったし、最後の最後の体験は当日の朝の準備中に決まった。

その後も、kodou の取り組みの基盤となった、鼓動とともに時を刻む作品「コドウ時計」も、数日前まで、作品がどうなるか誰もわかっていなかった。

更に、鼓動をリアルタイムで光の線に変換し、20名程度が集まり、一つの急を創出する「we are alive」も、それを体験する旅の中で参加者の人と一緒に生まれてきたもの。

当日まで、それが何なのか、どういったものなのか分からない。いや、当日を終えても、正直何が生まれてしまったのか分からない、そんなことがある。

このプロセスを思い返して思い出すのは、息子が生まれた瞬間のこと。幸い、僕は出産までのプロセスをすべて一緒に妻といることができたのだけれども、実は息子が生まれた瞬間、神秘的な感情は何も沸かなかった。色々なパパたちから、神秘だとか、奇跡だとか聞いていたので、さぞどんな感想を自分が持つかと思いきや、そういった感動は一切なかったのだ。

ただ、「あ、生まれた…」という感覚のみが残る。自分の想像の外にある出来事に自分がついていけていないのかもしれない。そんな中、生まれてしまった、という事実に直面している自分。

いまもまさにそのような瞬間にいる。まったくもって、何が生まれてくるのかわからない。こんなとき、不安と怖れが襲ってくる。間に合うのかな、いいものができるのだろうか、小さくまとまったほうがいいのではないか。そんな感情と思考が身体を襲う。

それでも、そこで、耐え続けられるか、生まれてくることを信じきれるか、常にそこを問われる。子どもだって、トツキトウカを速めて受けるわけじゃない。生まれてしまうには必要な時間がある。けれど、それは生まれてしまうのだ。なぜかわからないけれど、生命はそうなっているし、きっと創造プロセスもそうなっているのだと思う。

とはいえ、怖い。このような状況においても、目の前のことに集中しきれるか、生まれてくることを信じきれるのか、そんなことを問われている気がする。創造的に生きるとは、芸術家として生きるとは、徹頭徹尾自分との戦いのプロセスなのかもしれない。

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