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インスピレーションの枯渇、という問題

外出を減らすようになり、早5ヶ月が経過した。そのおかげで、今までは見えていなかった、近所の公園の景色、子供が見つけるバスや生き物など、新しい発見がたくさんあった。

しかし、である。我慢し続けてきたけれど、もう無理だ。限界だ。詩を書けなくなってきたのだ。

僕にとっていい状態とは、詩が何もせずに溢れてくる状態である。ヒトに届けようとか、ヒトの役に立とうということでもなく、ただ詩が溢れてくる。これが一番いい状態だ。

詩を書く前に何らかしらのインスピレーションが必ずある。その一部が詩という形式を伴って表現される。詩を書けないとは、このインスピレーションが湧いてこなくなってきているということでもある。

僕は、インスピレーションが溢れてくる状態の本質は、緊張と弛緩の行き来にあると思っている。ただ緩んでいればいいわけではない。ずっと緊張していればいいわけでもない。この行き来の「狭間(間)」にいるとき、インスピレーションと出会いやすくなる。

よく、アイディアは、考え抜いて、一度忘れてシャワーを浴びているときにきた、といわれるのもそうで、緊張と弛緩の往復である。この観点で現状を眺めると、インスピレーションが湧きにくい構造に陥ってしまっていることに気がつく。

まず大前提として、正しく緊張するためには、正しく弛緩していなければならない。筋肉の構造がまさにそうだが、硬さが取れ、固まりがなくなり柔らかくなって初めて、力を入れられるようになるし、緊張できるようになる。

思うに、今までは、仕事の間の「移動時間」がこの弛緩の時間に相当していたのだろうと思う。歩く時間、電車で待つ時間、これが生活に「間」を作っていたけれど、これがなくなってしまった。結果、弛緩しきれないため、集中力も落ち、生産性も下がりやすくなってしまう。

第二に、旅が減ったことだ。旅の本質には、異なる文化や価値観との出会いがあるが、僕は旅の中の、長い移動時間が最も創造的な時間となる事が多い。旅をしていても、常に何かを考えている。異なるものと出会うことで現状がメタ的に認知される。そして、ぽろっと何かが落ちてくる。旅の移動時間とは、日常と非日常の狭間であり、緊張と弛緩の狭間にある。

第三に、物理的な現場の減少だ。正しい緊張とは何かというと、「現場」と「締切」がもたらしてくれるプレッシャーにある。それまでに間に合わせなければならない、創りきらなければならない、そして人に体験を届けきらなければならない、その現実が、圧倒的に集中力を高めてくれる。

現状、オンラインをベースとした新しい作品にも挑戦しているが、やはり、物理的体験とは、その現場から受け取ることのできる情報量が違うなと思う。なにか、あの現場のヒリヒリした緊張感が感じにくいのだ。

このように、緊張と弛緩のバランスが崩れてしまっていることによって、インスピレーションが湧く瞬間が減り、結果的に詩をかけなくなってしまっている。だから、まずは旅をする時間を増やすところから初めていきたいなと思う。

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