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失われていく、言葉。でも、言葉と友達でいたい。

最近、言葉に出来ないことが日に日に増えてきている。詩に見えるものはよく書く。けれど、日常的に言葉で表現することができなくなっている。世の中的には、メッセージを明確にしろ、と言われるけれども、言葉に出来ないことが多すぎる。

とくに、意識の深いところに降りようとしているとき、何か自分の中の静寂に触れようとしているとき、言葉にすることが致命的にできない。身体で感じていることに対して、言葉というフォーマットが持つ限界を感じる。

思考よりも先に身体が反応している、という感覚だろうか。なにをやりたいの、と問われる前に始めてしまっているし、なにが目的なの、と問われる前に始めてしまっている。

ただ、ふと立ち止まったとき、体験を積み重ねたときに、言葉がすっと降りてくることがある。その瞬間が、僕は好きだ。ここまで書いて一つ気づいたことがある。

言葉と僕の関係性が、言葉で考えるという、言葉を "道具" として認識する考えから、言葉という "意識" を持った存在と付き合っている感覚に変化したのかもしれない。言葉は、僕の思ったようには動いてくれないし、顕れてくれないし、なにを考えているのかわからない。でも、たまに通じ会えた気がするときがある。まさに、友達のような存在だ。

そしてその瞬間、僕が身体で感じているごく一部が、詩、という形として現れてくるのかもしれない。だから、言葉を失っても、言葉と友達でいたい。

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