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言葉の意味-リアリスト

 菊池寛を評する小林秀雄の云うことに、彼は大のお化け嫌いだがよおっくその手の類の皆さんに遭遇したらしい。果ては、一緒に取材旅行などと称して出版社の担当や同業者が同行して旅館などに泊まると、菊池さんが居るから、ここは出るよ、などという逸話まで生まれていたそうだ。

 そんな取材旅行の一環である時ある宿屋に泊まったその晩も、菊池さんはなんだか凄くイヤな感じがすると言っては恐がっていたらしく、恐いから先に寝てしまおうと同行仲間で盛り上がっていた大好物のマージャン大会を尻目に、一人先に部屋に篭りしっかり扉の鍵をかけ布団に潜ってふて寝を決め込んでいたそうだ。そうしたら、やがてどうも菊池さんの部屋から呻き声が聞こえると騒ぎになり出した。

 当の菊池さんは、布団がずっしり重かったらしく寝苦しくてうんうんと唸っていたそうだが、その唸り声がどうも尋常じゃない風に思えて、隣室の同行仲間達が心配になり菊池さんの部屋の扉を叩き出した。
 「菊池さん、菊池さん、大丈夫ですか?!」

 そんな問いかけをよそに菊池さんの呻き声がやがて悲鳴じみてくる。
 こりゃ大変だというので、仲間内で宿屋の主人に鍵を開けてもらえるように頼み込む。

 もどかしく鍵を開くのを待ちながらさあ開いたぞと部屋に皆で雪崩れ込むと、そこにはむくむくした黒い男に馬乗りにされている菊池さんがジタバタともがきながら寝ていたそうだ。
 そしてとうとう目が覚めた菊池さんは、男を見るなり、
 「あんた、そんなに汗かいて、ネクタイ苦しくないか?」と尋ねたんだそうだ。

 その一連のやりとりにあんまり毒気を抜かれて、一同がポカンとしている間にむくむくとした黒の男は何処かに消え失せた。皆で雪崩込み人集りになっていた部屋の扉を通った姿を見たものは誰もいなかった。

 小林秀雄は幸か不幸かこの一連の騒動に立ち会えなかったらしいが、小林は、本当のリアリストというのはこの菊池さんのような人を云うんだと力説していたのである。

 これは昔読んだ小林の、菊池寛の人物評だが、自分はこのリアリストの定義が酷く気に入り、以来そう思うことにしている。話の端々は違う表現もあったかもしれないが、こういう趣旨だったはずで概ねあっていると思う。

 誰が本当のリアリストなのか、そのジャッジは、菊池さんの上に馬乗りになっていた黒の男しかきっと出来ない。

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