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髙橋大輔

 あれは2003年だったろうか。
 その冬の暮れも押し迫ったころ、私は古い友人とともに札幌の何とかいう体育館にいた。
 当時、2002年シーズン初頭を持って現役スケーターとしての引退を余儀なくされたアレクセイ・ヤグディンが日本のアイスショウに出演するというので私達は勇んでこの北の地に駆け付けたのだ。

 その頃の日本フィギュアスケート界は、日本人スケーターだけで人を呼べるような状況には程遠く、海外の名のあるスケーターを招聘してその人気に肖るようにアイスショウを行っていた。
 日本スケ連はそこに強化選手を帯同させ、プロレスの地方興行顔負けの場末とドサ回り感が漂う巡業公演をしながら名スケーターと滑る経験を積ませ、日本のフィギュアスケートとスケーターを知らしめるため辛抱強い広報活動に励んでいた。
 このとき帯同していたスケーターにまだ高校生だった髙橋大輔がいた。

 照明の落ちた場内の、アイスショウにしては乏しいライティングの仄暗いリンクに、茫とした光彩を纏い登場して来た髙橋は、暗闇の中でもはっきりとわかる強い光を湛えた眼を持ち、しかし怯えるように、震えるように、どこか一点をひたむきに見つめながらスティングの“Desert Rose”に乗って滑り出した。
 あれは、本当に日本男子フィギュアスケートという世界で開き始めた砂漠の薔薇だった。

 髙橋は、今では説明する必要もない2002年ジュニア・ワールド日本人初の優勝を果たし、将来を嘱望されたスケーターだった。
 とはいえこの実績を携えてもあの札幌では、私も含め観衆のほとんどはヤグディンを観に来ており、大方は真打登場を待つ間の繋ぎをみる面持ちで他のスケーターを観ていたと思う。
 そんな疑似アウエイな空気のうちに暗いリンクへ漕ぎ出した髙橋は、何を見つめ何を想っていたのだろうか。

 やがて女子フィギュアスケート人気が、2006年荒川静香のトリノ・オリンピック金メダル獲得を機に、その後の安藤美姫、浅田真央らの活躍で決定的になった。
 その隆盛をしり目に見つめていた髙橋は後年、クソっと思いながら男子フィギュアスケートの人気もいつか高めたいと思っていたと語っている。

 男子フィギュアスケートは、1977年、日本人初のワールド銅メダルを決めた佐野稔から徐々に国際大会で表彰台に上る機会を増やし、GPSNHK杯を振り返れば、五十嵐文男、加納誠がつなぎ、静かに頂点を目指す闘いが引き継がれて行った。


(東日本を拠点に佐野稔ら多くの選手を育てられた都築章一郎コーチと2012年ワールド・ペア銅の元日本代表、高橋成美の対談。)


 そして、常に台上を狙える力を備えた本田武史が登場する。本田には幸いに1人が孤軍奮闘するのではなく、互いに競い合える田村岳斗という強い選手も同時代にいた。
 この頃から、恐らくは国内で国際大会出場の代表権を勝ち得るたった1人の選手をエースと呼ぶようになる。

 フィギュアスケートの、国別の強さを見る至極簡単な方法に国際大会の選手出場枠数がある。
 日本男子は、ワールドでは鍵山正和、本田武史らの奮闘で1枠だった出場枠を2枠へと常時確保できるようになって行った。
 しかし、2005年ワールド、翌年のトリノ・オリンピック出場枠のかかるこの大会で、本田が怪我で途中棄権したことにより、ともに出場した髙橋1人に枠取りの重責がかかることになる。
 そして周知の通り髙橋は総合15位に終わり、日本男子トリノ・オリンピックの出場枠は、1枠となった。

 世間がどう騒いでいるのかはどうでもいい。
 髙橋大輔が本田武史を見て、経験して、体感してきたエースというのは、この無常に定められた重責を1人背負う者だったはずだ。
 羽生結弦は2014年ワールドの後、当人に向けられた、エースは誰か?というようなメディアの質問をぶった斬るように、日本男子チームは誰もが強い、そこにもうエースはいなくていい、興味もないと言い切った。
 これは、言うまでもなく、日本男子フィギュアスケートチームが長い時間をかけて、国際大会の出場枠最大の3枠を常に確保出来る力を得た、とても強いチームになったということで。

 そう、髙橋大輔は、日本男子フィギュアスケート界でエースと呼ばれた最後の男になっていい。
 羽生結弦は、もう2度と、髙橋大輔以外に、誰にもあの無常のエースを名乗らせまいと、そうあり続けられるようにと、きっと歩んで行く。

 そして、強くなればその人気も綺麗に比例して高まる。髙橋や引退した織田らがあの札幌のアイスショウを滑っていた頃から、女子フィギュアスケートと肩を並べる人気に押し上げることを誓い合っていたかは知らない。
 けれどもその軌跡を思い起こせば明らかなように、彼らは長く地方も回りながらファンに笑顔を届け、様々な思いを笑って受け止め続け、今の日本男子フィギュアスケートの人気を獲得して来たことは疑い様もない。

 それでも私は今でも忘れることはない。
 髙橋大輔が、仄暗いリンクで異様な光を放ち、キラつく眼で、そしてたぶんは震えながら滑っていた砂漠の薔薇を。



※ この記事は、2014年4月に書いたブログ記事を加筆・修正したものです。





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