人ごとに祈るつよさの違ふこと噴水の影われを打てども /藪内亮輔『海蛇と珊瑚』

人ごとに祈るつよさの違ふこと噴水の影われを打てども /藪内亮輔『海蛇と珊瑚』(角川文化振興財団、2018年)

「祈る」という行為は、特定の信仰を持つにせよ持たないにせよ、どちらかといえば肯定的に捉えられるものです。ある人が、他人に対して何かを祈るとき、それは好意に近いもの(「幸福を祈る」)ようなものとして理解されます。それが定型文言として使われる(たとえば就職への応募を拒否するときに)ことが感情的な嫌悪を引き起こすものでもあります。

 しかし、この歌ではそのような「祈り」には「つよさ」の「違」いがあると言います。ふつう定量化しないものを定量化することで、俄然、本当は見たくなかった何かが見えてきてしまう、という機制がそこに働いているようです(たとえば、感謝の度合いを金額でランク付けするようなものです)。
 「人ごと」の主体/客体の関係は未確定です。自分が、それぞれの他者に対して祈る「つよさ」がそれぞれ違っているのかもしれないし、それぞれの他者が自分に対して何かを祈っている「つよさ」が違うのかもしれない。あるいは、それぞれがそれぞれの祈る対象を持っていて、その強さが違うのかもしれません。そのいずれをも未確定のまま包含できるのは、そもそもそれぞれ強さが違うような、バラバラなものが「祈り」としてとらえられているからでしょう。

 そこから下句の「噴水」に移るわけですが、あちこちの「噴水」の水の噴出の程度にもそれぞれ強弱があります。しかし、ここで「われ」は「噴水の影」に打たれているわけですから、該当する噴水は一つです。だから、その噴水それ自体の噴出の程度はおそらく一定です(「影」が「打」つ、という表現からは、一つの噴水が強くなったり弱くなったりを繰り返しているという動的な印象は与えられません)。それゆえ「打てども」という逆説で上句と下句が結ばれており、祈る強さの強弱と噴水の一定の噴出に対比関係があるように読めます。
 一方で、ここにあるのはあくまで噴水の「影」です。対比的に、上句の「祈り」もまた、「われ」には「影」として感得されるものなのではないかという印象が生じます。実際の噴水もよく見れば複雑な水の流れからでき上がっているものですが、一本の水の柱としてみれば平均的に同じ高さに噴き上がっており、それは「影」を作ることができるものです。強弱を持つそれぞれの「祈り」もまた、それぞれに複雑な力関係の中から生み出されてくるけれども、その対象に届くときには結果としての強弱しか、つまり「影」しか伝わらない。

 そう考えると、結果的には「弱い」祈りであっても、あるいは祈り手にとっては、噴水が重力に逆らって噴き上がるごとく、何かを振り切って祈っているのかもしれない。そのことに思いを致しつつ、しかし、そのことを受け取ることの難しさが、この歌からは感じられるように思います。

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