松澤もる

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人ごとに祈るつよさの違ふこと噴水の影われを打てども /藪内亮輔『海蛇と珊瑚』

人ごとに祈るつよさの違ふこと噴水の影われを打てども /藪内亮輔『海蛇と珊瑚』(角川文化振興財団、2018年) 「祈る」という行為は、特定の信仰を持つにせよ持たないにせよ、どちらかといえば肯定的に捉えられるものです。ある人が、他人に対して何かを祈るとき、それは好意に近いもの(「幸福を祈る」)ようなものとして理解されます。それが定型文言として使われる(たとえば就職への応募を拒否するときに)ことが感情的な嫌悪を引き起こすものでもあります。  しかし、この歌ではそのような「祈り」

    • 反故を裂き密かに作るメモ用紙きりえきりえと音を立てつつ /門脇篤史『微風域』

      反故を裂き密かに作るメモ用紙きりえきりえと音を立てつつ /門脇篤史『微風域』(現代短歌社、2019年)  現代日本において、ほとんどの書類はA4で作成されます。そのA4用紙の反故を二枚、ないし四枚に切り裂いて、裏面をメモ用紙として用いること。そうした紙自体はよく見るもので(たとえば図書館の検索コーナーの横に、検索結果の請求記号をメモするための用紙として置かれていたりします)、また、私自身も個人的にそのようにメモ用紙を作ることはあります。その点で、上句で表現されていること自体

      • 墓場まで持つていけずにたいていのことは喋るか忘れるだらう(橋場悦子『静電気』、本阿弥書店、2020年)

        墓場まで持つていけずにたいていのことは喋るか忘れるだらう(橋場悦子『静電気』、本阿弥書店、2020年)  この一首を含む連作や、歌集中の他の歌から、作中主体はなんらか守秘義務の強くかかる仕事に就いているであろうことが推測される、そのような並びのなかでの一首ですが、「墓場まで持っていく」という言い回しは、なんらか秘密な事柄にかかる形容の表現として一般的なものですから、そうした並びを離れて読むこともできるでしょう。この歌自体、「喋るか忘れる」の主語は作中主体なのか、あるいは主体

        • 2023年 短歌2年生の記録

           「短歌1年生の記録」を書いた時には半信半疑だったのですが、一年後の現在もなおわたくしは短歌を作ったり読んだりしています。というわけで、2023年、短歌2年生の活動記録です。 『かばん』  引き続き『かばん』に毎月何かを提出し続けることに成功。8月号でははじめて前号評(6月号の評)を担当しました。一首評の集まりとはいえ、いまのところ短歌について書いた散文の最長記録。それから「かばんネプリ」にも参加。 新聞投稿  新聞投稿を始めました。「毎日歌壇」の水原紫苑さんの欄に5

        人ごとに祈るつよさの違ふこと噴水の影われを打てども /藪内亮輔『海蛇と珊瑚』

          ゆつくりと冷たく腐る冷蔵庫の奥で李も桃も愚かな王政も(睦月都『Dance with the invisibles』角川書店 2023年)

          ゆつくりと冷たく腐る冷蔵庫の奥で李も桃も愚かな王政も 睦月都 『Dance with the invisibles』角川書店 2023年 所収  韻律でみると、大きく字余りをしている一首です。一首を読んだ後で、とりあえず意味を取って区切ってみると、  ゆつくりと冷たく腐る/冷蔵庫の奥で/李も桃も愚かな王政も と三つの部分に分かれるように思えますが、順番に読んでゆく際には初句・2句は定型で入るので、そのあとの「冷蔵庫の奥で」が、「冷蔵庫の」で3句6音なのかと感じ、そのあとに

          ゆつくりと冷たく腐る冷蔵庫の奥で李も桃も愚かな王政も(睦月都『Dance with the invisibles』角川書店 2023年)

          スリッパを廊下のふちにかさね置くすぐそこにいる不在のために /安田茜『結晶質』

          スリッパを廊下のふちにかさね置くすぐそこにいる不在のために(安田茜『結晶質』書肆侃々房、2023年)  一読、「すぐそこにいる不在」という逆説的な表現の印象が強い一首ですが、この強いフレーズが置かれている一首の組み立てもまた魅力的です。  全体の骨組みを見るならば、この歌は「スリッパを~置く、~のために」という構造をしています。つまり、スリッパを特定の目的のために〈準備している〉という立て付けです。ところが、この準備行為が、あらゆる要素で逆説的なのです。  二句目、「廊

          スリッパを廊下のふちにかさね置くすぐそこにいる不在のために /安田茜『結晶質』

          声をうばふ、死ぬまで奪ふ 燃え尽きるまでが翅とふかつての訓(をし)へ(濱松哲朗『翅ある人の音楽』典々堂、2023年)

          声をうばふ、死ぬまで奪ふ 燃え尽きるまでが翅とふかつての訓(をし)へ(濱松哲朗『翅ある人の音楽』典々堂、2023年)  歌集と同一名の連作のなかの一首です。連作はさらにいくつかの部分に分かれていますが、そのなかの、歴史上の何らかの大火と関わりがあるように読める部分(7首から構成)におさめられてます。この部分には「人ツテノハ、トラウマヲ乗リ越エテ成長スルモノダラウ?」(「トラウマ」に傍点)という詞書が付されています。私はこの一連全体から大変強い印象を受けましたが、その中から掲

          声をうばふ、死ぬまで奪ふ 燃え尽きるまでが翅とふかつての訓(をし)へ(濱松哲朗『翅ある人の音楽』典々堂、2023年)

          この都市が遺稿であらば避雷針は未来推量のごとくするどし/鈴木加成太(『歌集 うすがみの銀河』、角川書店、2022年)

          この都市が遺稿であらば避雷針は未来推量のごとくするどし/鈴木加成太(『歌集 うすがみの銀河』、角川書店、2022年)  「都市」と「いこう」言えば、「遺構」という文字の組み合わせが連想されるでしょう。すでに都市ではなくなり、考古学的探究の対象となる「遺構」です。それを、この歌は「遺稿」であると言います。ちょっとした言葉遊びのようでもありますが、「都市」が「遺稿」であるか「遺構」であるか、によって都市が位置する時間軸上の位置は異なってきます。  都市が「遺構」であるとき、都市

          この都市が遺稿であらば避雷針は未来推量のごとくするどし/鈴木加成太(『歌集 うすがみの銀河』、角川書店、2022年)

          みかん色の灯のつく町にかえりくるこんにちの死をパスした人ら(杉﨑恒夫『パン屋のパンセ』、六花書林、2010年

          みかん色の灯のつく町にかえりくるこんにちの死をパスした人ら(杉﨑恒夫『パン屋のパンセ』、六花書林、2010年)  「生と死は隣りあわせ」という表現がありますが、これは、現実にそうである、そのような局面があるというだけではなく、論理的なものでもあります(あるものは同時にAおよび非Aであることはできない、という排中律的な)。一方、生と死のグラデーション的なものを考え、そこから詩的な想念を展開させた優れた表現も多くあると思います。やや先回りして言うと、この一首を、私は「生きている

          みかん色の灯のつく町にかえりくるこんにちの死をパスした人ら(杉﨑恒夫『パン屋のパンセ』、六花書林、2010年

          近代の長き裾野の中にいて恍とほほえみ交わすちちはは(服部真理子『遠くの敵や硝子を』)

          近代の長き裾野の中にいて恍とほほえみ交わすちちはは(服部真理子『遠くの敵や硝子を』、2018年、書肆侃侃房)  この歌については一首評というほどのことは書けず、すごいなあといつも思うので、覚書までに。  とりあえず想起することは、「ちちはは」と結びつけられる「近代」は、いわゆる「近代家族」―職住が分離し、しばしば男性稼得者(賃金労働者)と専業主婦という性別役割分業を伴い、育児をその中心的役割として担うような家族―の「近代」なのかな、ということです。  参照)落合恵美子『

          近代の長き裾野の中にいて恍とほほえみ交わすちちはは(服部真理子『遠くの敵や硝子を』)

          記憶より記録に残っていきたいと笑って投げる冬の薄を(堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』)

          記憶より記録に残っていきたいと笑って投げる冬の薄を(堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』、港の人、2013年)  「記録より記憶に残る」は、スポーツ選手を評して、ポジティブに用いられることの多い表現です。数字ではなくて、人の心に刻み込まれる活躍をした、そういった意味合いでしょう。しかしこの歌ではそれが逆転し、「記憶より記録にのこっていきたい」ということが述べられています。  このことは、このように言っている発話者(そのように述べているのが作中主体なのか、それとも、作中主体のまえ

          記憶より記録に残っていきたいと笑って投げる冬の薄を(堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』)

          糾弾はたやすい、けれどそのあとは極彩色のしずけさなのだ(大森静佳『ヘクタール』、文藝春秋、2022年)

          糾弾はたやすい、けれどそのあとは極彩色のしずけさなのだ(大森静佳『ヘクタール』)  読点があるかないかでだいぶ違う印象になるのではないかと読みました。「糾弾はたやすいけれど」と一息で言ってしまえば、「糾弾がたやすい」ことは自明のようで、そのあとが逆説でつながるという文字通りの意味に受け取れそうです。しかし、「たやすい」で切って読点を打ったことによって、「糾弾はたやすい」ですでに息切れして、ようやく「けれど」と言葉を継いだようで、「実は、糾弾、たやすくないのでは?」という一瞬

          糾弾はたやすい、けれどそのあとは極彩色のしずけさなのだ(大森静佳『ヘクタール』、文藝春秋、2022年)

          2022年、短歌1年生の記録

           2022年の元旦にはまったく予想もしていなかったことに、2022年、わたくしは短歌を作り始めることになりました。  きっかけは、定期巡回先であり、いまや建て替え作業に入ってしまった三省堂神田本店で、平積みになっていた川野芽生さんの歌集『Lilith』を手に取って、購入したことです。おそらく1月の終わりごろ。そしてわたしは、「短歌はすごい」と思ったのでした。  なぜ『Lilith』がわたくしに短歌へ目を向けさせるきっかけとなったのか、それを文章にするにはまだ時間がかかるで

          2022年、短歌1年生の記録

          鳥が云ふ誰にとつても祖国とはつねに真冬が似合ふものだと(山田航『さよならバグ・チルドレン』、ふらんす堂、2012年)

          鳥が云ふ誰にとつても祖国とはつねに真冬が似合ふものだと(山田航『さよならバグ・チルドレン』、ふらんす堂、2012年)   初句の「鳥が云ふ」、いきなり鳥がしゃべり始めるという唐突感から始まります。以下、結句の「と」以前は鳥の台詞ということになるわけですが、「誰にとっても」「つねに」という包括的な言葉、「祖国とは」という定義的表現からは、鳥と一対一でしゃべっているというよりも、文字通り鳥瞰的に、上空から鳥がそのように「宣わって」いるところを想像しました。  そして、「真冬」と

          鳥が云ふ誰にとつても祖国とはつねに真冬が似合ふものだと(山田航『さよならバグ・チルドレン』、ふらんす堂、2012年)

          少女には帽子さみしさには制度 枝の隙間の空を見上げる(笠木拓『はるかカーテンコールまで』、港の人、2019年)

          少女には帽子さみしさには制度 枝の隙間の空を見上げる(笠木拓『はるかカーテンコールまで』、港の人、2019年)  上の句は、少女―帽子/さみしさ―制度という二つの対からなりますが、韻律としてしてみると二句が帽子―さみしさになっていて、二句・三句が句跨りになっています。少女―帽子という、ステレオタイプな組み合わせに、さみしさ―制度という意外な組み合わせを対置することが驚きを生むわけですが、少女―帽子―さみしさであれば実はそれほど意外性はありません。その三つのあとに、句跨りを通

          少女には帽子さみしさには制度 枝の隙間の空を見上げる(笠木拓『はるかカーテンコールまで』、港の人、2019年)

          雪柳てのひらに散るさみしさよ十の位から一借りてくる(服部真理子『遠くの敵や硝子を』(書肆侃々房、2018年)

           上の句は「ゆ」ではじまり、「よ」で終わります。「や」行のやわやわとした感じが、雪柳の姿を際立たせているようです。一方で、それは手のひらで散ってしまいます。手のひらに置いたから散ってしまったのでしょうか。手のひらに置いた自分を責めているようでもあり、自分のものにならないからこそさみしい。  そこで作中主体は「十の位から一借りてくる」といいます。下の句はぐっと抽象度があがるところに魅力を感じました。韻律的にも第四句は8音で、実際にどこかから一借りて来ているようでもあります。こ

          雪柳てのひらに散るさみしさよ十の位から一借りてくる(服部真理子『遠くの敵や硝子を』(書肆侃々房、2018年)