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持続可能な腹持ちを目指して

学生の頃、昼ごはんを食べても夕方には死ぬほどお腹がすいていた。

空腹は生理現象であり、至って健康な若者の証であるが、マツザワは空腹によりしばしば狂暴化していた。
間食をすればいいだけの話ではあるが、なんとか昼飯の満腹感を持続させ、内なる獣を抑え込み、心の平穏を保つことはできないかと考えあぐねていた。

まずは、いつもと同じ昼食の量でより満腹感を得るために、よく咀嚼してみようと考えた。
しっかり噛むことで脳の満腹中枢が刺激され、満腹感が得られるというのはありきたりではあるが、なかなか実践には及ばぬセオリーである。

マツザワは噛んだ。必ず、かのマツザワ邪知暴虐化の元凶である空腹を除かねばならぬと決意し、噛んで噛んで噛みまくった。
もはや食べ物の原型をとどめぬ領域に足をふみいれると、なるほど顎のほどよい疲労感とともに脳から「もうそろ噛まなくてええんやないかぃ。。?」というある種の危険回避行動ともとれる信号が送られてきた。
これが満腹中枢が刺激されたことによる満腹感か。

そこからは、しばらく何かを食べたいという衝動にかられることはなかった。

しかし、何か腑に落ちなかった。

なんか、騙されてないか?

いつもよりもすげぇ噛んだだけで、食べている量は一緒だ。
しかも、よく噛んだから消化がよくなって、いつもよりお腹すくの早くねぇか?

そこで今度はいつもより噛まないことを心掛けた。
さすがに丸飲みは食べ物に対してのリスペクトを欠く気がしたのと、技術的に限界があったため、もう少し味わいたいな~くらいのところで飲み込むことにした。

食後のひもじさは異常であった。
いつもよりも早く飯が終わる上に、まだ食べたいという気持ちがこの上ない。
自分まだいけます、とマツザワの全細胞が叫んでいた。

早食いは太るというのはおとぎ話でもなんでもない実話であった。
しかも腹持ちもたいしてよくはなかった。普通にいつもと同じ時間に腹が減った。
丸飲みと早食いは百害あって一利なしということを学んだ。

そんなこんなで、当時の命題「よく噛むことと、よく噛まないこと、どちらの方が満腹感を持続させることができるか」という問いの解は、どちらも大して効果がないと乱暴に結論づけられ、濃霧の中に葬りさられることとなった。

今考えれば、満腹感を得ることと、満腹感を持続させることは目的が違うので、そもそも本仮説の設定には破綻がある。
マツザワが叶えたいのは、腹がすかない状態を維持することであり、一時的な満腹感を得ることではない。
咀嚼回数でこの問題を解決しようとすることは適切ではなかったといえる。

仮説設定の破綻に気づいたとはいえ、いまだに腹持ちがいいと実感できる食事に出会えていないと思っていた矢先、先日昼飯にココイチのカレーを食べた。
すさまじい腹持ちの良さであった。
外が暗くなっても、おやつすら食べたいと思えなかった。
なんなら今日夕飯抜きでもいいやと思える程であった。

おそらく、それは胃もたれではないかという意見も無論あろう。
マツザワも多分そうだと思う。
ここであることを思いつく。

腹持ちがいい⇒胃もたれ 偽
腹持ちがいい⇐胃もたれ 真

この状況では、腹持ちは胃もたれの必要条件であり、
胃もたれは腹持ちの十分条件である。

しかしこれならどうだ。

腹持ちがいい⇒胃もたれ 真
腹持ちがいい⇐胃もたれ 真

つまり、腹持ちは胃もたれの必要十分条件となる。

腹持ちがいいことと胃もたれは一見別物のようにみえて、
実は同じことなのかもしれない。
満腹が続いている状況をポジティブにとらえるか、ネガティブにとらえるか。
たったそれだけのことなのではないか。

もし、腹持ちがいいことが胃もたれの必要十分条件であるとするならば、
究極の腹持ちのいい飯とは量ではなく、咀嚼回数でもなく、質、いや、胃もたれを伴ってしまうような脂質なのかもしれない。

すなわち、ジャンクこそが至高である。(論理の飛躍)

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